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【短編恋愛小説】踏切


昨夜、僕は茉奈と喧嘩した。
理由はいつもの事。彼女のガサツな立ち振る舞いにカチンと来てしまったんだ。
何となく、怒鳴ってしまった。虫の居所が悪かった。
 
そしたら、茉奈がムッチャ怒った。そして、泣いた。
それから、「もうこの家、出て行く!」と、小さな声できっぱり言った。
 
僕は深く考えもせずに、「勝手にしろ」と、言い放った。
 
彼女は、泣きながら「お風呂に入る。」と言い、リビングを出て行った。
 
次の日、僕は仕事が休みだった。
茉奈は、ゴミを出し、洗濯機を回して、洗濯物をベランダに干してから家を出て行った。
ベランダから見える踏切を、彼女は一人で渡った。
茉奈が渡った後、すぐに特急電車が通り過ぎた。
再び踏切が開いた。
 
茉奈の姿は、見えなくなっていた。
 
 

本来なら、今日は珍しく二人の休みが合う平日で、予定通りであれば、午後から一緒に駅前へ出て、茉奈が食べたがってるピーチメルバを食べに行く予定だった。
それから秋向けのカウチのカバーを見に行く、そう決めていた。
 
しかし、彼女は出て行ってしまった。
暇になったな… ぽっかり空いた頭の中にそれが浮かんだ。
 
 
僕は陽が傾くまで、ベランダの近くに椅子を置き、ずっと踏切を見ていた。
 
夜になった。通勤電車が交錯する踏切を見ながら、一人でカップ麺を食べた。
終電が踏切を越えた。
駅前の灯りが消え始め、薄暗くなった。
開きっ放しになった踏切は、何となく間抜けに思えた。
 
彼女は、踏切を渡ってこなかった。
仕方なく僕は、シャワーを浴び、寝る事にした。
 
 

僕(相川温人)は、小さな広告会社でプランナーをやっている。
彼女(南田茉奈)は、その会社で契約でグラフィックデザイナーをやっている。
 
僕らは同じ仕事でタッグを組む事が多かった。
 
最初に彼女と一緒に仕事をやった時、僕は軽い衝撃を受けた事をよく覚えている。
 
僕は仕事柄、「概念」を語る事が多い。「概念」と「概念」を組み合わせ、一つの仮説を立てる。
勿論、その概念はマーケティングによる数値化された理論に基づくものだ。
数字は、正直で時に冷徹だ。
そのクールさが僕は好きだ。
 
彼女は、エモーショナルに仕事をする。
 
僕の概念を鮮やかに具象化してみせる。
 
そうそう、僕が言いたかった事は、そういう事!
 
彼女が描いたヴィジュアルを見て、僕は素直にそう思った。
その素直さがショックだ。
ビックリしたし、ガツンとやられた気になった。
 
その仕事は、当然うまくいった。
 
そして、僕らの仲も、うまくいった。だから一緒に住んだ。もうすぐ結婚かもしれなかった。 でも、もう彼女はいない。
 
 

次の日、僕は朝から会社へ出かけた。
会社なら、茉奈に会えると思ったからだ。
ごめんと言い、許しを受けて、一緒に帰ってこようと思ってた。
 
会社へ行くと、茉奈のデスクは空っぽになっていた。
 
総務部へ行くと、茉奈が昨日のうちに退社した事を知らされた。
 
僕が甘かった。
大変な事になった事を今頃気づかされた。
 
 

僕らは一緒に住んで、約一年。
茉奈は、僕より一つ上で、今年の11月に30歳になる。
 
茉奈は、山梨の勝沼に実家がある事は知っている。
実家では、ブドウを栽培し、ワインを作っている事も聞いている。
 
しかし、それだけだ。
住所も電話番号も知らない。
 
茉奈のスマホに電話をし、メールを打ったが、レスはない。
 
僕は、胸が苦しくなる気分を抱えたまま、仕事をし始めた。
 
 

