夏目漱石「行人」考察(21) 物語開始以前の時系列(概要「友達」)

以前に、夏目漱石「行人」について、二郎が梅田駅に下り立った物語開始からの時系列について、まとめてみた。

https://note.com/vast_murre78/n/n08a1bc36e727


今後は、物語が開始する「以前」の時系列についてまとめたいと思う。

いろいろ出てきそうなので、示されている物語開始以前の過去や、リアルタイムでの進行よりも少し以前に生じていた出来事や背景について、概要を書いておく。

1、「友達」で示される過去


・「母から云い付けられた通り」、すぐ俥を雇った
一週間前の三沢(或友達)との落ち合う約束
友達(三沢)は甲州線で諏訪→木曽→大阪、二郎は東京から京都に行き四五日逗留→大阪
五六年前、岡田が長野家を離れる。既に頭の方がそろそろ薄くなって来そう
・その後も、岡田は時々東京に来ていたが二郎とはすれ違い

(以上「一」)

・岡田が所帯を持つ際に長野父から「梅に鶯」の軸物を貰う。二郎によれば「偽物だよ。それだからあの親父が君に呉れたんだ」
・五六年前よりも以前から、お兼が長野宅に出入り・岡田は食客。岡田は下女達とよく話していた。既にお兼と仲良かった?
五六年前、岡田が高商(現在の一橋大学)を卒業し、長野父の周旋で大阪の保険会社に就職
・その約1年後なので、四五年前(のはず)、岡田が上京し、お兼と結婚して大阪に
・その時二郎は富士登山予定。御殿場(静岡県東部)で汽車を下りる。
二郎は岡田の上京やお兼との結婚予定を知らなかった

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(→ 少し気になる。長野両親はあえて二郎に知らせなかったのか?
 物語後半で、下女的存在のお貞と、長野家とは無縁であった佐野との挙式すら長野家が色々と準備をし当日も主催者のようである。そうであるならば岡田とお兼との結婚や挙式には、より深く長野家として関与していそうなものだが。)

(以上「二」)

・お兼は、「下卑た家庭に育った
・岡田の結婚時(= 四五年前のはず)、二郎が「岡田も気の毒だ、あんなものを大阪下りまで引っ張って行くなんて。」と発言。母から叱られる。
母の叱責によれば、当時(= 四五年前のはず)の二郎は、「書生」のような立場
(以上「三」)
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→ 二郎の悪口を、わざわざ岡田もしくはお兼に伝えた誰かがいる。誰なのだろう?

・岡田の認識では、「あいつと一所になってから、かれこれもう五六年近くになるんだが、」
 → 
二郎の認識とは1年異なる?
(四)

・お兼は二郎によれば、「下卑た家庭に育った」はずだが、父は「大変緻密な人」? 「私兄弟の多い家に生まれて大変苦労して育った」と自分で。
(六)

・物語開始の少し前に? 岡田が佐野の写真を長野家に送付。長野家「様々の批評を加え」る。二郎は「御凸額だ」と。
・五六年前より以前? お重が岡田に、「あなたの顔は将棋の駒みたいよ」と。
・二郎が東京から発つ前(=四五日より前)、長野母(お綱)が岡田に「貞には無論異存これなく」との返事を岡田に出してあると。
・二郎が東京から発つ前に、お綱が二郎に、「先方があまり乗り気になって何だか剣呑だから、彼地へ行ったら能く様子を見て来てお呉れ」と。

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(ちなみにこの時は「剣呑だ」としているが、元々貞の縁談話が来た際、「先ずお重から片付るのが順だろう」と言う長野父に異論を唱え、「折角名ざしで申し込まれた」と進行させたのは、お綱である(「帰ってから」十)。
 この主張がそのままとおったことといい、二郎がお綱に言われたとおりに大阪であれこれ行動している点や、大阪旅行の資金になった土地もお綱が持っていた事からして、長野家は、父よりも母のほうが事実上も、経済上も強いのか?)

(以上「七」)

・岡田は長野家にいた時代、二郎と相撲を取っていた。「二郎さん久し振に相撲でも取りましょうか」
(十一)

・二郎は三沢と共に須走口(富士登山口)から富士登山をしたことがある。
(→ これは岡田の結婚のための上京と懸け違って御殿場で下りた、四五年前のことか?)
(十二)

・三沢は以前から胃腸がよくない。本人曰く「母の遺伝
(十三)

・三沢は入院の四日前から大阪の宿に来ていた。二郎はそれを知らなかった。三沢には当時「五六人」のつれがいた。それが誰なのか二郎には想像できなかった(十四)→ 名前を聞いたらわかった。(十五)

・三沢と友人らは名古屋で合流。他の友人らは、馬関(下関市)、門司(北九州市)、福岡に行く途中
(十五)

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しかし、二郎も三沢もその友人らも、旅行三昧だな。夏だからみな学生で夏休みなのだろうか? この時点での二郎と三沢の肩書は不明。それにつけてもお金があって羨ましい。

・入院4日前の三沢が大阪についたその日、ある茶屋で三沢が「あの女」と大量飲酒。「あの女」は、大阪言葉(二十一)

・「美しい看護婦」は、「病人の便器を差し込んだなり、引き出すのを忘れてそのまま寐込んでしまった」ことがある。

・「あの女」の芸者屋には古くからいる下女がおり、下女だが権力を持っており、「あの女」も言うことをきく(二十三)

・「あの女」の旦那らしき見舞客はない(二十四)

・三沢は母親や親類から京都で買物を頼まれていた。名古屋で友人と合流したので京都で下りずに大阪まで来た(二十八)
(→ 二郎も大阪に来る前は京都で四五日逗留していたが、それに合わせる気はなかった?)

・「今から五六年前」、三沢の父が知人の娘の結婚を仲介
・「一年経つか経たないうちに、夫の家を出る事になった。

(→ 四五年前だ。ここでも、五六年前+そこから1年 のセットが。)

・その娘は、三沢によれば
「- 少し精神に異状を呈していた。それは宅へ来る前か、或は来てからか能く分らないが、兎に角宅のものが気が付いたのは来てから少し経ってからだ。
(三十二)

・その娘さんが、亡くなったのは、約2年前
「-- 僕はその娘さんの三回忌を勘定して見て、単にその為だけでも帰りたくなった。」

→ 「三回忌」は、亡くなった当日を1回目と数えた上で、亡くなってから2年後の命日。
(三十三)

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→ つまり二郎は三沢の友人だが、四五年前からその娘さんが三沢宅にいることも、2年前に死去したことも、この時まで話されていなかったと。一郎やHですら知っていたのにだ。

(続きます。)


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