夏目漱石「三四郎」② 「モテない迷える子羊」のまま終わる

1、恋愛マニュアルのお説教

「三四郎」に対する読者の反応として、恋愛マニュアルの指摘、悪く言えば相手をモテない男と見下した上でのお説教がたまにある。

確かに、ヒロインの美女・里見美禰子のほうから三四郎にアプローチかけてるように思える場面が途中あるので、その時に告白するなりもっと仲をつめるなりすればうまくいったのでは? との想像はできる。また小説の語り手も、時おり三四郎を批判的に描写することもある。

しかし、じゃあそのタイミングで三四郎が行動起こしてたら、いい結果となったのかどうかなんて誰にもわからない。
あっさり美禰子にふられたり、後にそうなったように告白完全スルー・ため息つかれるなどで返されてしまったかもしれない。
なにより、美禰子は三四郎に気があるような言動をしていたが、明確に好きだとか愛を伝えたわけでもなんでもない。そこへ告白したところで三四郎がとんだ勘違い男として嘲笑されたり、迷惑がられたかもしれない。

夏目漱石は基本的に「女の内心」を描かない。
主人公男性にとって、ヒロイン女性は永遠に
「内心でなにを考えているかわらない他者」
のままだ。それは「こころ」のようにヒロインと夫婦となった後でも同じである。

だからこそ、「この時、ヒロインはなにを考えていたのか・実際は誰が好きだったのか」との推察が漱石作品では楽しまれる。
だから「三四郎」で、「この時点で美禰子に告白すればOKされたはず。なのに向こうの愛が冷めてしまってから告白しちゃってる」との話がされること自体はわかる。また漱石自身もおそらくそういう反応もあることを想定して書いていると思う。

しかし私は、そんな恋愛マニュアルは語りたくない。
理由は二つ
・恋愛マニュアルを語る人たちを見て、三四郎・モテない男に対する見下しを感じること
・漱石は、恋愛マニュアルなど書かずにこの「三四郎」を終わらせていること
これらである。

2、モテない迷える子羊として話は終わる

小説「三四郎」はこう終わる。美禰子は既に三四郎の知らない、地位がありそうな男と結婚し、三四郎が帰省している間に結婚式も終わっている。完全にフラれてからある程度経過した時点での描写である。

「僕より」と云い掛けて、見ると、三四郎はむずかしい顔をして腰掛にもたれている。与次郎は黙ってしまった。
(中略)
与次郎だけが三四郎の傍へ来た。
「どうだ森の女は」
「森の女という題が悪い」
「じゃ、何とすれば好いんだ」
三四郎はなんとも答えなかった。ただ口の中で迷羊(ストレイシープ)、迷羊(ストレイシープ)と繰り返した。
(「十三」)
(※ 著作権切れにより引用自由です)

三四郎が迷える子羊のまま、話は終わる。
恋愛マニュアルなど語られない。

三四郎に対し、ここでこうすれば美禰子とくっつけたとか、もっとこうすれば女にモテるとか、そんな話や方向性はないのである。
既にヒロイン・美禰子にフラれてから時間は経過している。全十三章のうち三四郎が美禰子に告白を完全スルーされたのは「十」である。
フラれてから時間が経過しているのに、三四郎はいまだ、ストレイシープのままであった。
そしてストレイシープのままで、話は終わったのである。

三四郎が今回の失恋を受けて、今後成長するとか、多少は女にモテるようになるとか、そんな方向性はなにも示されていない。
迷える子羊がどこへ向かえばいいのか、なにも示してはくれていない。

一世一代の告白を女から完全スルーされた、モテないストレイシープのままで、三四郎はずっと、むずかしい顔をして腰掛にもたれているのである。
たぶん、今も
ストレイシープ、ストレイシープ

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