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『枕草子-春はあけぼの』はどのように教えられているのか?――中学教科書の検討から見えてくるもの

1 日本学術会議『高校国語教育の改善に向けて』(言語・文学委員会古典文化と言語分科会)の提言を受けて

 2020年6月に日本学術会議(言語・文学委員会古典文化と言語分科会)から『高校国語教育の改善に向けて』という提言(以下、〈提言〉と呼ぶ)が出された。主として、2018年に出された高等学校学習指導要領の科目構成に関わるものであるが、「合わせて不人気科目であることが解消されないことが予想される古典教育の改善」(注1)についても言及している。
 「古典に対する学習意欲が低い」(中教審答申2016)ことは、近年に  始まったことではない。〈提言〉は「古典教育の改善」について次のように述べている。

古典嫌い・無関心を大量に作り出している主な要因は何か。それは教師側にも生徒側にも根強く存在する、品詞分解と現代語訳に終始する固定的で受動的な授業形態にある。このような押しつけ的授業から抜け出す工夫をし、柔軟な発想を導入した改革が必須である。 

 古典の授業に魅力がないのは、高校だけに限らない。小学校や中学校の問題があまりクローズアップされないのは、扱う古典の量が少なく、現代語訳が付されているものが多く、古典文法をあまり扱わないで済ませられるからである。小学校・中学校では魅力的であったものが、高校で一気にその人気を下げるわけではない。〈提言〉は、「小学校から繰り返し習う古典作品」に着目し、「長期的展望に立った教育」の必要性を述べる。本稿では、そのような教材の一つ『枕草子』の第一段「春はあけぼの」の中学教科書の有り様を検討し、魅力的な古典の授業をどのように作っていくのか考えていく。令和3年版の光村図書、東京書籍、教育出版、三省堂の四社の教科書を取り上げる。

2 現代語訳を検討する

 中学の教科書では、全訳か部分訳かの違いはあるが、ある程度現代語訳が示されている。その現代語訳のあり方から見ていく。光村図書、教育出版、三省堂の三社が二段に分けて、上に原文、下に現代語訳(全訳)というレイアウトで掲載している。それに対して、東京書籍は、原文の左側に部分訳という形で示している。原文の左側に部分訳を示すことで、どの部分の現代語訳かがわかりやすい。
 共通しているのは、「春はあけぼの」のところを「春は明け方」(教育出版は「春はあけぼの」)とし、「春は明け方(がよい)」といった訳にしていないことである。ところが、春の終わりの「たなびきたる」のところの現代語訳は次のようになっている。 

光村図書 たなびいている(のは風情がある)。

東京書籍 たなびいている(のがよい)

教育出版 たなびいている(のがいい)。

三省堂  たなびいている(のは趣がある)。

 「たなびいている」の後に( )に入った訳が付け加わっている。後述する、夏の「蛍の多く飛びちがひたる」のところも( )の訳がある。なぜこれらのところで( )に入った現代語訳が補われるのだろうか?
 『枕草子』第一段「春はあけぼの」はその後に「いとをかし」が省略されているといった俗説が未だに幅を利かせている(注2)。その影響がここにも表れている。「春はあけぼの」のところでは「よい」を補わなかったのに後では補うのでは、一貫性に欠ける。省略は、前に述べられているからこそ可能となるのであり、どこにも述べられていないことを、どうして補うことができるのだろうか。
 原文は「たなびきたる」と連体形で終わっており、清少納言の評価はどこにも書かれていない。したがって、読者はたなびいている様子を想像し、自分なりの感慨を補うことになる。余情の効果である。それを勝手に補ってしまうのでは、余情を感じさせることにも、読者に考えさせることにならない。
 夏の「月のころはさらなり、闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。」のところを見てみよう。

光村図書 月の頃は言うまでもないが、闇もやはり、蛍が多く飛びかってい  る(のがよい)。

東京書籍 月の(明るい)頃は言うまでもない(ことで)、闇(夜の頃)もやはり[「蛍の多く」の訳は示していない]飛び交っている(のがよい)

