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夏目漱石「行人」考察(44)時系列(裏設定)

これまで、「行人」に関する好き勝手な考察を書いてきた。
思いついた裏設定と書かれていることを含めて、とりあえず時系列をまとめてみる。


一、40年~35年前

(この「一」はすべて私の推察)

・綱(長野母)がある男と関係を持ち、一郎を妊娠、出産
・その男とは身分差で別れる。
(その男は「精神病の娘さん」の家族か親族、「築地」つながり)

・綱が男と別れてしばらくした後に、長野父と結婚
・長野父は長野家に婿養子として入る。

・長野父の名は「一郎」だったが、綱と婚姻後に改名もしくは通称使用。家族にはそれを秘している

・長野夫妻は、今後男児が出来ても一郎を長男として「尋常の父母以上に」愛情をかけて育てると約束

 明記されている情報)

・長野父は「ある官省」に務めていた公務員。建築関係?(二郎に「床の幅に就いて色々説明」)

・現在は「半分の影響さえむずかしい」がかつてはかなりの社会的「勢力」があった。現在でも「貴族院議員」が謡にやってくる
(この貴族院議員が太宰治の父がモデルだったら面白い、と思ったらその人(津島源右衛門)は行人連載の1912年当時は衆議院議員だった、1922年に貴族院議員、1923年死去)。


二、30年~25年前


・二郎出生
・しばらく後にお重出生

 長野きょうだいの子ども時代の思い出)
・一郎と二郎で玄関前の「」を叩き落として食べた
・一郎は「餓鬼大将」だった
・お重は一郎を「大兄さん」、二郎を「ちい兄さん」と呼んでいたが、二郎が「ちい」だけ取らせた。
・二郎は母の叔母が?「紀州様、紀州様」と口にしていた記憶がある。

・何故か二郎は直と元々知り合い。一郎やお重は?


三、10年前頃


・お貞が長野家に来る。下働きに従事。

・岡田が「高商」に通う書生として長野家に居候(実家はどこだ?)
(「高商」は現在の一橋大学で4年制。五六年前の卒業なので10年ほど前に長野家に来たと思われる。しかし意外にも岡田はエリート。では佐野もか)

・その頃に、お兼も「仕立物をもって長野家に出入り」している。
・お兼は長野父の官省の「属官の娘
(長野父ともお金を払っての関係があった?)

 岡田が長野家に滞在していた頃の出来事)

・二郎と岡田は相撲を取ったことがある(「二郎さん久し振りに相撲でも取りましょうか」)

・二郎が岡田に「金も少しは彼の為に融通して遣った」ことがある
(岡田が長野父母でも一郎でもなくあえて二郎から借りたのは、遊びの金か? 既に岡田もお兼にお金払って関係していた?)

・一郎が二郎に「将棋を指した時、自分が何か一口云ったのを癪に、いきなり将棋の駒を自分の額へ打付た」と。そして岡田は「将棋の駒」である。

・お重が岡田に「あなたの顔は将棋の駒みたいよ」と


四、6~5年前


・岡田が高商を卒業して「大阪の保険会社」に就職、長野父が周旋
(建築関係の官僚と思われる長野父に保険会社との接点? 建物の火災保険か?)

・「精神病の娘さん」が結婚。三沢父が仲人。結婚相手もしくは相手の家は「資産や社会的地位」が三沢家よりもある

・長野父の話では「女景清」の女が目が見えなくなる

・そしておそらく、この頃に一郎と直とが結婚(直がお兼と「親しみの薄い間柄」であることから接点は少ししかなかったと推測)


五、5~4年前


・岡田が上京しお兼と結婚。二郎には秘されていた。その時二郎は富士登山のため外出中。三沢もおそらく一緒に登山

・二郎が「岡田も気の毒だ、あんなものを大阪下りまでー」と強がり。

・「精神病の娘さん」が嫁ぎ先を出て何故か三沢家に長期滞在
(ここでその女が何故か三沢家に滞在し、しかも三沢の口ぶりではそのまま実家に戻ることもなく「死んだ。病院へ入って」と。ここに事情があるはず。私はそれも「一郎の実父」となにか関係あると)

・おそらく芳江出生もしくは(秘密の)養子として直の親族側から長野家に来る。


六、2年前


・「精神病の娘さん」死去。夏か秋頃
(三沢の退院理由である「三回忌」は2度目の命日(死去時を一回とする)。ただしこのあたりは全て三沢の発言によるもの)

七、事実が存したことは確実だが時期の特定材料がないもの


・一郎の大阪旅行(結婚前であることは確か)

・長野父の退職(岡田夫妻の結婚以降か)

・二郎の就職(大阪旅行以降か)

・三沢の父の死去時(「つい近頃父を失った」とあるが、娘さんの死去より後なのか)

・一郎と直とが知り合った時期


このあたりか。
また「精神病の娘さん」は何故実家に帰れなかったのか? や、二郎が「あの女」を入院後に一度も見てないことの意味、等々を考えたい。

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