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不気味な気配

末の息子が幼かった頃、呪怨という映画が流行った。
ホラー好きの私や既に大きかった上の子供達は、「作り物」と認識した上で、面白がってそれらを観ていたが、3歳の末息子に大人と同じ感覚を持てと強いるのはどうやら無理だったようだ。
年の離れた姉らと一緒に映画を観た、いや、観せられてしまった哀れな息子は、それ以来「かや子」が来ると言って、少しも独りになる事が出来なくなった。
どこが怖いのかと尋ねると、息子は不安げに小さな指で押し入れを示す。
押し入れの中にお化けが居たシーンがあったのか、私の記憶は定かではないが、息子はそこに何かが居ると言う。
不運な事に、当時住んでいた古い一軒家には各部屋に押し入れがあり、襖にはどれもおどろおどろしい松の絵などが描かれていた。
なるほど、これは「かや子」が潜んでいると考えても致し方が無いと、苦笑いをするしかなかった。
私がトイレに立っても、料理を始めても、息子は不安そうに後ろを付いて歩く始末。片時も私から離れようとはしなくなった。
ある時には、息子が昼寝をしている最中に、今だと思い、家のすぐ裏手にあった商店に醤油を買いに走った。
だが彼は私が外へ行く気配を察し、すぐさま目を覚ましたようだ。
5分ほどで家に戻ると、息子が玄関の外へ出て大泣きをしていた。
私は息子を抱きしめ、諭した。
「いい?よ~く周りを見てごらん。おうちがいっぱいあるでしょう?」
息子は大粒の涙をポロポロこぼしながら「うん」と頷く。
「かや子は忙しいの。こんなに多くの家があるのに、かや子一人で全部の家の押し入れに来ることなんて出来ないんだよ。だからうちには絶対に来ないよ」
なんとも子供だましではあるが、相手は3歳児。上手く騙されてくれたようで、それ以来息子はたまに「かやこ忙しい?」と、家族に尋ねることはあったものの、ピタリと泣かなくなった。
可哀相なトラウマを与えてしまったと思う反面、怯えて泣く姿も、我慢を覚えたいじらしい姿も、どちらもあまりに愛らしい姿だった。
そのうち「かや子」は息子の意識から離れて行き、私はまもなく離婚した。
そうして私は子供達を連れて恐ろし気な古い家を出た。

