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夏目漱石「坊っちゃん」⑭ 清は坊っちゃんの実母?

(画像は角川文庫の「嵐が丘」(エミリーブロンテ))



1、清について


夏目漱石の明治39年(1906年)連載の小説「坊っちゃん」

この小説に坊っちゃんの生家の「下女」として「清」という登場人物がいる。物語への登場は以下のとおり。

 母が死んでからは、おやじと兄と三人で暮くらしていた。(略)兄は実業家になるとか云ってしきりに英語を勉強していた。元来女のような性分で、ずるいから、仲がよくなかった。十日に一遍ぐらいの割で喧嘩をしていた。ある時将棋をさしたら卑怯な待駒をして、人が困ると嬉しそうに冷やかした。あんまり腹が立ったから、手に在った飛車を眉間へ擲きつけてやった。眉間が割れて少々血が出た。兄がおやじに言付いつけた。おやじがおれを勘当すると言い出した。
 その時はもう仕方がないと観念して先方の云う通り勘当されるつもりでいたら、十年来召し使っている清という下女が、泣きながらおやじに詫まって、ようやくおやじの怒りが解けた。それにもかかわらずあまりおやじを怖いとは思わなかった。かえってこの清と云う下女に気の毒であった。この下女はもと由緒のあるものだったそうだが、瓦解のときに零落して、つい奉公までするようになったのだと聞いている。だから婆さんである。この婆さんがどういう因縁か、おれを非常に可愛がってくれた。不思議なものである。母も死ぬ三日前に愛想をつかした――おやじも年中持て余している――町内では乱暴者の悪太郎と爪弾きをする――このおれを無暗に珍重してくれた。おれは到底人に好かれる性でないとあきらめていたから、他人から木の端のように取り扱われるのは何とも思わない、かえってこの清のようにちやほやしてくれるのを不審に考えた。清は時々台所で人の居ない時に「あなたは真っ直ぐでよいご気性だ」と賞ほめる事が時々あった。しかしおれには清の云う意味が分からなかった。好いい気性なら清以外のものも、もう少し善くしてくれるだろうと思った。清がこんな事を云う度におれはお世辞は嫌いだと答えるのが常であった。すると婆さんはそれだから好いご気性ですと云っては、嬉しそうにおれの顔を眺めている。自分の力でおれを製造して誇ってるように見える。少々気味がわるかった

(一)

(※ 著作権切れにより引用自由です。)

この内容から清の属性を取り出す。

・(仕え始めた正確な時期は不明だが)坊っちゃんの母の死-父の死(「母が死んでから六年目の正月」)までの間において、既に「十年来召し使っている
(→ 坊っちゃんの幼少期から仕えているはず)

・元は由緒あるが、瓦解(明治維新)で没落した

・年齢は不明だが坊っちゃんから見て「婆さん

・坊っちゃん自身からも「不思議・不審・気味がわるい」と思われるほど、坊っちゃんに異状に愛情を注いでいる。


そして小説「坊っちゃん」は、清の墓を読者に示して終わる。

 清の事を話すのを忘れていた。――おれが東京へ着いて下宿へも行かず、革鞄を提げたまま、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さったと涙をぽたぽたと落した。おれもあまり嬉しかったから、もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだと云った。
 その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月肺炎に罹って死んでしまった。死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい。お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。

(十一)

この「清」について、坊っちゃんの実母ではないかという解釈もある。
それについて、肯定否定双方の要素を検討したい。


2、清が実母である証拠


まずは「清が坊っちゃんの実母である」とする方向の根拠を述べる。

2(1)異様な愛情

上の引用にもあるように、清は異様なまでの愛情を、物語中一貫して坊っちゃんに注ぎ続けている。清がそこまで坊っちゃんを可愛がる理由はなんら示されていない。
この異常な愛情に説明をつけるのであれば、実の母だから、となるだろう。むしろ実の母だとしてもかなりの溺愛っぷりだ。


2(2)冒頭の謎

「坊っちゃん」においてたまに指摘されるが、有名な冒頭の一文が、謎を含んでいる。

 親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。

(一)

親譲りの」無鉄砲とあるが、坊っちゃんの両親については特に無鉄砲と思われる描写は、全くないのである。
両親とも単に坊っちゃんを嫌って兄をひいきしている描写が重ねられた後、序盤で病気で死去している。むろん坊っちゃん本人の無鉄砲さはこれでもかと強調されている。

有名な冒頭文であるにもかかわらず、この謎については私の知る限り、未だに不明なままなのである。

この点、もし清が坊っちゃんの実母であれば、一応の説明はつく。
その場合、坊っちゃんの父親は以下の行いをしたことになる。

・「子を産んだ不倫相手を下女として雇い、子と共に妻と同居させた、もしくは下女に子を産ませてその後も暇を出すこともせず妻と同居させ続けた。子には本妻を母親だと教えて死んでもそれを明かさなかった」

