夏目漱石「行人」考察 芳江は一郎と直の子ではない?(4) みな自宅以外では芳江を想起しない・紀三井寺のベンチ
(画像は新宿区立漱石山房記念館内の、無料公開箇所の展示を私が撮影したものです)
https://soseki-museum.jp/
(夏目漱石は本名・金之助。養子先の塩原家から実家に引越しても戸籍はしばらく移せなかったので、若い頃は本名が「塩原金之助」
「塩原金之助」の卒業証書)
1、例によって存在にふれられない娘・芳江
「それでは打ち明けるが、実は直の節操を御前に試して貰いたいのだ」
(「兄」二十四)
(※ 著作権切れにより引用自由です。)
一郎が弟・二郎に対し、妻の節操を試せと求める場面である。
この後二郎は、「馬鹿らしい・必要がない・下らない・倫理上の大問題ですよ・僕には僕の名誉がありますから」となんだかんだ反対しながら(二十四~二十五)、「とうとう和歌山見物だけは引き受ける事にした。」(二十五)といってあっさり引き受けてしまうのである。
いまいち、二郎の反論が足りない。
描写では「こんな会話を何遍も繰返した。そうして繰返すたびに双方共激して来た。」・「自分は兄を真正の精神病患者だと断定した瞬間さえあった。」(二十五)と、口論のすべてを書いたわけではないとされているが、それを差し引いても反論が足りない。
二郎も直の節操を試してみたかった・あるいはその試す行為を楽しみたかったのだろう、と思う。
しかし、このやり取りの中でも、芳江は一切会話にものぼっておらず、描写では想起もされておらず、事後にこの「行人」を書いている設定の語り手・二郎の回想にも浮かんでこない。
普通に考えて、
「兄が自分の妻が弟に惚れてると疑って弟と共謀して不倫しないかどうか妻を試した」
こんなことがもし世間にばれたら、社会的地位は一巻の終わりではないだろうか。
もちろん、夫婦関係も終わりであろう。
そして一郎と直の夫婦関係が、完全に一郎とその弟側の異常行動で終わった場合、芳江はどうなるだろうか?
おそらくだが直が実家に連れて帰ることになるだろう。
だから二郎の反論としては、
「こんな真似がもし嫂さんに発覚したら終わりですぜ兄さん。兄さんも僕も二度と芳江にも会えなくなりますぜ。」とか、
「兄さん、僕らが嫂さんの節操を試したなんてことが世間に暴露されたら、いや世間までなくとも嫂さんの御実家に報告されたら、僕らは末代までの恥さらしですぜ。嫂さんはもちろん、芳江にも二度と会わせてもらえなくなるかもしれませんぜ。僕自身も嫂さんにも芳江にも合わす顔ないですぜ。そんな危険な秘密を僕らで死ぬまでずっと背負っていけと仰るんですか」
ぐらいのことは言ってもよさそうである。
しかし、二郎も一郎も、芳江のことにはまったくなんにもふれない。
(ついでに言うと直の実家にも全くふれない。この不仲な一郎直夫妻のことで、紀三井寺だけではなく小説中に家族の誰一人として直の実家について全くふれてない。後半の「塵労」で「この牡丹餅から彼女が今日墓詣りのため里へ行ってその帰り掛に~」とかすかに出て来るだけである(三)。これも私は既婚者として極めて不自然だとしか思えない。またこれもどこかで語りたいです。)
さらには紀三井寺の前、一郎が
「直は御前に惚てるんじゃないか」
(「兄」十八)
と言い出した「権現様」の拝殿の段々での会話でも、芳江についてはなにもふれられない。
前期の台詞のあと一郎と二郎は十八~二十二までに渡って、メレジスだ宗教だ霊だ魂だ所謂スピリットだと語り合っているが、芳江についてはなんにもふれないのである。どこかで二郎から「芳江だっているわけですし、、嫂さんは芳江をいつも可愛がっているじゃないですか」とかあってもよさそうである。
前の記事でふれたように、芳江の父母のはずである一郎と直は、二人ともそれぞれ、二郎と二人きりでの重要な場面で、娘に一言もふれない。
そして、同居の叔父であるはずの二郎も、一郎に対しても、直に対しても、芳江についてまったくふれない。リアルタイムで想起することもなく、回想でふれることすらしない。
「行人」ではそう描写されている。
ただし直は芳江を可愛がってはいる様子だし、一郎の一家もそれなりに可愛がってはいる。
だから、芳江は生まれてすぐの頃に直の実家から、なんらかの事情で養子に来た子ではないかと。
「塩原金之助」のように。
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