夏目漱石「行人」考察 芳江は一郎と直の子ではない?(5) 自宅で急に出て来る
(画像は、新宿区立漱石山房記念館内の展示を私が撮影したものです)
1、ようやく名前が示される「芳江」
繰り返すが、芳江の存在については大阪旅行中わずかに1回だけ、直とお兼との会話でふれられる。
―― 最後に子供の話が出た。すると嫂の方が急に優勢になった。彼女はその小さい一人娘の平生を、さも興ありげに語った。――
(「兄」四)
(※ 著作権切れにより引用自由です。)
そしてこの一か所を除き、以降「兄」の五章~四十四章、「帰ってから」の二章に至るまで、芳江については名前もその存在も、誰一人として全く口に出さず、想起もしないのである。
そしてようやく、「一人娘」として存在が示されてから約四十章も経過した後、二郎らが東京の自宅に帰ると、名前が明かされる。
芳江というのは兄夫婦の間に出来た一人っ子であった。留守のうちはお重が引受けて万事世話をしていた。芳江は元来母や嫂に馴付いていたが、いざとなると、お重だけでも不自由を感じない程世話の焼けない子であった。自分はそれを嫂の気性を受けて生れたためか、そうでなければお重の愛嬌のあるためだと解釈していた。
(「帰ってから」三)
「行人」の特徴だが、芳江について中盤から語られ出すように、「本来序盤やもっと早くから語られるべきことが、なぜか後から、あるいは中盤や終盤になって初めて提示される」展開がいくつかある。
・芳江の存在や名前
・佐野の結婚希望に対する一郎・二郎の認識
・お貞さんが結婚について強く心配していること
・岡田の人間性についてのお重の認識
・二郎らの母の名が「綱(つな)」であること
・二郎は昔お重から「ちい兄さん」と呼ばれていたこと
・主人公一家の姓が「長野」であること
・直の実家の存在
・直と二郎が結婚前からの知り合いであること
・二郎が就業していることやその職業等。
私はこれは、夏目漱石があえて、
「読者諸君はこの不自然さに気づきたまへ」とやっているように読める。
2、一郎の血は引いていない?
芳江の血筋について、二度語られる。
一度目は先ほど引用した。
いざとなると、お重だけでも不自由を感じない程世話の焼けない子であった。自分はそれを嫂の気性を受けて生れたためか、そうでなければお重の愛嬌のあるためだと解釈していた。
(「帰ってから」三)
もう一つは同じく「帰ってから」三 の
この眸の黒い髪の沢山ある、そうして母の血を受けて人並よりも蒼白い頬をした少女は、馴れ易からざる彼女の母の後を、奇蹟の如く追って歩いた。
このように、直の血を引いているとは語られている。
しかし、一郎の血を引いているとは、一度も指摘されないのである。
一度もである。
さらに言えば、長野家の血を引いているとも、一度も語られていない。
一度もだ。
通常、子ども、特に小さい子であれば外見や性格について、ここが父に似ているとか母に似ているとか、あるいは祖父母に似ているとか逆に正反対だとか、会話にのぼりそうなものである。
しかし芳江については、父であるはずの一郎と似ているとか似ていないとか、血を引いててどうだとか、物語中に一言も語られない。
さらに同居の祖父母や、同居の叔父叔母である二郎・お重についても、似ているとも反対だとも、一度も語られないのである。
また母である直についても、引用した芳江初登場時の二か所以外には、似ているとか血を引いてるとか、やはり何一つ語られない。
二郎とその父については、血を引いていることがしばしばふれられるのにである。
ちなみにお重と父とのつながりもふれられている。
「家の血統」と、わざわざいかにもな言葉でだ(「帰ってから」六)。
3、二郎と長野父の台詞が不整合
同じく芳江初登場時である「帰ってから 三」において、長野父の台詞が示されている。
「お重お前の様なものが能くあの芳江を預かる事が出来るね。流石にやっぱり女だなあ」
しかしこのすぐ前の段落には、先に引用した、
お重だけでも不自由を感じない程世話の焼けない子であった。
と語られているのである。
芳江は、
「世話の焼けない子」なのか、それとも手こずりそうな
「あの芳江」なのか。
さらには二郎の、
・「そうでなければお重の愛嬌のあるためだと解釈していた。」
と、父の
・「お重お前の様のものが能くあの芳江を~」
も不整合である。
そしてこれらの不整合についての説明は、例によってなにもされないまま、物語は終わる。
「芳江」をめぐる言説が、二郎とその父とで真逆のように不整合なのである。
ここである設定を思い出すと、二郎は、直と一郎の結婚前から、直と知り合いであった。
私の推測のように芳江が直と一郎夫婦の実子ではなく、直側の親族からの養子だとした場合、二郎は、芳江ともなんらかの形で元々面識があったのではないだろうか。
だから、芳江をめぐる言説が二郎と長野父とで不整合になると。
なお、作中で、周囲からではなく、芳江の側から積極的に話しかけられている唯一の特定人物は、二郎である。
「叔父さん一寸入らっしゃい」
(帰ってから・三十四)
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