見出し画像

「一つの花」(今西祐行)をどう授業するか

行空きから三場面を意識する

 まずは、三つの場面に分かれていることを子どもたちがしっかりと認識し確認できることである。光村図書と教育出版の教科書は、3場面の始まりがページの始まりと重なっているため、行空きが確認しにくい。行空きを意識できるように、教師がしっかりと指導して行くことが必要である。
 ついでに述べておくと、東京書籍だけは行空きを1行にカウントしていない。行空きに対する認識の低さであり、早急に改めるべきである。
 この教材に至るまでにも、行空きが設けられている教材はある。行空きという形式に着目できる力はここまでに指導しておくことが望ましい。仮にこの教材で初めて指導するにしても、以前の行空きをもつ教材にさかのぼって、行空きの意味を振り返っておくことも必要である。
 教師が範読する際にも、意図的に行空きのところに間を置いて、行空きを意識できるようにしたい。読み終わったときに、子どもたちから「行空きで三つの場面に分かれている!」といった声が上がってくるようにしていきたい。場面を意識することは作品の組み立てを意識することである。そこに子どもたちが進んで目を向けるように指導していくのである。
 子どもたちの主体性を生かすことは、自分で考えなさい・やりなさいと繰り返し言うことではない。どんなところに目を付けたらよいのか、どのように考えたらよいのか、そのヒントを日頃の授業の中で教えていき、やがては子どもたちがそれらを使いこなしていけるようにすることである。そのようにしてこそ、子どもたちの主体性が育まれていくのである。子どもたちの主体性を育むためには、放置ではなく、的確な指導こそが求められる。 

三場面を整理する

 三つの場面に分かれていることが分かった後は、それを整理していく。場面は、時・場・人物の三要素からなる。三要素に基づいて整理する。

(1場面) 戦争中  家    お母さん・ゆみ子

(2場面) 戦争中  家・駅  お父さん・お母さん・ゆみ子

(3場面) 戦後   家    ゆみ子・お母さん

 上記のように整理したら、分析する。そこからどんなことが分かるかを考えるのである。
 3場面だけ時が大きく変わっていることはすぐ分かる。とは言っても、これまでの国語の授業で時の変化に着目することをやっていないと、「3場面だけ時間が大きく変わっています!」といった意見はすぐに出てこない。
 この物語が戦争中と戦後の大きく二つの時間を使って描かれていることがわかる。そうすると、戦争中と戦後が対比されていることに気づく子どもも出てくる。そうなれば、1・2場面と3場面を比べて考えるという課題は子どもたちの中から出されてくる。
 3場面の前の行空きは、大きな時の変化でわかりやすい。そうなると、1場面と2場面はどうして分けているのだろう? という疑問が出てくる。これが子どもたちから出されたら最高である。これまでの物語における場面の読み取りの中で、時・場・人物の変化を意識できるようにしていたら、子どもたちから出てくることも決して夢ではない。鋭い子どもは、1場面と2場面の違いを、お父さんの有無にあることを指摘してくるかもしれない。
 1場面と2場面をどうしてここで分けたかは、すぐに分からないかもしれない。その場合は、クラス全体の課題として、この作品を読み深める中で考えて行くようにしてもよい。安易に教師が説明してしまうほど、つまらないことはない。
 授業は、子どもたちが教材と向き合うことで、いろいろな発見していく場である。もちろん発見するためには、そのための手がかりや方法・手段を子どもたちに教えていく必要がある。手がかりを持っているからこそ、子どもたちは教材と向き合って、いろいろな発見をしていけるのである。 

2場面を二つに分ける

 「一つの花」の中で、2場面が分量的に一番多い。そして2場面は、二つに分けることができる。どこで分けるかを、子どもたちに考えさせたい。既に述べたように、以下の二つである。 

