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さあ、うちに帰ろう!    森本和子著

 空が青い。風が爽やか。5月は大好きな季節だ。私は調布たづくり会館の12階でこれから220人を前に講演をするところだ。
 私はバラを思わせる真紅のシフォンのワンピースに身を包んんでいる。赤色は私の勝負服だ。顔も華やかに見える。
 演台に上がると、はやる心を落ち着かせるためにまずは微笑む。そして、一番後ろの席の人に「私の声、聞こえますか?」と声をかける。もちろんマイクありだが。
「聞こえます」と、数人から声が返ってきた。
 いいぞ。まずまず、うまくいきそうだ。
 私は、もう一度、声をかける。
「私の声が聞こえる人は、頭の上でまるを作ってください」
後ろの席の人たちほぼ全員が丸を作ってくれた。
会場は、いい雰囲気になってきた。私の話を聴く体勢が整ってきたところで、徐に話し始める。
「私の名前は阿部麻里亜です」
 会場から漣のような笑い声が聞こえる。やったと思った。人は笑うと、心を開くのだ。私の話を聞いてくれる。
 なぜ、ここで講演することになったのかというと、最後の深大寺恋物語公募で大賞を獲得できたからだ。たった原稿用紙10枚の短編恋物語。とはいえ10枚で物語を作り上げるのは、結構難しい。10枚という短さでチャレンジしてみようと思う人は多いと思う。簡単と思ってチャレンジしてみると、案外むづかしいことに気づく。
 しかも、私はすでに恋する年齢をとうに過ぎている。頭の中からなんとか絞り出して、書いては直し、書いては直し、ようやく出来上がったのが、今回の作品。思いがけず大賞を受賞。昨年の11月に受賞の知らせを受けた時は、天にも昇る心地になった。そのまま天に登らないで良かったとしみじみ思う。
 半年後の今日、深大寺周辺に因んだ物語なので、大賞受賞の記念講演が調布のたづくり会館で催されたのだ。私は何てラッキーなのだろう。
 公演の内容は物語創作の裏話と女性の生き方についての講演をさせていただくことになったのだ。私は熟年世代だ。60歳をとうに過ぎているから人生を語れる年齢なのだ。
 私の夢は直木賞受賞することと大勢の前で講演をしたかったので、深大寺恋物語の大賞を受賞することで夢が2ついっぺんに叶ったわけだ。直木賞受賞はいつになるかわからないが。小さい賞でも大賞だ。1番だ。2番ではダメなんです。

 1時間の公演の後、30分程度の質疑応答があり、聴衆から花束をいただき無事講演は終わった。聴衆の拍手のおかげで、私は歓喜で燃えていた。テンションが爆上がりしている。
 会場を出ると、風に吹かれたいと思い、神代植物公園行きのバスに乗った。お礼の意味も込めてもう一度神代植物公園に行ってみようと思った。
 バスに20分ほど揺られて神代植物公園に到着。園内に入ると夕暮れの少し前の時間のせいか、それほど混んでいるわけでもなく、さりとて、人がいないといというわけでもなく、程よく人がいる。
 日陰のベンチに座り、満開のバラを遠くから眺めた。目を瞑ると、バラの香りがする。お天気は良いけど、風は涼やかだ。
 なぜか、学生時代のことが頭に浮かんできた。40年も前のことなのに。
大学1年生の時、どうしても心理学をとりたくて、水曜日の1時限目必修の体育、ずっと空いて5時限目の選択科目の心理学をとってしまった。これは失敗だった。体育が終わってからの4時間以上の空き時間をどうやって過ごそうかと1年間悩んだものだ。さりとて心理学を捨てる気にはならなかった。
 学生ホールでコーヒを飲みながら、ぼうっとしている私に同じクラスの山﨑くんが声をかけてきた。1年生の時だけクラスがあるのだ。
「一人で何しているの?」
「時間潰しているの。5時限の心理学まで暇なの」
「じゃあさあ、俺、付き合ってあげようか?」
 私は山崎くんの顔をじっと見た。山崎くんとは直接話したことがなかった。まるで唐突だ。
「京王線沿線で近いところに神代植物公園があるけど、行こうよ。暇なら」
 山崎くんは細身で、見た目爽やかな好印象だ。
「実はさあ、忘れ物して、家に取りに帰ろうと思っていて、君が目に入ったから」
「忘れ物取りに行くのと神代植物園と、どう関係があるの?」
「神代植物園は、うちから歩いていけるところにあるんだ。今は多分バラの花が満開だと思うよ」
「へえ、そうなんだ。神代植物公園に行ったことないから行く」
 二人で電車に乗った。お互いに初めて話すのでぽつりぽつりとお互いの自己紹介みたいな感じになった。彼は二浪してこの大学に入ったそうだ。高校生の時からつきあている彼女がいて、彼女は短大に入り、すでに卒業して社会人一年生になっているそうだ。
「だからさあ、なんとなく、結婚を意識しているみたいで少し重たいんだ」
「重たいって、彼女に失礼じゃない」
「まあ、そうかもしれないけど、こっちは大学に入ったばかりだからね。4年間待っててとは言えないし。先のことなんてわからないから」
「だよね」
「阿部さんは、付き合っている人いるの?」
 おっと、きたか。
「いない。だって女子校だったから。男子には縁がなく生きてきた」
「阿部さんはチャーミングだから付き合っている人いるかと思ったよ。入学式の時の阿部さんの自己紹介受けたよね」
「ああ、あれね。阿部麻里亜なんて名前、親を恨むよね。クリスチャンじゃないんだから」
 山﨑はクスッと笑った。
「あ、笑った。ひどい。こっちは真剣なんだから」
 私は女子校卒業で、入学式の日、教室に入ると、黒がいっぱいなのに度肝を抜かれたが、勤めて平静を装った。山﨑くんとこんなにスラスラ話せる自分が不思議だった。
 山﨑くんの家は門構のある立派な一戸建てだった。団地暮らしの私には、眩しく感じた。
「うちに上がっていく?」
「ううん、ここで待っている」
 玄関先で山﨑くんが階段を駆け上がっていくのを見ていた。しばらくして
心理学のテキストを片手に階段をかけ降りてきた。

