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夏目漱石「行人」考察58 長野両親は名古屋人?



大正元年(1912年)連載の夏目漱石の小説「行人」

主人公兼語り手の長野二郎を含めた長野家は、東京在住である。

しかし、例によって作品中に明示は全くないが、長野父(下の名不明)と、その妻である長野母(お綱)とは、名古屋・愛知県出身なのではと思えて来た。

以下、それを述べる。


1、名古屋弁夫婦


1(1)「いきゃあ」

作中、長野夫婦についてそれぞれ一か所のみ、名古屋弁と思われる口調が出て来る。

まず綱(長野母)

大阪の病院で三沢が「あの女」に貢ぐための金を、二郎が岡田から借りた。その返済資金を二郎が長野母に求めた場面

 母は自分が三沢のために岡田から金を借りた顛末を聞いて驚いた顔をした。
「そんな女のためにお金を使う訳がないじゃないか、三沢さんだって。馬鹿らしい」と云った。
「だけど、そこには三沢も義理があるんだから」と自分は弁解した。
「義理義理って、御母さんには解らないよ、お前のいう事は。気の毒なら、手ぶらで見舞に行くだけの事じゃないか。もし手ぶらできまりが悪ければ、菓子折の一つも持って行きゃあたくさんだね」
 自分はしばらく黙っていた。

(「兄」七)

(※ 著作権切れにより引用自由です。)

>「持って行きゃあ

名古屋弁でたとえば
「ちゃっと行きゃあ」は
「すぐに行きなさいよ」との意で、親しい相手に対して使う言い回しである。
他にも「こっちこやあ」は「こっちに来いよ」
「まあ、座りゃあ」は「まわ座りなよ」の意味である。

むろん「行きゃあ」自体は標準語でも使われるだろうが、私はここに引っかかった。


1(2)「~だて」

続いて長野父の名古屋弁

自宅で「女景清」の話を父が語っている最中、話の結論をせかす一郎に対して、父がここからが肝心と話した場面。

 父の話方は無論滑稽を主にして、大事の真面目な方を背景に引き込ましてしまうので、聞いている客を始め我々三人もただ笑うだけ笑えばそれで後には何も残らないような気がした。その上客は笑う術をどこかで練修して来たように旨く笑った。一座のうちで比較的真面目だったのはただ兄一人であった。
「とにかくその結果はどうなりました。めでたく結婚したんですか」と冗談とも思われない調子で聞いていた。
「いやそこをこれから話そうというのだ。先刻も云った通り『景清』の趣の出てくるところはこれからさ。今言ってるところはほんの冒頭だて」と父は得意らしく答えた。

(「帰ってから」十三)

「ほんの冒頭(まえおき)だて

これたぶん標準語ではないよね?

名古屋弁でたとえば
・「だもんでさっき言ったんだて~」は、
「だからさっき言ったんだよ~」との意味である。むろん親しい相手に対して使う。


ちなみに「だもんでさっき言ったんだて~」は、本日数時間前、予定よりもかなり早く目的地についてしまい暑い中で待たねばならなくなったので、私が妻に言った台詞である。すぐに「もっと強く言わないとわからないわよ!」と返されてしまった。

「~だて」以外にも語尾に「~て」を使う名古屋弁があり、たとえば「あいつだと気付いたれて!」なら「気付いてあげろよ!」の意味である。

もし、綱の「行きゃあ」と、長野父の「~だて」とを無理やり合わせて名古屋弁の文例作ると

・「ちゃっと行きゃあケッタで、もう準備しとるんだて」

(「すぐに行きないよ自転車で、もう準備してるんだよ」)
となる。

1(3)一度だけの名古屋弁

このように、長野両親はそれぞれ一度だけ、名古屋弁と思われる台詞を口にする。
この「一度だけ」示すところが逆に漱石らしく、だからこそ私は考えてみたくなった。

もしこれが露骨に名古屋人だと示すのであれば、たとえば綱は
「まるであかの他人が同なじ方角へ歩いてござるのと違やあせんがね」
とか、長野父に
「ついでだもんでそう云っとくが、あんたの書く拝啓の啓の字は間違っとるでかんわ」とか言わせてもいい。しかしそんな露骨なことは漱石はしない。

ちなみに名古屋人・愛知県人は東京に移るとなるべく方言を隠そうとする。


2、御三家つながり


さらに、かなり遠いが名古屋と一応関係がある話題が、長野家絡みで二つ出てくる。

2(1)封建時代の紀州様


一つ目、綱(長野母)の叔母が、かつて紀州徳川家に務めていたと。

大阪旅行中の二郎、一郎、直、綱の四人が、和歌山に足を伸ばす列車内の場面

「へえーこれが昔のお城かね」と母は感心していた。母の叔母というのが、昔し紀州家の奥に勤めていたとか云うので、母は一層感慨の念が深かったのだろう。自分も子供の時、折々耳にした紀州様、紀州様という封建時代の言葉をふと思い出した。