2場面 前半 
「なんてかわいそうな子でしょうね。~ゆみ子をめちゃくちゃに高い高いするのでした。

 2場面 後半
それから間もなく、~ゆみ子のにぎっている、一つの花を見つめながら――。

 場面分けは、しばしば子どもたちにとって曖昧な作業になっている。先生に言われた数に分けてみるのだが、いろいろと意見が出てきて、最後は先生の考えに決められてしまう。先生の考えに決めるなら、最初から言ってくれた方がすっきりする。自分たちがいろいろ考えて意見を言っても、最後は先生の意見になる。それなら考えたり、意見を言ったりするのは意味ない。
 このような考えを子どもたちが持つのは、曖昧なところを分けさせようとするからである。Aかもしれないし、Bで分けることもできる。そういう箇所を子どもたちに分けさせるから、決め手に欠ける。結果、教師の意見を押しつける(教師にその意識はなくても)ことになる。
 場面分けをさせるときには、誰が分けてもここで分ける、という明確な根拠を持って分けられる箇所を取り上げることが大切である。そうすることで、場面分けがあてどのない作業ではなくなる。なおかつ、なぜ分けるかという明確な根拠を理解することで、子どもたちの中に、時・場・人物の変化を意識する見方が身についていく。
 「一つの花」の2場面を二つに分ける、とすれば先に示した箇所しかない。お父さんが出征するというある日ある時のことが描かれるのが2場面後半である。ただ二つに分けるのではなく、分ける理由をしっかりとおさえるのである。そうすることで、2場面後半からこの作品の事件が始まっていることが見えてくる。「一つの花」は、お父さんが戦争に行くことで、家族が引き裂かれる事件が描かれていることが分かるのである。 

「一つの花」のクライマックスは?

 2場面を二つに分けることで、「一つの花」の事件のはじまり(発端)が見えてきた。お父さんが戦争に行き、お母さんとゆみ子がそれを見送る。そのような事件の展開の中で、何が変わったのだろう。
 物語は、本質的に変化を描く。何かが起こり、展開し、その結果何かが変わる。そこにどの様な変化があったのか。物語の中で一番大きく変化しているところがクライマックスである。
 クライマックスは、常に心情の変化とは限らない。「一つの花」は三人称客観視点で描かれている。したがって、人物の内面に踏み込んだ描写はほとんどない。人物の心情の変化が読みとれるようには語られていない。では「一つの花」では、何が変化しているのだろうか。
 「一つの花」のクライマックスは、お父さんがゆみ子にコスモスの花を手渡すところである。 

「ゆみ。さあ、一つだけあげよう。一つだけのお花、大事にするんだよう……。」 

 では、ここで何が変化するのだろうか。直感的にここがクライマックスであることを見つけることは、それほど難しくはない。しかし、何が変わったか。変化の中身を言葉で説明するとなると難しい。それゆえに、父親の心情へと踏み込んでいってしまうのかもしれない。 

クライマックス、三つの変化を読む

 物語は、変化を描くものである。したがって、そこにどの様な変化が描かれているのか、どうしてそのように変わったのか、それはどのような意味を持つのか……と変化を読み解くことが大事になる。クライマックスを読むことは、変化を読むことといってよい。
 変化とは、AであったものがBになるということである。だから、Bだけを見ていても変化はわからない。つまりクライマックスの箇所だけ見ていても、何が変化したかはわからない。クライマックス以前にどのように語られていたかが見えていないと、変化は読めないのである。場合によれば、やや特殊ではあるがクライマックス後にどうなったかということも、クライマックスを読むための参考になる。クライマックスを読むためには、作品全体を見渡す視点が求められる。全体を見渡すからこそ、変化も見えてくるのである。
 クライマックスのこのような特性が分かれば、授業づくりのポイントも見えてくる。クライマックスの授業で変化を読みとるためには、それ以前の授業でクライマックスに向けた伏線づくりがなされる必要がある。しっかりと伏線を用意することで、子どもたちの気づきや発見が生まれるのである。
 クライマックスでは、三つの変化を読む。
 一つは、「一つだけ」の変化である。〈「一つの花」(今西祐行)の場面を考える〉でも述べたように、「一つだけ」の意味が否定的から肯定的へと変わる。「一つだけ」という言葉を否定的にとらえていたお父さんが、別れの最後の時に、その言葉を用いる。今までは、幾つかある中の「一つだけ」であったが、ここでは一つしかないものという意味で用いられる。その変化を読みとるのである。
 そのためには、2場面最初のお父さんの「一つだけ」を否定的にとらえた言葉との比較がポイントになる。2場面の読解の際に、お父さんが「一つだけ」という言葉をどのように捉えているかを、しっかりと押さえておく。クライマックスへ向けての伏線を授業の中で仕掛けておくのである。
 それでも子どもたちから出てこない場合は、ここまでに「一つだけ」は何回出てきたかを確認する。そして、それらがすべて同じ意味かを問うのである。
 念のために付け加えておく。お父さんが、意識して「一つだけ」の意味を変えたかどうかはわからない。無意識でのことかもしれないし、ある程度意識してのことだったのかもしれない。そこは語られていない。したがって、お父さんが意識していたかどうかを問うことに意味はない。大事なことは、クライマックスで「一つだけ」の意味が変化したことなのである。
 二つ目は、ゆみ子をどう呼んでいるかという呼称の変化である。この少し前のところでお母さんは、ぐずりだしたゆみ子を次のように言ってあやす。 

