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日本を原(たず)ねて 心の健康 ストレス解消 【与謝蕪村】

 10 与謝蕪村 (1716~1783)
まぶさび記 空海(774~835)と生きる 篠原資明 弘文堂
 心遣(こころや)ることにより別様の感じ方が出来る。慈円(1155~1225)が歌の本質を心遣るところに見ていた。慈円とほぼ同時代の明恵上人(1173~1232)は、自らの歌集に「遣心和歌集」と名づけていた。
                            32ページ
…「心遣る」というあり方だ。たとえば言葉になりきるというあり方のこと。詩人が、自らの言語表現と一体化することにより、それまでの自分とは異質の存在へと生成するとする…たとえば明恵の次の歌を見てほしい。
  あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月
ここで明恵は、月の光がくまなくいきわたっている、ことに、感動しているだけではない。文字どおり、その月の光になりきっているだろう 38ページ

月の光と一体化している明恵は、生活感情をあらわしている。

風雅とは —芭蕉(1644~1694)の次の言葉にうかがえるとおりだ。
西行(1118~1190)の和歌における、宗祇(そうぎ)(1421~1502)の連歌における、雪舟(1420~1506)の絵における、利休(1522~1591)の茶における、その貫通する物一なり。しかも風雅におけるもの、造化[①自然界の理。②天地。宇宙。③万物を造った神。造物主。④幸福。―漢和辞典、小学館]に随(したが)いて四時(しじ)(春夏秋冬)を友とす。[「笈(おい)の小文」]
芭蕉のこの言葉からは、風雅というものが自然と不可分のものとして捉えられていたことも、理解されよう。…風雅というものを、つぎのように定義しておこう。
自然を友としつつ、心遣ることとして。        71・72ページ

 この風雅の状態が生活感情をあらわしている。

芭蕉が自ら作り上げた系譜は「笈(おい)の小文」の次の言葉からもうかがえるとおりだろう。      
西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫通する物は一なり。
 西行、宗祇、雪舟、利休、と続く系譜、それは、芭蕉なりに理解した風雅の系譜だったろう。これに対して、蕪村が自らつらなろうとした系譜、それは、ほかでもない芭蕉につらなる系譜だったはずだ。…芭蕉関係の仕事からも、そのことがうかがわれる。二つだけ挙げておこう。ひとつは、京都詩仙堂近くの金福寺に、芭蕉庵を再興しようとする活動、いまひとつは「奥の細道図」など、芭蕉関係の絵を多く描いたことである。
                            164ページ

道教と日本文化 福永光司著 人文書院
 大雅とならぶ南画の代表的画家、与謝蕪村はまた俳諧の巨匠でもあり、荘子(紀元前369~紀元前286)の“遊び”は俳諧の世界と南画の世界に共通する精神的な風土の象徴でもあった。(中国における南宗画の発達は、禅や荘子の哲学と密接な関係をもつ)
                            121ページ
 よって生活感情をあらわしている。

日本文化のゆくえ 茶の湯から  熊倉功夫著 淡交社
 日本の南画…与謝蕪村の場合は、「道」が重要なテーマになっていますがそこには、道教の影響があったとおもいますね。                  
                             138ページ

 よって生活感情をあらわしている。

地の巻 日本のこころ「私の好きな人」與謝蕪村 芳賀徹著 講談社
   蚊屋つりて翠微(すいび)作らん家の内
 「翠微」 とは薄緑色の山の景とその気配のこと、蕪村の想像力は、蚊屋ひとつで狭い町なかの家に山上の大気を呼びおろすこともできたのである。…天下泰平のもとの「足るを知り文に安ず」の生活のなかに、かえって限りもなく俳諧の美や面白味を発見し教養と詩的夢想の力によって小市民的生活の内奥にひそむ人間普遍の不安や不確かさや、はかなさの感覚、あるいわ、逆にささやかながら深い生のよろこびを汲みあげて、珠玉の詩篇とすることができた。俳句とは人生と自然に即物的に密着して、その表層のさざ波のきらめきをも、その深層の大きなうねりおも、鋭く切りとって示すのに恰好の利器だった。                    147ページ

俳句とは人生と自然に即物的に密着さすことが出来る利器だった。                       
このことは、日本古来からの生活感情をあらわしている。

与謝蕪村の小さな世界 芳賀徹著 中央公論 
蕪村はその火桶をそれ自体一つの内的次元をはらんだ物体として、冬中夜々に愛撫した。
桐火桶無絃の琴(きん)の撫ご々ろと陶淵明(365~427)が無絃の琴を撫で、もてあそんで無音の音を楽しんだと伝えられるように、琴と同じ桐製の火桶を撫でるともなく撫でて、籠(こも)り居の夜のさまざまの夢物語と幻想の詩を、そのなめらかに艶おびた丸い肌ざわりのなかから紡ぎだし、みずからそれに聞き入ったのである。             60ページ 
           
 この俳句の撫でご々ろの所は、蕪村が陶淵明を思う所であるが、次の句
   蚊屋つりて翠微作らん家の内
 翠微に注目すると、陶淵明の詩で廬(いおり)を結びて人境に在り(廬を構えて、里に住んでいる)の中に悠然として南山を見る所があり、この南山は陶淵明のふるさと廬山である。詩はゆったりとした気分で南山を眺める。山の様子は夕方にとりわけ素晴らしく鳥たちが連れだって、ねぐらへ帰って行く、この自然の中にこそ、この世の真実なものがあり、それを言葉に出して説明しょうと思うが、とたんに言葉を忘れてどう表現したらよいか分からない。                        171ページ

      詩経から陶淵明まで  近藤春雄著 武蔵野文庫 から
 蕪村は、この詩中の廬山(南山)を蚊屋で家の内に作ろうとしたのでは。
 このことは、日本古来からの生活感情をあらわしている。
付 漱石の「草枕」にも見えている。


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