仮にこのとおりであれば父親は確かにかなりの「無鉄砲」にはなり、冒頭の謎の一文の説明にはなる。

しかしこれは流石に無理があると思う。無鉄砲というよりも父も母もおかしな人間になってしまう。それに母が死去した以降であれば父も兄もあえて隠し通す意味もなさそうだ。
また仮に父親がそんなことをしたら、母も兄も父に対して怒り、関係は険悪化するであろう。しかし父と兄とは仲が良さそうである。

2(3)漱石の生い立ち

清は坊っちゃんから「婆さん」と呼ばれているが、これが必ずしも実母であることを否定する決定的論拠とはならない。理由は作者:夏目漱石の生い立ちだ。

何度も書いているが、夏目漱石こと本名・夏目金之助は、幼児期に塩原家に養子に出された。
その後養家の離婚トラブルがあり9歳の頃に夏目家に移った。しかし養家と夏目家ともトラブルになり、20歳頃まで「塩原金之助」であった。夏目家に住みながらである。

その漱石は、生家に戻ってしばらくの間、実両親のことを祖父母だと思っていたそうである(出生時に父は50歳、母は41歳)。

 私はいつ頃その里から取り戻されたか知らない。しかしじきまたある家へ養子にやられた。それはたしか私の四つの歳であったように思う。私は物心のつく八九歳までそこで成長したが、やがて養家に妙なごたごたが起ったため、再び実家へ戻るような仕儀となった。
 浅草から牛込へ遷された私は、生れた家へ帰ったとは気がつかずに、自分の両親をもと通り祖父母とのみ思っていた。そうして相変らず彼らを御爺さん、御婆さんと呼んで毫も怪しまなかった。向こうでも急に今までの習慣を改めるのが変だと考えたものか、私にそう呼ばれながら澄ました顔をしていた。

(夏目漱石「硝子戸の中」二十九)

このように漱石自身が母を母であるとは知らずに、「御婆さん」と呼んでいたのである。
そうであれば、清が坊っちゃんから「婆さん」呼ばわりされていることは、実母性を否定する論拠とまではいいにくい。むしろ「気付いていなかったが実は母親だった」ことを暗示しているとも言い得るだろう。


3、清が実母ではないとする証拠


ここからは逆に清が実母ではないとする方向の論拠を挙げる。

3(1)甥に対する態度

清には「裁判所の書記」をしている甥がおり、坊っちゃんの生家売却以降はそこに住んでいた。その甥は坊っちゃんとも面識がある。

 家を畳んでからも清の所へは折々行った。清の甥というのは存外結構な人である。おれが行くたびに、居りさえすれば、何くれと款待なしてくれた。清はおれを前へ置いて、いろいろおれの自慢を甥に聞かせた。今に学校を卒業すると麹町辺へ屋敷を買って役所へ通うのだなどと吹聴した事もある。独りで極めて一人で喋舌るから、こっちは困って顔を赤くした。それも一度や二度ではない。折々おれが小さい時寝小便をした事まで持ち出すには閉口した。甥は何と思って清の自慢を聞いていたか分らぬ。ただ清は昔風の女だから、自分とおれの関係を封建時代の主従のように考えていた。自分の主人なら甥のためにも主人に相違ないと合点したものらしい。甥こそいい面の皮だ。

(一)

この点、もし坊っちゃんが清の実の子であれば甥の前で「甥のためにも主人」として扱うのは不自然である。まあこれは坊っちゃんの主観なので不正確かもしれないが。また「甥っ子に向かって息子の自慢話を語り続ける母」もやや不自然だ。

3(2)最後まで秘密?

上にも引用したように、清の死去と墓の場所を具体的に特定し、小説「坊っちゃん」は幕を閉じる。
もし清が実母であれば、亡くなるまでそれを隠しとおす意味はないと思われる。

既に十年ほど前には坊っちゃんの(戸籍上の?)母は死去しており、その六年後には父親も死んでいる。唯一の肉親である坊っちゃんの兄は九州に渡っており絶縁状態だ。この状況下で、あえて秘密を隠し続ける意味はないと思われる。