午後から、茉奈と一緒にやってたプロジェクトの後任者と、打ち合わせをする事になった。
次のデザイナーは、大木悟君という男性で、有名なデザイン事務所から、先月ウチに移籍してきたやり手だった。彼は、僕よりも3歳も若い。
彼と差しで、これまでの進捗を説明した。
彼は、僕の説明を聞くよりも、いちいち自分の意見を言いたがる傾向があった。
彼が口をはさむたびに、僕の口は閉じなければならなくなる。
結果として、話が前に進まない。
僕はイライラする気持ちを抑えて、途中でミーティングを打ち切った。
彼とコミュニケーションを取るのには、少し時間が必要だ。
 
このプロジェクトは、もう終盤を迎えている案件だ。ここで、コミュニケーションのために時間を食うのは痛いが仕方がない。
 
こんな時に、いなくなりやがって…
 
僕の心の中は、茉奈に対する愚痴で一杯だった。
 
全て、茉奈が悪いんだ…
 
 

翌日も会社に出た。
ひょっとしたら、茉奈が来てるかもって、思ったからだ。
 
当然、茉奈は来てなかった。
 
大木君は、会社に来ていた。
僕が実施計画案を作成していると、大木君が来た。
「相川さん、ちょっと見てもらえます?」
「何?」
「南田さんのデザインを全部見直してみたんですけど…」
彼はタブレットで、自分が作ったグラフィック案を見せてくれた。
驚いた。
彼とは、昨日初めて、一回だけ打ち合わせただけだ。
しかも、その打ち合わせでは、僕の説明より彼の思っている事を聞いてる時間の方が長かったはずだ。
なのに…
明らかに、茉奈が作ったグラフィック案より理解度が深まったグラフィックが、連続している。
それも、3パターンずつ作ってる。
 
「いいね、何の文句もないよ。」
「じゃあ、この線で作業を進めてもいいですか?」
「大丈夫だ。」
「A案、B案、C案は、どうします?絞ります?それとも、もっと案出しします?」
「今のままで作っていって、クライアントに絞ってもらおう。」
「分かりました。案の中に南田さんのヤツも含めます?」
「それは、いったん保留で…」
「分かりました。」
 
彼は全くクールだ。
 
僕の作る戦略と、彼のグラフィックは、茉奈のよりも相性が良いような気がした。
 
 

家に帰ると、茉奈の事を考えてしまう。
一人で飯を食ってると、尚更だ。
ダイニングテーブルに座ると、前にいるはずの茉奈がいない事に強い違和感を覚える。
僕は、普段あまり酒を飲まないのだが、茉奈は夕食の時に、よく冷やした白ワインを飲む。
ワインは実家から送られてくるものだ。彼女は、自分の家のワインが大好きだ。
彼女は、最初の1杯をゴクゴクと、まるで水を飲むように飲む。
そして、「幸せーーー!」と言う。いつもだ。必ず。
 
その「幸せーーー!」という声が聞こえない。
 
僕は、踏切の見える窓の側に置いた椅子で、飯を食い、テレビを聞いた。
そして、風呂に入り、寝る。
眠れはしない。ただ、横になるだけだ。
 
 

仕事は、順調に進んだ。
大木君の作るグラフィックのお陰だと言ってよい。
彼は自己主張の強いヤツのように思えたのだが、違った。
彼は僕の作る戦略案をよく読み、理解したうえで、デザイン案をまとめた。
しかも、どれも複数のパターンを用意していた。
これは並大抵の作業ではない。しかし、彼はそれを簡単にこなした。
これは、非常に気分がいい。仕事が進んでいる実感があるし、彼の作品はどれもクオリティが高い。
おまけに、彼はそれらを作っている時に、合間に僕に余計な問い合わせをしてくる事がない。
仕事の手を止めないのだ。
これはすごく楽だ。
楽にスムーズに進行できて、出てくるグラフィックは質がよく、納得できるものばかり。
何の文句もない。
 
毎日の生産性は上がり、僕のモチベーションも上がっていった。
 
 

僕は、早めに会社を出た。
 
家に帰り、買ってきた唐揚げ弁当を温め、食べる事にした。
 
唐揚げって、冷えた白が合うのよねえ…
 
不意に、茉奈の言葉を思い出した。
冷蔵庫の野菜室には、白ワインが入ってる。
 
たまには飲むか…
 
僕は、ワインとグラスを持ってきた。
 
唐揚げを一口食べる。
ワインを飲む。
 
なるほど、これはイケる!
 