「ええ、もう食べちゃったんですの……。ゆみちゃん、 いいわねえ。お父ちゃん、兵隊ちゃんになるんだって。 ばんざあいって……。」 

 お母さんは、「ゆみちゃん」と呼ぶ。お父さんは「ゆみ」と呼びかける。 
 お母さんはゆみ子をあやすのだから「ゆみちゃん」である。そこにはゆみ子の機嫌をとろうというお母さんの気持ちが読みとれる。それに対し、お父さんは、泣き出したゆみ子をあやそうとして花を渡すのではない。お父さんはこれがゆみ子との最後の別れになるかもしれないと思っている。自分が生きて戻って来られないかもしれないという思いが、お父さんにはあったはずである。そんな思いを持って、お父さんはゆみ子に語りかける。それは自ずと真剣なものにならざるをえない。それが「ゆみ」である。お母さんとお父さんの呼称の使い分けを読むのである。
 三つ目に、渡すものの違いである。これまでの「一つだけ」は食べ物をねだったゆみ子に、食べ物が与えられた。ゆみ子に渡すのは食べ物である。それに対しクライマックスで渡されるのは花である。ここでのコスモスの花は、象徴である。象徴とは、言葉で説明することがむつかしい考えや観念などを、具体的なものによって表現する技法である。わかりやすいのは、ハトを平和の象徴とする例である。
 お父さんが娘との最後の別れに手渡す花は、娘に対する愛情の象徴でもある。さらに、戦時において「わすれられたようにさいていた」花は、戦争の対極にある平和の象徴ともいえる。それゆえに最後の場面で、ゆみ子の家は「コスモスの花でいっぱいに包まれ」ていることは、ゆみ子が愛情いっぱいに育っていることを表すとともに、平和な世界をも表すことになる。
 象徴は抽象的な思考が求められるゆえに、むずかしい技法である。象徴を読みとるためには、物語の中(主として後半部において)で、具体的なものが象徴の意味合いを持たされていく過程を見ていくことが大切になる。
 以下に、私が書いたものから関連箇所を引用する。 

