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Peka「なんでもない日」

先日「なんでもない日」という企画に参加してきました。

集まった者同士で語らうというよりは、自身の時間を過ごすと解釈し、
今制作中の作品を川辺で描こうと準備して参加してきました。

この日は元々、三重県志摩にある神社へ行く予定でしたが、
前日に予定変更をしてこちらへ参加させて頂きました。

一人川辺で作品を描いています

こちらに参加させて頂いたことにより、様々な気付きや体験がありましたので、
少し長くなりますが羅列していこうと思います。

わたしの他にお二人の参加者さんがいらっしゃったのですが、
まさにわたしが自分自身に長いことできない。ない。と思っていることをお持ちの方達でした。
言うなれば、自身の劣等感との対話とでもいうのでしょうか。

ここで自分の劣等感を披露するのもなんですが、書いていきます。

まず、自分の品のなさ。絵を描いている様からも分かるように、
どちらかというと派手で落ち着きがなく、品性が見られません。

参加されていた方が、とても落ち着いており上品な雰囲気のある方で、
わたしどう振る舞っていたら良いのだろうと一瞬よぎりました。
(よぎってはいるものの、特に振る舞いを変化させることもできません。)

多分この一瞬考えている間は沈黙でいたような気がします。

また、自分のやっていることに対して「当たり前」感が強く、
自他ともに興味が薄く、今在る状態・状況のこと以上や以下は見落としがちです。

しかし、参加されていた方はその人の素晴らしいを言葉にして伝える方でした。
わたしに伝えてくださっているにも関わらず、どこか他人事として受け取っており、
「へー」と何度言ってしまったことか、、、

主催の方に対しても、反発心を持っていた自分を見つけ、相当うんざりしました。
尊敬と依存心が共存していたことを見つけたわけです。

お部屋に置かせて頂いた作品『他者』

そんな劣等感と、自分のことを自分が一番遠ざけているのではないかという懸念を抱えながら、太陽が照りつける川辺で、裸足になり絵を描きました。

絵を描きながらも、下手だなー発想が乏しいなーなんて想いが湧いてきたりするのですが、それでも続けていると一気に吹き飛ぶ瞬間がありました。

楽しいという言葉では足りず、解放的で夢中になっている自分がいました。

その感覚を持ったまま、皆さんのいる場所へ戻ったのですが。
空間がとてもキラキラしていて、安心があり、優しく柔らかいものでした。

ここに自分がいられることに、劣等感どころか誇りすら感じました。
一日経った今、すでにかなり過去のような感覚ではありますが、
自分が持っていた劣等感は劣等感ではなく、ちゃんとわたしで在ることを知らせる為の感覚だったのだと理解しました。

そして反発心と依存心は、怒りや責める気持ちではなくやはり尊敬です。
もちろんその方への尊敬でもありますし、自分が自分から遠ざかっていることへの警笛でもありました。

自分の苦労や頑張ってきたこと、できないと決めつけて逃げてたこと、
そういった自分を全てなしとして、できて当たり前。
やると決めたならば、できるまでやるのが当然で褒めるに値しない。

こういう自分に、できなかった自分も、苦労してきた自分も、頑張った自分もちゃんと存在していて、それらの自分が今の自分の中に全ていて、
なかったことしたり、いなかったことにしたり、無視したりするなと叫んでいたように思います。

そう。
わたしは、普通にもすごい人にもなれず、ずっと燻っていただけの劣等感人間。
これを自分で見つける1日だったと思います。

それを見つけられた自分はやはりすごいのだと思います。

素晴らしい時間と場所を提供してくださりありがとうございました。


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