気がつかなかった。
 
唐揚げは、全部で5つも入っていた。
その5つで、封を切ったばかりのワインを全部飲んでしまった。
 
カウチへと移り、新しいワインを開け、僕の好きなピスタチオを食べながら、録画していた大谷翔平の試合を見た。大谷は、僕は好きな訳ではない。茉奈がファンなのだ。
 
大谷は、この試合でもホームランを打った。
 
茉奈は喜んでるだろうなあ… そう、思った。
 
 

朝日が眩しくて目が覚めた。
カウチで寝ていた。
TVはついており、朝の天気のコーナーが始まっていた。
ピスタチオの缶は開きっ放しで、グラスは飲み残したワインが温くなっており、ボトルは転がっていた。
 
僕は、カウチから離れ、洗面台で顔を洗った。洗いながら、ピスタチオの缶が開いていた事を茉奈に知られたら、またこっぴどく叱られるなあと、思った。
 
顔を洗うと、少しはまともな気分になったが、それは気の問題だった。現実はそんなに甘くなかった。
二日酔いで、頭がガンガンした。
 
着替えなきゃ… 顔を洗ったばかりだが、そのまま服を脱ぎ、シャワーを浴びる事にした。
温度を42℃に設定し、熱い湯を長い時間浴びた。シャワーから出て、着替えたら、何とか今日一日を過ごせそうなモチベーションが湧いてきた。
すぐに仕事に取り掛かる事にした。早起きは三文の徳ってヤツだ。
 
2時間集中して仕事をした結果、分かった。
確かに、大木君のグラフィックは僕の事業計画によく馴染み、相性が良いと思った。しかし、それは客観的に見て、「面白くない」という事がだ。
スムーズで、どれもこれも受け入れやすいものなんだが、逆に何も「残らない」。
引っ掛かってこないのだ。心に刺すものが何もない。
 
茉奈…
 
茉奈は、そんな事も含めて、全部お見通しだったんだ…
 
僕は自分の戦略に溺れて、自分を見失う事がある。プロとしては、全く失格なのだが、プランナーの弱みで、時としてナルシストになってしまう。
そこを茉奈は見抜いていた。
 
ホントは、踏切を茉奈が越えていった時に、僕は全部分かっていた。
僕には、茉奈が必要だって事を。
そして、茉奈を探す事なんて、造作ない事も分かっていた。
 
会社にメールを打ち、今日は休暇をもらう事にした。
 
そして、僕は飲みほしたワインのボトルを持ち、出掛けた。
 
 

勝沼駅には、2時に着いた。
カーっと晴れた真夏の昼下がり。しかも、山間の盆地の駅。
駅前の小さな広場は、熱気が充満していた。
 
ボトルでワイナリーの住所は分かっている。
マップで調べると、徒歩15分。
 
強い日差しの中で、僕は車道の横の細い歩道を歩いた。
汗が止まらない。道路沿いには観光農園があり、桃が美味そうに思えたが、それよりも今は水が飲みたかった。
 
茉奈のワイナリーに着いた。
店の前には、観光バスが難題も停められそうな広い駐車場があり、店の中は観光地の土産物屋の赴きだった。
 
どうしようかと、店の前まで来てから10分ほど悩んだが、せっかくここまで来たので、僕は店の中に入った。
ちょうど、日帰りバス旅行の観光客で店がごった返している時で、これならバレないだろうという読みもあった。
店の中を歩き回ったが、茉奈の姿は見つけられなかった。
 
僕は、店を出て、反対側にある別の店の駐車場の喫煙スペースへ行き、ベンチに腰掛けた。
煙草が吸いたい訳ではない。ここなら、茉奈の店が見えるからだ。
自販機で、水を買った。
一本目は一気に飲んでしまった。すぐに二本目を買い、飲みながら、茉奈の店を見ていた。
何のプランもなく、ここまで来た事を反省した。これじゃあ、プランナー失格だ。
 
 