教育出版 月の眺めのよい頃はいうまでもない、月が出ていない闇の夜もやはり、蛍がたくさん飛び交っている(のがいい)。

三省堂  月の出ている頃はいうまでもない。闇夜でもやはり、蛍が多く飛びかっている(のは趣がある)。

 一様に「なほ」を「やはり」と現代語訳している。そして、「やはり」という副詞は( )で括られた部分に掛かっていく。「闇もやはり、蛍が多く飛びかっている」では文として完結しない。その後に(のがいい)を補うことで「やはり」が宙ぶらりんにならずに、文として完結することとなる。
 しかし、原文「闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。」はもともと一つの文といえるのだろうか。平安時代、日本語の書記に句読点は存在しない。教科書でみる「。」や「、」は、あくまでも編集者が読みやすくするために便宜的に付けたものでしかない。また、平安時代の和文は、現代の話し言葉に似て、フレーズを付け加えていく書かれ方をしており、構文の原理が今とは異なる。(注3)

夏は夜#月の頃はさらなり#闇もなほ#蛍の多く飛びちがひたる

 #が句と句の間におかれるポーズである。夏の夜を提示する。夏の夜の「月の頃」、月夜がよいことは誰しも認める。次いで、「闇も」と月夜に対して闇夜を出す。「も」は、類似した事態を列挙する時に用いられる。当然「月の頃」に対して、「闇も」なのであるから、闇はよいものとして示されたことになる。「なほ」は前と変わらないことを示すことばであるから、「も」を意味的に補強する。
 月がよいことは誰しも認める。そして闇もよい、というのである。そういわれると、読者は「えっ?」と思う。月がよいのは分かるが、なぜ闇もよいというのか。その理由を「蛍の多く飛びちがひたる」が説明する。闇夜だからこそ、蛍の乱舞が一層美しく見えるというのである。ここに来て読者は、夏の夜の闇に対して新しい価値を見出すのである。
 ここは、このような意味のつながりで展開している。それを「闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。」を一つの文として現代語訳しようとするから無理が起きるのである。
 もう一つ、冬の最後で「白き灰がちに」の現代語訳を見てみよう。

光村 白い灰ばかりに

東書 白い灰ばかりに

教出 白い灰が多くなって

三省 灰ばかりに

 三省堂は「白き」を訳していない。灰が白いのは当たり前だからということかもしれない。しかし、「白き灰がちに」とわざわざ書いているのである。だとすれば、書かれてあることを尊重するべきではないか。灰の白は炭火の赤さとの色彩の対比を表しており、それを訳さないのは対比を見ていないことでもある。
 もう一つ「がち」の訳である。三社は「ばかり」と訳している。「がち」=「ばかり」といえるのだろうか。「がち」は接尾語であり、次のように説明される。

 (名詞、動詞の連用形に付いて)ある性格や傾向が目だつようになる、とかくそうなりやすいの意を添える。 『例解古語辞典 第三版 ポケット版』三省堂・一九九三年

 「ばかり」は、全部がそうなっている状態を表す。つまり、教育出版の現代語訳の方が「がち」の理解としては正確といえる。
 どちらでも大した違いではない、という声が聞こえてきそうである。しかし、国語は言葉を教える教科である。教科書や教師が言葉にこだわらなくて、子どもたちに言葉にこだわることを教えることはできない。「がち」は、「休みがち」「時計が遅れがち」と現代でも使う。そこから類推すれば、「白き灰がちに」の意味は生徒にも十分理解できる。千年前の文章でも今と変わっていない言葉があることを知ることで、日本語としてのつながりを意識させていくことができるのである。

3 学習の手引きおよび説明の検討

1) 光村図書の検討

  自分流「枕草子」を書こう
春には、桜を待ち、秋には紅葉をめでるといった時代に、清少納言は独自の感性で四季それぞれの好きな時間帯や素材を挙げ、その趣を書きつづった。「枕草子」をまねて、季節感を表す文章を書いてみよう。

