夏目漱石「三四郎」⑨ 女に征服された男(3)

1、女より「偉く」なれない男


「―― 二十前後の同じ年の男女を二人並べてみろ。女の方が万事上手だわね。男は馬鹿にされるばかりだ。女だって、自分の軽蔑する男の所へ嫁に行く気は出ないやね。―― そういう点で君だの僕だのは、あの女の夫になる資格はないんだよ
(略)
そりゃ君だって、僕だって、あの女より遥かに偉いさ。御互にこれでも、なあ。けれども、もう五六年経たなくっちゃ、その偉さ加減が彼の女の眼に映って来ない。――」
(「十二」)

「―― 広田先生を見給へ、野々宮さんを見給へ、里見恭助君を見給へ、序に僕を見給へ。みんな結婚をしていない。女が偉くなると、こう云う独身のものが沢山出て来る。だから社会の原則は、独身のものが、出来ない程度内に於て、女が偉くならなくっちゃ駄目だね。
(「十」)
(※ 著作権切れにより引用自由です。)

順番は小説と前後させたが、最初の「十二」からの引用が三四郎の友人・佐々木与次郎が三四郎に云った台詞、次の「十」からの引用が画家の「原口」が同じく三四郎に云った台詞である。

「十」については夏目漱石が既に現在(令和6年)の非婚社会を予言していたことになる。どんどん偉くなっている女は、自分より偉くない男達を選ぼうとはせず、必然的に少数となる自分よりもさらに偉い男を求めるばかり(無論例外はある)。

 ―― 男は女より「偉く」ないと、女から選ばれない ――
この一般論が、男達の苦悩となる。どうしても「偉い」男は少数派であり、大多数の男達は特に偉くなれないからだ。

逆に女は男より偉いかどうかで特に有利不利はない。
現実の社会を見てもそうだし、「坊っちゃん」のマドンナも地位収入家柄についてなにもふれられていないが当然のように「マドンナ」である。「三四郎」の里見美禰子も、まあインテリであろうし美禰子は小金を有しているがそれとは別の次元から三四郎を弄んで楽しんでる。いわんや正体不明な冒頭の汽車で乗り合わせた「女」から三四郎は「あなたは余っ程度胸のない方ですね」と笑われている(「一」)。「向上心のない奴は馬鹿だ」なんだと散々偉そうに語っていた「こころ」のKは、女一人にフラれて命を絶った。

そして結局里見美禰子は、いまいち頼りなさげな三四郎の告白を完全スルー+溜息で返し、「脊のすらりと高い細面の立派な人」(「十」)と結婚している。


2、わかっちゃいるけどやめられない


―― 几帳面に僅かに売るよりも、だらしなく沢山売る方が、大体の上に於て利益だからこうすると云っている。――
(「十一」)

これは与次郎が、近く催される演芸会の切符を大学内の知り合いに、代金はいつでも構わないと売りまわっている際の描写である。

この話は、男の恋愛についてもあてはまる。
―「女の二人や三人にフラれたぐらいでくよくよするな。下手な鉄砲数撃ちゃ当たる。どんどん次の新しい女を探していけ」―
世のモテない男性達は一度ならず、このようなアドバイスもしくはお説教を受けたことがあるだろう。
そしてこう思ったのでは
「そりゃ理屈の上ではそうだろう。だがそれができたら苦労しないよ」と。

夏目漱石作品の男達は、女一人のことを思って苦しみ煩悶し、迷える子羊となり精神を病んでテレパシーの実験に走ったり時には自ら命を絶ってしまう。
おそらく、そんな男達よりも、フラれたり脈がなさそうだと感じたらその女のことはとっとと切り上げて次の女たちへと動ける男のほうが、恋愛においては圧倒的に有利なのであろう。
「三四郎」で美禰子と結婚できた「立派な人」は、美禰子の前には野々宮よし子に縁談を申し込んでいた。しかしよし子があまり乗り気でない。するとすぐに美禰子との縁談がまとまっているのである。
「坊っちゃん」でマドンナと仲良くなることのできた「赤シャツ」も、マドンナ以外にも馴染みの若い芸者がいる。

まさに、「几帳面に僅かに売るよりもだらしなく沢山売る方が利益」なのである。

しかし、それができなかった男達がいる。
それができたほうが利益だ・女に好かれやすいとわかっていても、そうなれなかった。そんな男達がいる。

女が男を征服する色である
(「六」)

この言葉については、「いやお前が勝手に見に行って勝手に征服された気分になってるだけやん」「女からはなにも征服するような言動してないよ」とのツッコミが可能だろう。
そう。勝手に征服されてしまっているのだ。三四郎もしくは「三四郎」の語り手は。

別に誰もマドンナや里見美禰子や直や静と恋愛しろと強制などしていない。
「金や条件で男を選ぶ女なんて一番結婚しちゃ駄目だろ。赤シャツもご苦労様だ」と笑ってもよいのである。「行人」の一郎も「俺にはこんな不愛想で俺の妹に喧嘩売ってそのくせ俺の弟にはやたら仲良くするような女なんかとっとと離婚して次の嫁さがすぞ」としてもよいのである。
男達は勝手に女を好きになっては、勝手に苦しんでいるのである。
勝手にストレイシープになっているのである。

しかし、夏目漱石はそんな、
勝手に女を好きになって、勝手に苦しんでる男達の物語を描いた

勝手に女を好きになって、勝手にストレイシープになって、勝手にいつまでもストレイシープでいるままの男の話で、小説一冊を書き上げた。

なにがあったんだろう? 漱石に

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