時間が経ち、少々焦りが出てきた。
簡単に考え過ぎた事を後悔し始めていた。
 
ワイナリーはすぐに見つけられる。それは間違いない。
だからと言って、すぐに茉奈と会えるとは限らない。それは考えもしなかった。
大体、茉奈がここに帰ってきてるという確証は何もない。
 
それにしても暑い。
トイレに行く時以外は、このベンチを離れる事をしなかった。
陽が高いうちは、熱で頭がクラクラしたが、水を何本も飲み、凌いだ。しかし、いつまでたっても茉奈の姿を見る事は出来なかった。
オレンジ色の夕方が終わりを告げる頃、僕は仕方なくメールを打ち始めた。
 
茉奈
僕は今、茉奈のワイナリーの前の駐車場にある喫煙所で煙草を吸っている。初めて吸ったんだが、案外吸えるものだと思った。煙草を吸ったなんて言うと、茉奈は怒るだろうね。でも、茉奈になかなか会えないから、時間潰しのために仕方なく吸ってみたんだ。何しろ、ここは喫煙所だからね。
今日は、もう帰るよ。明日、朝から会社で用があるからね。
茉奈、もう一度、話をさせてくれないかい?茉奈がいなくなって、僕には分かった事がたくさんあるんだ。
だから、もう一度、会って話したいんだ。
明日午後から、ここに戻ってくる。そしたら、駅から茉奈の店までの間にある踏切の前で、茉奈を待つよ。家を出て行った時、茉奈は踏切の向こうへ消えていった。今度は、踏切を越えて会いに行こうと思ってる。明日もまた、2時ぐらいに着く特急で来るよ。
お願いだから、踏切に来てよ。温人
 

昨日と同じ時間に勝沼駅に着いた。
踏切まで行くと、踏切沿いにある駐車場の入口と線路を分かつ芝生のところにある段差に腰かけた。
 
何て事無く、1時間が過ぎた。
今日は大きめの水筒に水を入れて持って来ているので、まだ水を買いに行く必要はない。
 
2時間を過ぎる頃、水がなくなった。しかし、ここまででだいぶ飲んだので、まだ、水を買いに行くまでもなかった。
 
3時間が過ぎ、辺りが夕方の空気になってきた。熱帯夜を予感させる湿った空気だ。
水を買いに行こうかと思い始めた頃、新宿行きの特急が走ってきた。
この列車が過ぎたら、自販機へ行こう。
 
特急が過ぎた。
 
踏切の向こうに、茉奈がいた。
 
茉奈。
 
茉奈は踏切の向こう側で、話しかけてきた。
「温人」
「茉奈」
「ギリギリセーフ」
「どういう事?」
「後、一日、来るのが遅かったら、ムリだったみたいよ。」
「ムリ?」
「もっと早く来なきゃ。」
「あっ、ああ… 気がつくのが遅かったんだ。」
「みたいねえ。仕事は合理的なんだけどねえ…やっぱりダメねえ…」
「ダメって?」
「温人は、人の気持ちを汲むのが下手なのよ。」
「それはそうだと思った。今回、よく分かった。」
「分かったの?」
 
踏切が鳴り、遮断機が下りた。そして、上りの普通電車が通り過ぎた。
 
「ああ、だから、今日、会社、辞めてきた。」
「なるほど。」
 
下りの電車が通った。
 
「なるほどって、分かってたのかい?」
「分かるわ。温人がここに来るなら、自分の事が分かったんだろうって、思ってたもん。」
「そう、僕は今まで自分勝手だった。自己主張ばかりで…」
「そうね。」
「茉奈が助けてくれてたのに、全く分かってなくて…自分の手柄ばかりを追ってた。」
「だと思う。」
「だから、僕には茉奈が必要だという事が分かっていなかったんだ。」
「今は、分かった?」
 
上り電車が通った。
 
「分かった。」
 
下り電車が通った。
踏切が開いた。
 
茉奈が近づいてきた。
僕は茉奈の方へ駆け出し、線路の真ん中で、茉奈を抱き締めた。
 
踏切が鳴った。遮断機が下り始めた。
 
僕らは抱き合ったままで、踏切の外へと走った。
 
すぐに、特急列車が通った。
 
電車が通り過ぎると、茉奈が「ギリギリセーフ」と言った。
僕たちは笑った。
 
 

 

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