 「春はあけぼの」の新しさや魅力は、「春には、桜を待ち、秋には紅葉をめでるといった時代」において、清少納言が春の桜や秋の紅葉ではなく、それまでとは異なる新しい四季の見方を提示したところにある。その意味では評価できるのだが、この表現でそれが生徒に十分伝わるだろうか。また、「春には、桜を待ち、秋には紅葉をめでるといった時代に」とさらっと言ってしまうことで、現代はそうではないかのような印象を与えかねないことがある。古典の学習は、ともすれば現代との違いを意識させることが多くなりがちである。しかしもう一方で大事になるのは、現代との繋がりである。春の桜や秋の紅葉を楽しむことは、現代の私たちの中にも生きている、日本独自の文化である。そこに気づいた時に、第一段が桜や紅葉に全く触れず、それまでとは異なる新しい見方を示していることのおもしろさが実感できるのである。
 それでは、「春は……。夏は……」といった形で四百字程度の文章を書くことにどのような問題があるのか、以下に三つ述べる。
 一つは、「『枕草子』をまねて、季節感を表す文章を書」くことは、誰もができる課題ではないという問題である。前述したように、それまでとは異なる新しい四季の見方を示したところに第一段のおもしろさがある。しかし、それは誰もができることではない。いや清少納言のような独自の見方はできなくてよいのだ、形だけまねて書けばよいのだ、ということかもしれない。本当にまねることができないことを承知で、形だけまねさせることにどんな意味があるといえるのか。
 二つ目に、形だけをまねるが故に、文章を深く読むことを求めず、結果的に第一段の理解をおざなりにしかねないことである。上っ面だけを読んで、四季折々のすばらしいところを描いた文章といった薄っぺらい理解で終わる可能性が高くなる。第一段は、春・夏・秋・冬それぞれに述べ方を変えているが、そのような書かれ方の工夫にも目を向けないおそれがある。春には、評価を示す言葉はない。夏には「をかし」が用いられる。秋には「あはれ」と「をかし」、冬は「つきづきし」「わろし」である。このような書かれ方の違いに目を向けていけばいくほど、まねて書くことは難しいものとなる。漠然と、清少納言が自分なりの四季のよさを描いた文章としておくことで、生徒は「まねて」書くことがしやすくなる。つまり、書くことが文章の深い理解へと向かわず、逆に浅く読むことに傾いていく。 
 三つ目に、以上の結果として、第一段の素晴らしさや魅力がどこにあるか(なぜこれが古典として今に残っているのか)を生徒が発見することもなく、古典との魅力的な出会いともならないことである。清少納言の文章の素晴らしさやうまさ・工夫がわかってくるから、「春はあけぼの」っておもしろい、清少納言はすごいなあ、「枕草子」が名作といわれる理由がわかるような気がする、古典をまた読んでみたい……といった感想が出てくるのである。第一段を深く読むこともせずに、安易に書かせる指導からは、古典への興味・関心や魅力は育っていかない。

 2)東京書籍の検討
 
第一段の本文の前に、「筆者の個性やものの見方、考え方がよく表れている場合が多く」と随筆の説明がある。また、本文の後に清少納言の説明に加えて、次のように説明している。

春のあけぼのの雲の色や、秋の夕暮れ時にねぐらに急ぐ烏など、それまで和歌にはほとんど詠まれなかった素材に注目し、情趣を発見していることにも驚かされます。

 清少納言の「ものの見方や考え方」の新しさを説明している点は評価できる。
 しかし、学習の手引きでは次のように示す。

「枕草子」や「徒然草」に倣って、見聞きしたことや体験したことをもとに、短い随筆を書いてみよう。

 「倣って」書かせることが、光村図書のところで述べたことと同様な問題を持つことは言うまでもない。むしろ、第一段の表現にはどのような工夫や魅力があるか、どのような表現を面白いと思ったかを書いてみようとした方が、第一段の工夫や魅力を読むことに向かっていく。

 

3)教育出版の検討
 
第一段の前に、作者や時代について次のように説明されている。

この作品の読者となったのは宮廷の貴族たちであり、彼らの教養は和歌、とりわけ『古今和歌集』でした。……散り行く桜を惜しみ、ほととぎすの声を待ちつつ夏の夜を明かし、秋には月や紅葉を愛で、冬には雪の美しさを楽しむ……。こうした和歌の伝統に培われたものの見方とは異なる新しい感性で、身のまわりの小さなできごとを描きました。

 この点は東京書籍とも共通し、清少納言の見方の新しさをわかりやすく説明しているといえる。
 そして、学習の手引きでは次のように課題を述べている。

『古今和歌集』の四季の歌を題材別に数えると、春は「花」(特に桜)の歌が最も多く、夏は「ほととぎす」、秋は「紅葉」、冬は「雪」の歌が最多である。そのことを踏まえながら、「春はあけぼの」の独自性について話し合おう。

 前段の説明を受けて適切な課題といえる。ところがその後に次の課題を設定している。

 「春はあけぼの」の章段を参考にして自分の季節感を文章にまとめたり、「うつくしきもの」を参考にして「ものづくし」の文章を書いたりしよう。」

 せっかく清少納言の独自性を考えさせようとしてきた課題を、最後で「自分の季節感」に引き戻して書かせることで、光村図書・東京書籍と同じ流れになってしまう。むしろ、生徒それぞれが見つけた「独自性」について書いてみる方がはるかに建設的である。