 あの時も神代植物公園はバラの花が満開だった。園内は広く、結構歩き疲れた。大学に戻る前に蕎麦屋によって蕎麦を食べた。蕎麦は腰があり美味しかった。楽しさが心に残った。
 それから水曜日の空き時間は、なんとなく山崎くんと過ごすようになった。映画を見に行ったり、大学のそばの喫茶店でお互いに読んだ本の話をしたり、都内の有名な庭園や公園に遊びに行っているうちに前期が終わり、夏休みに入った。
 山﨑くんは、教習所通いを始めた。私はアルバイトを始めた。学期中は家庭教師を3軒やっていたが、それにプラスして長い夏休みのための2ヶ月間のアルバイトを始めた。日本橋にある証券会社で朝8時半から4時半まで。仕事はすぐに覚えられる簡単な事務作業と社員へのお茶だしだ。アルバイトがおわると、週3日は、家庭教師先に直行する。
 私は3人兄姉の末っ子だ。歳は2歳ちがいなのに、上二人が揃って浪人したため、3人揃って大学1年生から3年生までいる。しかも全員私立大学だ。親の細い脛は齧れないので、それぞれがアルバイトをして授業料を稼がなければならない。お小遣いももらっていない。実家で暮らしているが、かなり自立した生活をしていると自分では思っている。
 夏休みがそろそろ終わりに近づいた頃、山﨑くんから電話がかかってきた。
「ようやく運転免許取れたよ。ドライブ付き合ってよ」
「バイトしているから日曜日ならいいけど」

 山﨑くんの運転は心許ないものだった。坂道で赤信号になり、ブレーキをかけたが、後ろに下がっていく。後ろの車にぶつかる前に止められたからよかったけど。
 中華料理を食べて、二人で夕焼けに染まった海を見ていた。二人とも無言。不意に山﨑くんが私の肩に手を回し、引き寄せた。私は山崎くんの肩に頭をもたせかける形になった。
「ねえ、僕たち、付き合わないか?」
「高校時代の彼女はどうするの?」
「昨日、別れた。麻里亜といる方が断然楽しいってわかったから」
「気がつくのが遅すぎ」
 山﨑くんと私はぎこちない口づけを交わした。私にとっては初めての口づけ。唇と唇が触れ合っただけの口付けだったが、心が震えた。神代植物園から始まった時間潰しの関係が、友達から恋人に変わった瞬間だった。
 大学を卒業して、就職をすると、おたがい忙しくなり、すれ違うようになり、秋風が吹く頃には、学生時代の淡い恋が消滅した。甘酸っぱい恋だった。
 私は職場の同僚と結婚した。山﨑くんは某企業の社長令嬢と結婚したと風の便りで知った。その時はちりりと胸が少しだけ痛んだ。
 私は結婚してわかったことがあった。恋して結婚しても、彼が私を幸せにしてくれることはなかった。結婚してしばらくは幸せだった。子どもが産まれ、こ育てに奮闘しているころ、夫の裏切りを知った。夫は他の女性と性的関係を持ち、「離婚してくれ」と言い出した。子どもはまだ小学校に上がったばかりの長女と3歳の長男。専業主婦だった私は、夫の裏切りをなじり、独寝の夜に声も立てずに泣いた。
 下の子が小学校に上がると、私は出版社に就職した。子ども二人を養うために働いた。仕事先の編集長と恋に落ちた。彼は私の寂しい心に明るい灯を灯してくれたのだ。その時、夫が他の女性と恋に落ちた気持ちを理解した。
 編集長は私の寂しい気持ちを癒してくれた。書くことが、私を救ってくれた。妄想を繰り返し、創作を続けた。その結果、何十年も経って、今回の深大寺恋物語の大賞を受賞することができた。
 私は今も浮気ばかりしていた夫と別れもせずに暮らしている。不思議なことだが、夫とは命の深いところで繋がっている気がしている。
 日が暮れかかってきた。さあ、うちに帰ろう。夫が待っている。

 







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