漱石の他の作品「三四郎」においては、「広田先生」と呼ばれる登場人物が、母が死去する際に実は本当の父親がいると教えられたと、暗に伝えるような場面がある。

「たとえば」と言って、先生は黙った。煙がしきりに出る。「たとえば、ここに一人の男がいる。父は早く死んで、母一人を頼りに育ったとする。その母がまた病気にかかって、いよいよ息を引き取るという、まぎわに、自分が死んだら誰某の世話になれという。子供が会ったこともない、知りもしない人を指名する。理由を聞くと、母がなんとも答えない。しいて聞くとじつは誰某がお前の本当のおとっさんだとかすかな声で言った。――まあ話だが、そういう母を持った子がいるとする。すると、その子が結婚に信仰を置かなくなるのはむろんだろう」
「そんな人はめったにないでしょう」
「めったには無いだろうが、いることはいる」
「しかし先生のは、そんなのじゃないでしょう」
 先生はハハハハと笑った。
「君はたしかおっかさんがいたね」
「ええ」
「おとっさんは」
「死にました」
「ぼくの母は憲法発布の翌年に死んだ」

(「三四郎」十一)

しかもこの広田先生の母の場合は、(おそらく)「夫がいるのに他の男性と関係を持ち出産した」ということであろう。それに比べれば独身らしき清が仮に坊っちゃん父と関係を持ったとしても、タブーの度合いは低いと思われる。
そうであればますます、死してなお清が隠し通す意味はない。

4、私の推論(坊っちゃんは拾われた子)


以上をふまえて私がいま、勝手に思っているのは以下の結論だ。

「坊っちゃんは拾われた子である」

以下、その論拠を述べる。

4(1)「吾輩」は捨て猫

夏目漱石の小説家デビュー作は「吾輩は猫である」である。明治38年(1905年)発表である。

この小説は、主人公である猫の「吾輩」が、捨てられる場面から始まる。

 吾輩は猫である。名前はまだ無い。
 どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
(略)
 この書生の掌の裏でしばらくはよい心持に坐っておったが、しばらくすると非常な速力で運転し始めた。書生が動くのか自分だけが動くのか分らないが無暗に眼が廻る。胸が悪くなる。到底助からないと思っていると、どさりと音がして眼から火が出た。それまでは記憶しているがあとは何の事やらいくら考え出そうとしても分らない。
 ふと気が付いて見ると書生はいない。たくさんおった兄弟が一疋も見えぬ。肝心の母親さえ姿を隠してしまった。その上今までの所とは違って無暗に明るい。眼を明いていられぬくらいだ。はてな何でも容子がおかしいと、のそのそ這い出して見ると非常に痛い。吾輩は藁の上から急に笹原の中へ棄てられたのである

(「吾輩は猫である」一)

この「吾輩は猫である」に続く夏目漱石の二作目の小説が「坊っちゃん」である。

そのため「捨てられ、拾われた子」という設定が再使用されているのではと思った。
坊っちゃんと、父・母・兄それぞれとの不仲は、「父(あるいは母)が気まぐれに、もしくはなんらかの事情でやむを得ず拾って育てたよその子」として捉えれば説明がつく。

4(2)清の憐憫

序盤で、清が妙に坊っちゃんを憐れんでいる。

 母が死んでから五六年の間は此状態で暮して居た。おやぢには叱られる。兄とは喧嘩をする。清には菓子を貰ふ、時々賞められる。別に望もない、是で沢山だと思つて居た。ほかの小供も一概にこんなものだらうと思つて居た。只清が何かにつけて、あなたは御可哀想だ、不仕合だと無暗に云ふものだから、それぢや可哀想で不仕合せなんだらうと思つた。其外に苦になる事は少しもなかつた。只おやぢが小使を呉れないには閉口した。

(一)

前にも書いたが、私はここを最初に読んだ時、「清が何かにつけて、あなたは御可哀想だ、不仕合だと無暗に云」っていた理由が、後で示されると思っていた。確かに母を亡くし家族仲は悪いが、坊っちゃんのなにがそこまで「可哀想・不仕合せ」なのだろうと。
しかし、その説明は全くないままに、小説「坊っちゃん」は終わる。

この清の異様かつ論拠不明な憐憫は、清が坊っちゃんの実母であると考えても不自然だ。「実の親子だと伝えられない」ことが「不仕合せ」なのかもしれないが、それを露骨に連呼するぐらいであれば名乗り出ればよいし、既に論じたように隠し続ける意味はない。

この清の憐憫も、坊っちゃんが捨てられた子だと考えれば説明がつく。

4(3)エミリーブロンテ「嵐が丘」のヒースクリフ

これはまたどこかで論じたいのだが、私は勝手に「坊っちゃん」という小説及び主人公の坊っちゃんと、小説「嵐が丘」とその登場人物:ヒースクリフとの間に、色々重なる点があると感じている。

この点、夏目漱石はイギリスに留学していた(明治33~35年(1900~1902年))。
そして、「嵐が丘」はイギリスを舞台にした、イギリス人女性が書いた小説である(1847年発表)。

そのため、漱石は「嵐が丘」を読んでいると思われる。

そして、ヒースクリフはある日突然、拾われてアーンショー家に連れられて来た子どもであった。

坊っちゃんは、ヒースクリフだ


 



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