 4)三省堂の検討
 
「枕草子」第一段、筆者が「をかし」と評価しているものを季節ごとに整理し、筆者がそれぞれの季節に対してどのように感じているか、考えよう。

 「をかし」が「春はあけぼの」の中で用いられているのは三回だけである。夏に二回、秋に一回である。それにも関わらず、「それぞれの季節」ということで、すべての季節を「をかし」で評価しているように読ませてしまう。結果として、『枕草子』は「をかしの文学」であるといったステレオタイプ読みを押し付けることにしかならない。さらには、「をかし」といっていない冬でも、季節のよさを述べているといった誤読を迫ることにもなりかねない。

 4 第一段の魅力を読み深める
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世紀初めに成立した『古今和歌集』は、平安時代だけでなく、その後の日本文化の土台を作ったといえる。春の桜や秋の紅葉を愛でる文化がここにおいて確立されたのである。古典を読むことは、私たちが普段たいして意識せずに受け入れている日本の文化のあり様を見直し、問い直させてくれる。四季といえば、春は桜、秋は紅葉という中で、第一段はそれらを全く示すことなく、読者が思ってもみなかった時間帯や物事の中におもしろさや魅力を発見してみせる。そこに第一段のすばらしさがある。言い換えれば、清少納言独自のものの見方や感じ方を述べているからこそ、『枕草子』は千年の時を超えて読み継がれているのである。それは古典が今を生きる私たちとつながっていることであり、古典を読む意味の一つはそこにある。
 第一段には文章表現のさまざまな工夫があり、それらを読みとることも、魅力的な作業といえる。それは、言葉を読むことであり、私たちの日本語の力を鍛えることにつながる。
 「春はあけぼの」「夏はよる」「秋はゆうぐれ」「冬はつとめて」季節の書き出しは、七音か五音で始まる。七音五音は歌のリズムであり、そのような書き出しで始まることで、全体が詩的な雰囲気をまとう。
 対比は随所に用いられている。秋の烏と雁。それを近景と遠景で描き、数羽とたくさんの数の対比としてもとらえている。秋の夕暮れは視覚的に、日が暮れてからは聴覚という対比。夏の月の頃と闇の対比。たくさんの蛍と一つ二つの蛍。冬の炭火のあかあかと起こっているさまと白い灰になっている様子。
 もう一つだけ述べておこう。「あけぼの」と「つとめて」の使い分けもうまい。この二つは、時間的には近似している。では二つは、どう違うのだろうか?「あけぼの」は明け方と訳されるが、太陽が昇る前の時間帯であり、太陽の位置に基準がある。それに対して「早朝」と訳される「つとめて」は、人の動きに基準がある。人が起き出し、動き出すのが早朝なのである。したがって、四季の中で唯一、人の動きが描かれるのが「冬」なのである。 
 こういった言葉の使い分けや、表現のうまさを読むことで、生徒は第一段におもしろさや魅力を見出していく。一つひとつの言葉や表現に着目しこだわることで、言葉を深く読む力や考える力も育っていく。もちろん、中学段階ですべてのことを扱う必要はない。しかし、このようなことを読みとっていくことで、生徒にとって古典はおもしろく魅力的なものとなり、冒頭で述べた〈提言〉にある「同じ教材を繰り返し学ぶ」ことが有意義なものとなっていくのである。
 古典の文章をサラッと読んで、読みとったこととは関係ないことを書かせることからは、古典の魅力は伝わっていかない。
 上に述べたことが中学段階で少しでもやられるならば、そして高校でさらに読み深めることができるならば、古典の魅力はどんどん生徒のものになっていく。残念ながら現行は、中学でサラッと読むだけ、高校でも中学で読んできたからということで軽く流す程度の扱いになっており、古典の魅力を理解するものとはなっていない。「小学校から繰り返し習う古典作品」に着目し、「長期的展望に立った教育」を実効力のあるものにするためには、まずは中学の教科書にもそして教師にも、教材の魅力を深く掘り下げていくだけの教材研究が求められる。そして、それらの教材研究が広く共有化されていくことである。深い読みこそが深い学びの土台となるのである。

 注1 二〇二〇年六月三〇日 日本学術会議(言語・文学委員会古典文化と言語分科会)提言『高校国語教育の改善に向けて』(http://www.scj.go.jp/)要旨より
注2・3 小松英雄『仮名文の構文原理【増補版】新装版』(笠間書院 2012年)

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