夏目漱石「行人」考察 芳江は一郎と直の子ではない?(7) 「一人っ子」確定

1、二人目はいらない?


これまで、芳江の存在自体にほとんど誰もふれない・語り手の二郎も想起しない不自然さについてふれてきた。

似たような話であるが、一郎・直夫妻について

・「そろそろ二番目の子は」~ との話が全く一度も語られない・語り手の二郎が内心での想起もしない

またこれと重なるが

・一郎が長野家の長男であるにもかかわらず、「男の子も~」との話が全く一度も語られない。これも二郎も想起もしない

これらの不自然さがある。

そしてこれについても私は、作者:夏目漱石が
「ちゃんと読んだ読者はこの不自然さに気づくべきですよ。気づけるようにしておいたのだから」
と言っているように聞こえてくる。

私がこれを書いている令和6年であれば、少なくとも公の場や本人に面と向かっては、「二人目はまだ?」「男の子はいないの?」と口に出さないのはマナーである。あるいは口にした側のセクハラとなる。
しかし「行人」の連載開始は、大正元年(1912年)である。そのようなマナーはないであろう。
現に序盤で二郎は、お兼に堂々と聞いてる。

「奥さん、子供が欲しかありませんか。こうやって、一人で留守をしていると退屈するでしょう」
「そうでも御座いませんわ。私兄弟の多い家に生まれて大変苦労して育った所為か、子供程親を意地見るものはないと思っておりますから」
「だって一人や二人は可いでしょう。岡田君は子供がないと淋しくって不可ないって云ってましたよ」
 お兼さんは何にも答えずに窓の外の方を眺めていた。顔を元へ戻しても、自分を見ずに、畳の上にある平野水の罎を見ていた。自分は何にも気が付かなかった。それで又「奥さんは何故子供が出来ないんでしょう」と聞いた。するとお兼さんは急に赤い顔をした。

(「友達」六)
(※ 著作権切れにより引用自由です。)

このように二郎は普通にお兼に、「子供ほしくないですか? なんで子供出来ないんでしょう?」と聞いている。
しかし、このような描写が序盤に存在するにも関わらず、一郎と直夫妻に関しては、誰一人、「そろそろ二人目は~」とか、「芳江もそろそろ弟か妹ほしいよね~」とは口にしないのである。長野父も母も、二郎もお重も、岡田もお兼も、Hも三沢もだ。そして当の一郎も直もである。
そして例によって、語り手である二郎の内心でも、想起されない。

やはりこれも芳江の存在同様、ふれられるべき事柄に全くふれてない・しかも序盤で似たような話題が出ているのにふれられない、という不自然である。
気づけるように書かれた不自然である。

2、男の子はいらない?

長野一郎は、その露骨な名のとおり長野家の長男である。
また長野家はかなりのお金持ちと思われる(どこかで詳しくふれたいが二郎は序盤でかなり長期の旅行をし続けてようやく「兄」一に至って(それまでに「友達」全三十三章が経過))「自分はその時既に懐が危しくなっていた。」というレベルである。なお私は自腹では二泊三日以上の旅行をしたことがない。

そんなお金持ちの家の長男であれば、「長男の長男」の誕生が待望されるのが、通常ではないだろうか。

実際、一郎が「長男」として育てられたことは前半で強調されている。

―― 自分と兄とはこの位懸隔のある言葉で応対するのが例になっていた。これは年が少し違うのと、父が昔堅気で、長男に最上の権力を塗り付けるようにして育てた結果である。母も偶には自分をさん付けして二郎さんと呼んで呉れる事もあるが、これは単に兄の一郎さんのお余りに過ぎないと自分は信じていた。

(「兄」二)

私がこれを書いている令和の世の中ですら、離婚時の親権トラブルで「長男の長男だから、夫の実家が男の子の親権に強くこだわっている」旨の話を二度、聞いたことがある。
いわんや大正元年で、お金持ちの家の話である。
長男に子が一人娘(芳江)しかいないのであれば、「次は男の子を~」との話がされるのが、通常ではないだろうか。

しかしこれもまた例によって、当の夫婦や長野父母含めて誰一人として口に出さず、また二郎の回想でも意識されないのである。
これもまた、不自然だと伝わるように書かれた不自然である。

なお、作者:夏目漱石は「子供のいない夫婦」に養子に出された、男の子である。

3、「一人っ子」断定していいのか?


 芳江というのは兄夫婦の間に出来た一人っ子であった。

(「帰ってから」三)

上記が芳江についての最初の紹介文である。
ここで「一人っ子」と、断定してよいのだろうか?

上記の二郎の語りがリアルタイムなのか、色々と見届けた上での回想なのかは不明確だが、「~であった」という書き方からは、物語の進行リアルタイムでの語りと聞こえる。
仮にそうであれば、「一人っ子」との断定はおかしい。

一郎と直のどちらかが死去した後か、少なくとももう出産はないであろう年齢になった以降の語りであれば、「一人っ子」と言われてもわかる。
しかし少なくとも作中では一郎も直も当然生きているし、また少なくとも直は、「嫂とお兼さんは親しみの薄い間柄であったけれども、若い女同士という縁故で先刻から二人だけで話していた。」(「兄」四)と言われてるように「若い女」であり出産可能と思われる。

なので先の芳江の紹介文はたとえば、
「~芳江というのが兄夫婦の間に出来た娘の名である。現在のところ子はこの芳江一人である。」としてもよさそうである。

しかし、二郎は「一人っ子」と断定している。

まるで、芳江以外には一郎直夫妻に、子はできないことが既に確定した事実であるかのように。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?