 ここでお父さんからゆみ子に渡された一つの花は、お父さんの思い(願い)の象徴といえる。出征していく父親から幼い我が子に向けた願いである。親から子への思いといえば、元気に育って欲しい、幸せになってほしいといった子どもの健やかな成長や幸せを願うものである。さらには、母も含めた残された家族の無事や幸せを願うものとしても考えられる。もちろん、それがゆみ子に理解されるわけではない。それを理解するのは、お母さんであり、何よりもこの作品の読者である私たちである。
 そのお父さんの願いをより明確に示すために、ゆみ子の将来を思いやってため息をつき、「めちゃくちゃに たかいたかい」するお父さんが描かれるのである。戦争が激しさを加えていけばいくほど、お父さんが召集される可能性も高くなる。お父さんのため息の裏側には、ゆみ子が大きくなるまで自分は生きていられないかもしれないという不安があるはずである。成長したゆみ子を見ることができない、それまで生きていられないかもしれない、そんな思いでいたたまれなくなり、ゆみ子を高い高いするのである。
 「コスモスの庭」では、作者の「どうしてもコスモスの花がなくてはならないわけ」に対する答えとして、戦後のコスモスが咲き誇る家を描くことに重点があったと述べた。教育技術版・そら版への過程は、戦争中の父親の姿を深く描き込むことで、戦後の姿が描かれる必然性を作り出していった。そして「一つだけのお花」という表現に代表される、一つの花に父親の願いを象徴するように描くことで、作品としての完成度は高くなった。
 「ゆみこの にぎっている ひとつの はなを みつめながら……。」という一文は、リアルではないが、「一つの花」には、父親の幼い我が子への願いが込められているがゆえに、象徴的であり、感動的であるのだ。
 このように考えてきた時に、行アキの変更の意味もより鮮明になってくる。第二段の行アキとは、父親のゆみ子の将来への不安や心配が一つの花をゆみ子に手渡すことへとつながっている一つながりのものであることを示している。発端(事件の始まり)は、お父さんの出征からだが、お父さんがため息をつきゆみ子を高い高いするところに、一つの花を手渡す伏線が存在している。「コスモスの庭」では「一つだけのお花」という言葉がまだ生まれていなかった。お父さんのため息ではなく、「高い高い」もまだなかった。教育技術版において、「一つだけのお花」が生まれ、お父さんのため息、「高い高い」が描かれ、題名も「一つの花」となった。作品としての大きな転換がこの間にあったことが見て取れる。そしてそら版にいたり、行アキの位置が変更され、お父さんのゆみ子への思いがより焦点化されていくとともに、「ゆみこの にぎっている ひとつの はなを みつめながら……。」という表現が加わり、一つの花に託された父親の願いがより象徴的に描かれるようになったのである。「コスモスの庭」から「一つの花」への変化において、父親の幼い我が子の未来に寄せる願いが、より鮮明に、そしてより象徴的に描かれていったことが明らかになってくる。

加藤郁夫「『一つの花』(今西祐行) 成立過程の考察―『コスモスの庭』から『一つの花』へ」

   「読み」の授業研究会研究紀要16号(2015年)

 

 ただし、ここで花を愛や平和の象徴と読み解くことは小学4年生にはかなり難しい課題でもある。無理して、クライマックスですべて読もうと考えなくてよい。一旦保留して、3場面を読む中で考えていってもよい。 

3場面、10年後を読む

 花をお父さんの愛情の象徴、平和の象徴といった読みができると、3場面の意味がより明確に見えてくる。3場面では、コスモスがいっぱいあることの意味を考えていくのである。 

今、ゆみ子のとんとんぶきの小さな家は、コスモスの花でいっぱいに包まれています。

 買い物かごをさげたゆみ子が、スキップをしながら、コスモスのトンネルをくぐって出てきました。 

 「コスモスの花でいっぱいに包まれています」「コスモスのトンネルをくぐって」と、ゆみ子の家にはコスモスがいっぱいに咲いている。なぜ、コスモスがいっぱい咲いているのだろうか。
 コスモスはお父さんが別れるときにゆみ子に渡した花であった。その花が今、ゆみ子の家にいっぱいあるということから、父親が出征してからの10年の間コスモスを育ててきたことが読みとれる。最初はお母さんが、そしていつからかゆみ子も一緒になって、庭にコスモスを育ててきたのではないだろうか。コスモスの花は、お母さんやゆみ子にとって、お父さんやお父さんの愛情を、さらにはゆみ子たち家族をも表わすものとなる。だからお母さんは、コスモスをたくさん育てたのではないかと読めてくる。
 戦争の時代、コスモスの花は「プラットホームのはしっぽの、ごみすて場のような所に、わすれられたようにさいてい」るものであった。「ばんざいの声」や「勇ましい軍歌」に送られて戦争に行く人と対照的に、ゆみ子の一家は「ほかに見送りのない」「戦争になんか行く人ではないかのよう」と描かれていた。そこからもコスモスの花は、ゆみ子の一家と重なっていく。
 さらに、「わすれられたようにさいていた」とは、花が戦争の時代には役に立たない、無用のものと見られていたことを表わしていく。しかし、今はその花がいっぱいに咲いているのである。家は「コスモスの花でいっぱいに包まれ」、ゆみこはその花の「トンネルをくぐって出て」くるのである。戦争とは対極的な時代がそこには描かれている。そこから、コスモスの花が父親の愛情や家族の幸せ、さらには平和を象徴するものになっていることが読めてくる。   

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?