夏目漱石「行人」考察(37)直は「いとしこいし」である
大正元年(1912年)連載の夏目漱石の小説「行人」。
主人公:長野二郎の嫂(兄嫁)である「直」は、二郎に対して誘惑まがいの言動を繰り返している。
1、直の誘惑(まがい)
1(1)愛嬌
まず、和歌山で二人で出掛ける場面
この時点で互いに共犯関係を確認するかのような会話をしている。
そして移動し、和歌山の料理屋(風呂があり浴衣の用意もある。ついでに古い梅もある)における二人の会話
この女性が少し前の章では、「持って生まれた天然の愛嬌はない」(二郎)、「一体直は愛嬌のある質じゃないが」(綱)と評されていたのである(「兄」十四)。
ここだけ見ればむしろ十二分に愛嬌を振りまき、からかいも見せている。
1(2)「二郎さん」の前で涙を拭わない
上に続く会話
直はこの前までは二郎をほとんど「貴方」と呼んでいたのだが、ここにきて「二郎さん」呼びが急に3回も出て来る。
そして直前まで二郎を上から目線でからかっていたところを、涙をぽろぽろこぼしだすというギャップも見せつける。
さらに言えば、「涙をぽろぽろと落した」との表現は、直があえて涙を拭うことをせず、自身の涙が落ちる様を二郎に見せていることを示している。
1(3)直と「いとしこいし」
この後には涙を拭った描写がある。
直は、まず「涙をぽろぽろと落」す様子を二郎に見せつけておき、その後で手帛(ハンカチ)で拭ったということか。
さっきまで上から目線でからかっていたのを、急にしゃくり上げて泣く様子を見せているのである。
話は飛ぶが、大昔の兄弟漫才コンビに「夢路いとし・喜味こいし」という芸人がいる。通称は「いとしこいし」で、ナインティナインのラジオ番組では「いとこい師匠」としてネタにされていた。
十五年~二十年ぐらい前、この漫才コンビの弟である「こいし」が、NHKの生放送に出演していた。無論老人になっている。
その番組で知ったのだが兄の「いとし」が亡くなっており、しばらく二人の往年の漫才のVTRが流れた。それが終わって生放送のスタジオに画面が切り替わった際、どこかを正面から見つめているような「こいし」の目尻から太い筋の涙が流れていた。こいしは微動だにせず涙だけが頬をつたっていた。スタジオは静まりかえっていた。
数秒間ほどその顔をカメラがアップでとらえた後、「こいし」は涙をぬぐって「自分の漫才見て泣いたら世話ないな」とつぶやいた。
夏目漱石「行人」の直から、これを思い出した。
「こいし」は嘘泣きではなく本当に泣いていたのだと思う。だが同時に、あえて涙を拭うことはせず、VTRから切り替わった生放送のカメラが自身の顔をとらえ、涙が流れている映像をアップでしっかり映したであろうタイミングを見計らって、その後にはじめて涙を拭ったのである。これがTVのプロなんだと思った。
この話を書く際に検索してみたが、既に13年も前に「こいし」も亡くなっていた(2011年没)。
1(4)ハンカチと涙の間に
話を「行人」に戻す。
「涙をぽろぽろ落とし」「しゃくりあげて」いた直が、急に「二郎さん」とおそらく語気強めに呼んできたと。
そして二郎は「恰も磁石に吸われた鉄の屑のように~釣り出された」と。直に完全にコントロールされている。
(いやこれは二郎が「自分は嫂に完全にコントロールされていたのである」とわざわざ文学的表現を用いてアピールしてるのか?)
しかし「手帛(ハンカチ)と涙の間から、自分の顔を覗くように見た」とはよくわからない表現だ。「目を拭うハンカチの横から覗くようにー」であればわかる。しかしハンカチと涙との間に目があるとは、どういった状況か。
【目 - 涙 - ハンカチ】 この位置関係であればわかる。しかし
【ハンカチ - 目 -涙】と書いているのだ。
え? 涙のないところを直はハンカチで拭っているということ?
あるいはこの時もまだ直は、涙を拭いつつも二郎に涙を見せつけることを続けていたということか。
そして「二郎さん」と短く呼びかけた後、「貴方」呼びに戻る。
さらに「妾が兄さん以外に好いてる男でもあると思っていらっしゃるの」と、直は話を恋愛方面に移す。それまでは世間話や夫婦関係話だったところを変動させたのだ。
1(5)記憶の共有を確認
そして直は、一言から連想される記憶が二人にあることを確認させる。
ここで直は、「他から親切だって賞められ」たと言うことによって、下記の展開となることを確信している。
①「親切」と褒めたのは二郎、②それは直がクッションに縫い付けをしてあげたこと、③それを二郎が大事に持ってる事、④「親切だってほめられた・あれ」これだけで二郎は①から③を想起して話が通じること
「共有した楽しい記憶がありそれは一言二言だけで通じる関係性の二人である」このことを、直が二郎に確認させているのである。
2、直の誘惑まとめ(料理屋)
以上見て来たように、直は二郎に対し
①愛嬌のあるからかい、「二郎さん」呼び多用
②涙をぽろぽろこぼす(拭わずに)、しゃくりあげる
③急に語気強めに「二郎さん」
④「他に好いてる男でもー」と恋愛めいた話
⑤共有の記憶を一言で想起し合える関係性であることを確認させる
こういった二十面相めいた様々な感情を見せることにより、二郎を完全に翻弄している。
しかし何度も指摘するが、「三四郎」の里見美禰子と同様に、どれだけ誘惑めいた言動を繰り返しても、直接好意を伝えたり直接の性的接触は、全く一回もみせないのである。
料理屋だけでだいぶ時間を潰してしまった。「誘惑の直」の考察続ける予定です。
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