宛先は君に 2021年5月28日

2021年5月28日

 人垣を作る紛い物の言葉に何の価値があるというのだろう。そんな声を聞くたびに胸糞悪くなる。誰もが真実の言葉を話すようになればいいのにと願う。
 午後八時過ぎに電話のベルが鳴った。この家にかけられた電話のベルで、僕は取るべきか一瞬迷ったが、取るだけ取って相手次第で切れば構わないと思い、おずおずと受話器を握った。電話の相手は佐和子さんだった。内容は僕も別荘の方に遊びに来ないかとの提案だった。ワクチンをうってからにしようと思っていたが、来てから離れで数日間待機して熱が出なければ良いんじゃないかとか、検査をすれば構わないんじゃないかとか提案してもらって、行く決心をかためた。明日の朝にもここを発つつもりだ。どうしても僕がそこに行くべき理由があるみたいで、熱心な説得だった。その理由に関しては、着いてから確かめればいいと思い、詮索はしなかったが、きっと何か特別なものを与えてくれるはずだ。
 電話を切ってから、佳穂さんに知らせた方がいいと思って、彼女の家まで尋ねた。もう英会話の仕事はとっくに終わっていて、家で食後のコーヒーを飲んでいるところだった。僕らは夏が近づいていることを知らせる夜風に当たりながら、街灯の照らす通りを歩いた。人はほとんどで歩いていなかった。僕らの声だけが街に存在するかのように響いていた。街灯が通りの一角に光の溜まり場を作り、そこに置いてある木製のベンチを浮かび上がらせていた。
「そうなのね。私は夏にでも顔を出そうかなって思ってたの」
「そうだったんですね。夏までいるのかな」
「こっちにいるよりいいんじゃない?行ったことある?」
「二年前の夏に行きました。当時付き合っていた彼女と」
「あー、ドイツの子ね。何したの?」
「海に行ったり、テニスをしたり、それに彼女がピアノを弾くので、それを聞いたり」
「優雅な暮らしね」
「それを楽しむ場所でしょ」
「今回は何で行くの?」
「佐和子さんに呼ばれたんです。来るべきだって」
「何かあなたのためになる出会いでもあるのかね」
「分からないです。理由は聞かなかったので」
「いいなー。私も行きたいな」
「明日の朝、迎えに行きましょうか?」
「私はあなたみたいに暇人じゃないからね」と彼女は笑った。
 僕らはそのまま、一時間ほど歩き続け、夜が更けていくのを感じた。空の色が変わっていくように、僕もまた場所を変え、心の在りかすらも移ろわせていくのも構わないだろう。五月の晴れたまだ寒い朝に起きて、静かに移動する。その先に待つのは僕に何を与えてくれるだろう。緊張と期待が陰陽勾玉巴のように重なり合う。それが、新たな町へ行く僕の感情の目印として、飾られるだろう。
 佳穂さんとは再会の約束を交わし、別れた。一人の通りで、空を見上げると、幾つか星が見えた。新たな場所では星はもっときれいに見えることだろう。僕は何処へ辿り着くのだろうか。ふと不安になった。自分にだけ見えている世界や喜びや悲しみを覚えるこの感情は共有されうるものなのだろうか。誰かが僕を待っているのだろうか。僕が生み出す作品はこの世界に耐えうるものなのだろうか。
 夜が降りて再び上がっていくとき、僕は影を付け、この街から去る。僕を捕え続けていたこのサークルからはみ出し、遂には肉体的にも新たな場所を迎える。きっと、それは良いことだ。きっとそうに決まってる。

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