(「兄」十一)


2(2)権現様の拝殿で「惚れてるんじゃないか」


もう一つは、一郎が二郎に、「直は御前に惚れてるんじゃないか」と言ったのも、「権現様」、いわゆる紀州東照宮である。

 兄は茶店の女に、ここいらで静かな話をするに都合の好い場所はないかと尋ねていたが、茶店の女は兄の問が解らないのか、何を云っても少しも要領を得なかった。そうして地方訛ののしとかいう語尾をしきりに繰返した。
 しまいに兄は「じゃその権現様へでも行くかな」と云い出した。
権現様も名所の一つだから好いでしょう
(略)
 自分は仕方なしに拝殿の段々に腰をかけた。兄も自分に並んで腰をかけた。
「何ですか」
「実は直の事だがね」と兄ははなはだ云い悪いところをやっと云い切ったという風に見えた。自分は「直」という言葉を聞くや否や冷りとした。兄夫婦の間柄は母が自分に訴えた通り、自分にもたいていは呑み込めていた。そうして母に約束したごとく、自分はいつか折を見て、嫂に腹の中をとっくり聴糺した上、こっちからその知識をもって、積極的に兄に向かおうと思っていた。それを自分がやらないうちに、もし兄から先を越されでもすると困るので、自分はひそかにそこを心配していた。実を云うと、今朝兄から「二郎、二人で行こう、二人ぎりで」と云われた時、自分はあるいはこの問題が出るのではあるまいかと掛念して自ずと厭になったのである。
「嫂さんがどうかしたんですか」と自分はやむを得ず兄に聞き返した。
直は御前に惚れてるんじゃないか

(「兄」十七~十八)

このように、まず綱絡みで「紀州様・封建時代」と示され、続いて物語中の非常に重要な台詞が、「権現様」の拝殿において語られている。

ここから連想されるのは「御三家」である。

そして紀伊以外の御三家は、尾張と水戸である。
ちなみ「封建時代」において、尾張徳川家は御三家筆頭だった。

2(3)綱の親が尾張徳川家に務めていた可能性


ここで、長野母(綱)の叔母が、江戸時代末期に紀州家に務めていたのであれば、綱の両親のどちらかが、尾張徳川家に務めていても、おかしくはないのでは。

先に引用したように、綱は和歌山の城を眺めて、「一層感慨の念が深」い様子を見せている。
ただ単に、叔母の昔の勤め先というだけでは、「感慨深い」とまでは感じないと思われる。
綱の中に、自身の親にも徳川家とのつながりが存し、だからこそ縁のある紀州徳川家の名残の城に、深い感慨の念を抱いたのでは。


3、子ども時代の思い出がほとんどない


私の勝手な思い付きでは、長野両親はどこかの時期に、名古屋から東京に移ったことになる。

ここで「行人」の主人公兼語り手:長野二郎は、子ども時代の思い出をほとんど語らない。
数行以上に渡り書かれている思い出話は、以下の描写のみである。

二郎が実家を出て下宿することを決意した直後

 自分は黙って、風呂場と便所の境にある三和土の隅に寄せ掛けられた大きな銅の金盥を見つめた。この金盥は直径二尺以上もあって自分の力で持上げるのも困難なくらい、重くてかつ大きなものであった。自分は子供の時分からこの金盥を見て、きっと大人の行水を使うものだとばかり想像して、一人嬉しがっていた。金盥は今塵で佗しく汚れていた。低い硝子戸越しには、これも自分の子供時代から忘れ得ない秋海棠が、変らぬ年ごとの色を淋しく見せていた。自分はこれらの前に立って、よく秋先に玄関前の棗を、兄と共に叩き落して食った事を思い出した。自分はまだ青年だけれども、自分の背後にはすでにこれだけ無邪気な過去がずっと続いている事を発見した時、今昔の比較が自から胸に溢れた。そうしてこれからこの餓鬼大将であった兄と不愉快な言葉を交換して、わが家を出なければならないという変化に想い及んだ。

(「帰ってから」二十五)

この描写からすると、少なくとも二郎の子ども時代には、長野家が東京の宅に住んでいたことは明らかである。

私は、どこかで二郎か一郎が幼少期に名古屋・愛知にいたと解釈可能な描写がないかと思っているが、今のところ見つからない。

とりあえずここまでで保留します。

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