月日が流れ、その末息子が中学一年になった頃、私は牧師と再婚をした。
再婚した夫は、私の家族の為に全面的に日本へ移住すると決め、アメリカに所有していた家や土地を売却する事務手続きの為、しばらく離れていた自宅へと戻った。
ところが、夫はアメリカに戻るや否や私に連絡を寄越し、家が大変な事になったと告げた。
「ほぼ売却が決まっていた家の排水装置が壊れて地下室がプールになっている。
地下に置いてあった家具もそのまま売る予定になっていたのだが、それらが全滅だ」
夫の慌てぶりに只事ではないと察し、私は夫を追う形で急遽向こうへ飛んだのだが、到着して家を見るや否や絶句した。
その家は一見すると平屋で横長の作りなのだが、その全フロアと同じ面積分地下があり、日本の二階建ての家屋の二階部分を、そっくりそのまま地下に持って行ったような作りだ。
その地下室が完全に浸水しており、それはまるで温水プールのようだった。
挙句の当てには、見た事もないクラゲのような謎の生物が水面上に無数に漂っているではないか。
私がそこへ到着するまでに丸二日は経っていたというのに、排水を行う業者はまだ来ておらず、夫の兄弟らが簡易的な装置を持参で掃除の手伝いに来ていた。
「ポンプが壊れて止まっていた」
夫はそう言って激しく落胆していた。
湿気の強い地下は常に水を汲み上げていなければだめなのだ。その装置が、夫が家を離れていた間に故障したらしい。
「どうしよう・・・売れるの?こんな状態で・・・?」
「分からない。ここはまだ僕の家だから僕が直さないと」
それからが大変だった。
あれが足りない、これが必要だと、みなでアタフタと作業をし、夫は必要な物を買うために兄弟たちと出掛け、私は一人留守番となった。
夫が出掛けて三十分ほど経った頃だった。
タタタ・・・と、突然誰かが天井裏を走る音が聞こえた。
ネズミだな・・・私は音を無視し、地下室の水面を漂う物を拾っては上に運び出す作業を続けた。
ミシ、ミシ、ミシ・・・次にはゆっくりと歩く、重そうな足音が響いた。
私はビクッとして体を起こし、しばし様子を窺う。
夫が帰ったのだろうかとも思ったが、直ぐに車の音がしなかった事に気づく。
一瞬ゾッとしたものの、私は奇妙な音を徹底的に無視した。
「これはネズミじゃなく、水道管の震える音だな・・・」
強引に自分にそう言い聞かせた直後の事、ダダダダと、次には天井裏を誰かが走る音が響き、遂に私は外へと逃げ出した。
業者が来たのだろうかと思い直し、改めて庭から家を見るも、屋根に誰かが登っている気配はない。
しかし、あの音は完全に足音だった。そうだ!換気のためにと、ガレージに通じるドアを開け放して作業をしていたではないか・・・そして私は地下にいたんだ・・・。
ということは、あの音は天井裏からではない。一階に誰かがいたんだ。
私は家をじっと見ながら、後ずさりをした。
もう一度家に入って確かめようか、いや、もしかすると強盗は一人ではないかもしれない。
私は恐ろしさのあまり体が動かず、家の中に戻れなくなってしまった。
まずい、カバンやパスポートが家の中だ。携帯電話を持って外に出るべきだった。そんな事よりも、私は生きて日本に帰れるのだろうか?
夫の家の近所に知り合いなどおらず、私は子供の様に怯え、独りで庭に立ち尽くした。
そうこうしていると間もなく夫が一人で帰って来た。
夫の大きな長靴を履いた妻が、青ざめた顔で道路に突っ立っているのだ。恐らくそれは実に奇妙で、夫は何事かと驚き私に尋ねた。
「誰かが家の中にいる。足音が凄い。怖い・・・」
私の言葉を聞いた夫が、「ああ・・・」と言うなり、スタスタと家に入って行った。
私は慌てて後を追う。
すると夫はやにわにライフル銃のようなものを手に取った。
「ちょっと、ちょっと!何もそこまでしなくても!話し合おうよ!殺しちゃだめ!」
ここはアメリカ、強盗団に襲われるのも、それを家主が射殺するのも、きっと日常茶飯事!私の妄想は大いに膨らみ、じっとりと脇に冷や汗が滲むのを感じた。
夫が天井に向け、銃を構えると、タッという乾いた音が鳴り響いた。それはこれまでの私の人生で、一度も聞いたことの無い音だった。
「空気銃だ。あいつらが配線を齧ったんだ」と夫は言った。
「あいつら・・・?」
屈強そうな強盗軍団が排水ポンプの電線に噛みつく姿を想像していると、突然先ほどよりもさらに激しい足音が家じゅうに響き、一匹の大きなリスとアライグマが私の目の前に現れ、外へと飛び出していった。
強盗じゃなかった・・・私はへなへなと腰が抜け、何故か涙が溢れた。
数十分間の張り詰めた恐怖の中で、私は「かや子が来る」と言って怯えていた幼き日の息子を思い出していた。
息子を脅かし、怯えさせた「かやこ」は私自身だ・・・そう思っていた。
親の喧嘩や母親の涙を、子供達はどう見ていたのか。
上の子供達は両親の離婚の気配を察しても何も言えずに過ごしていたのだろう。
実際には存在しない「かや子」のせいで、家庭内は大いに不穏な空気にさらされている、
三歳の息子は幼い知恵でそれを必死で訴えていたに違いない。
今はどうか?
母は突然国際結婚に踏み切り、またも子供達の生活を揺るがせたではないか。
身勝手で馬鹿な親でごめんと心で呟き、涙がとめどなく溢れた。
アライグマ騒動の日から十数年が経ち、かや子に怯えた末息子は仕事で海外を飛び回っている。
独り暮らしの家にお化けは出ないかと息子に聞いたら、彼は「そんなもん居るわけがないでしょ」と言い、笑った。
そんな笑顔は子供の時のままで、私は胸にぐっとくる切ない思いに駆られる。

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