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「不器用で」読みはじめ

ニシダ、なんか好きだな、と思っているので、「不器用で」買いました。

ものすごくケチな自分は、これまで本は図書館で借りるか、友達に借りるか、メルカリで中古で買うかしかしてこなかった。
そんな私が、ニシダを応援したい!の一心で、少しのためらい(ケチ心)と共に蔦屋で購入しました。

まだ読み始めてから帰りの車内の20分しか読んでいないけれど、早速想いが溢れ出てきたのでここにしたためる。
ちなみにnoteも初。

最初の章「遺影」
ニシダは金銭的に恵まれた環境で育ってきたと聞いている。
その前提を知った上で、貧乏家庭に育った主人公といじめられっ子を題材に描いているのは興味深い。。

どちらかというと私も恵まれた環境で育っている。貧しい家庭で生まれ育った人間の苦悩は、想像したことはあっても、かなり概略的なものだった。

しかし遺影を読みはじめて、さっそく気づきがあった。お金がない生活よりも、両親の経済状況を窺いながら生きることの方がつらい、という主人公の感情だ。
これまで自分の想像が及んだのは、まさしく「お金がないこと→生活が困窮する」ことによる苦悩だけだった。しかし、本当に辛いのはそのもっと先の、さらに個人的な感情だった。
マクドナルドで最も安いバーガーを買ったり、友達がクレーンゲームで惜しみなくお金を出して遊んでいるのを、後ろからただ応援しているだけの身に置かれたりする中で芽生える、劣等感。そんな劣等感を抱いて過ごしていることを、両親には話せない苦悩。

「あなたはお嬢様だから」「箱入り娘だから」
という言葉が前から苦手だった。
そこに、発した人物からの皮肉、距離を取られる感覚を覚えていた。
「あなたはお嬢様だから(、俺/私みたいに苦労を知らないで生きてこられて幸せだね。どうせ辛いことなんて経験してこなかったんでしょ?恵まれた人だもんね。)」
括弧の中の言葉が無意識に想起されて、自分のプライドに突き刺さってくる。

たしかに、お金はあって、恵まれた環境に育ってきたのは事実だ。だけど、だから幸せかと言ったら別だ。恵まれた環境に育ってきたからこそ、得たかったけど得られなかったことだってあった。
生きるか死ぬか、というところまで追い込まれたことがないから、追い込まれる経験が少ない。そのことによって、少し他者に詰め寄られたりするだけで深く傷つく繊細な人間になってしまった。また、生きるか死ぬかで、生きるを選択した際のチャレンジングな経験もしてきていない。それによって、変化が苦手な、現状にとどまる甘えた人間に育ってしまった。
自分で行動を起こさずとも生活はできるから、行動するよりも頭で考える人間になってしまった。それにより、頭で考えすぎて過呼吸やパニック障害に陥ることも何度かあった。
また両親は仲が悪かった。母から毎日父の悪口を聞かされていた。そんなに嫌なら離婚すればいいのにと思った。でも父はお金を持っていたから、母はなんとなくそこに甘えて離婚は選択しなかった。悪口は続いた。

「お嬢様だから」という言葉を浴びせられるたびに、私だって辛いことがあったのに、そんな苦悩も知らずに、恵まれてるんでしょ なんて軽々しく言わないで!と思っていた。
むしろ、貧しい家庭に育ってきたからこそ、何か行動を起こさないと始まらない状況に身を置き、そこで生きる力を育んできた人たちが羨ましくてしょうがない。
大人になって、社会に出てから、そういう人たちの方が打たれ強く、たくましく生きている気がしている。
私は少し辛いことがあっただけで考えすぎ、傷ついた。もっと子供のうちに、チャレンジングな環境に身を置きたかったと思っている。

でも「遺影」を読んで、貧しい環境で育ってきた人が、恵まれた環境で育ってきた人を羨ましく思う感情が理解できた気がする。
やはり、お金があるのとないのとでは根本的に苦悩の質が違うのだと思う。
お金がある人の苦悩の方が価値が低くて、お金がない人の苦悩の方が価値が高いとかそんな単純な話ではない。
根本的に、お金のない苦悩を経験してきた人の世界の見方と、そうでない人の見方は全く別物なのではないかと思った。

お金のある人がお金のない人を理解しようとする時、それはただの哀れみにしかならない。実際に経験できないのだから、「大変だ...」と感じ、そんな状況を生き抜いていることに対して無責任な尊敬を抱く。
きっと、「大変でしたね。すごいですね。」と話しても、それはただの嫌味・皮肉にしか聞こえないのだろう。私も実際に、昔貧しかった人にそのように言葉をかけた際、嫌味にしか聞こえないよと言われたことがある。私は心からの尊敬を込めて伝えたのだが、今となっては相手の気持ちが少しわかる気がした。

逆もしかりだ。お金のない人がお金のある人を見たら、そりゃあ羨ましいに決まっている。羨ましいし、妬ましいだろう。その人が持つ貧乏で苦労した経験を頭の片隅に、「この人はそんな経験をしてこなかった人なんだ」と、何か別の生き物を見るような色眼鏡で金持ちと会話するのだろう。

金持ちが貧乏を見る時、そこに金持ち<=>貧乏 の差は存在しない。しかし、貧乏が金持ちを見る時、そこには金持ち<=>貧乏の対極が明確に存在する。

「貧乏な暮らしを経験したことがあるかどうか」これは、人格を形作る上で、人間関係を構築する上で、人間を理解する上で、かなり重要な要素と言えるのではないか。

やはり、当事者であることと、当事者の立場に立つことは全く別物だ。

これまで貧乏と金持ちの対立軸で話してきたが、貧乏と金持ちに限った話ではないのかもしれない。
障がい者や障がい者を持つ家族、LGBTQ+、宗教信仰者、、

「多様性を尊重しよう」が世間の善として取り沙汰されるようになってきた。
自分は一生、「多様性を重んじている」と明言できないのだろうと思う。
一生、多様性ってむずかしい....となっている気がする。

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