女子高生・女子大生という苦悩

女子高生・女子大生という苦悩

よく行くカフェの窓際で、街ゆく人々の様子を眺めていると、制服の「女子高生」が目を引く。彼女たちはお尻が隠れる程度のミニスカートから華奢な脚を伸ばし、そこにあたる夕方の光が白い脚をさらに“透明”にしていく。いわゆる、透明感、というやつ。髪もやはりさらさらでつやつやで、一本一本が綺麗にすっと伸びている。そのさらさらな髪に隠れて、あまり「顔」がよく見えない。けれど彼女たちは、まわりも気にせず、ただ純粋に「自分の世界」を楽しんでいるように見える。きっとこのなにげない姿が撮影され、SNSに投稿されたら、まあ600人くらいは「いいね」を押すのだろうなと思う。場合によっては万バズまでいくのかもしれない。
ネットということで「画面の中の幻想」とされがちな世界も、こういう田舎の駅前での日常世界に平然と存在する。女子高生は「制服」がそのアイテムとして特徴的だが、女子大生も若い女としてその「らしさ」があり、やはりそういうように見られるのだろうかと思う。
かくいう私も、つい半月ほど前まで「女子高生」だったし現在は「女子大生」である。
しかし、そういった「らしさ」に「制服」「体型」「流行のファッション」、そのどれも、自分に関してはどうも当てはまらないような気がしてならない。しかし、SNS含めネットの世界では、「女子高生」「女子大生」の「らしさ」に当てはめられて認識される。
だからなんとなく、社会から期待されるような振る舞いを、リアルでもネットでもしなければいけないのだろうかと思う。
これは私の人生経験の少なさからくる妄想かもしれないけれど、どうも、その「観念」「イメージ」がさまざまなコンテンツにより一人歩きし膨張し、私はほんとうに「女子高生」「女子大生」が存在するのか、はっきり言って分らないのである。
しかし「君はもう“女子大生”なんだから」とか「女子大生!」とか、「女子大生」というカテゴライズは私に常に、事実として容赦なく降りかかる。
乃木坂とか欅坂の女子高生・女子大生系アイドルはその象徴とされがちだが、あくまでも「idol」の枠から出ることは無い。みんなで同じ格好をし、その「らしさ」に合致する体型で、同じような髪型をする。それは「清楚」と言われ、「らしさ」は女子高生・女子大生を欲する渇望に接続されていく。その渇望はどうしようもないもので、たとえその「らしさ」からどんなに逃げても、延々消費対象とされることは変わらないだろう。

「性教育を茶化すな」とか言われて活動としては比較的評価されていたあの記事も、甲南女子大の生徒が、記事中で「お姉さん」とされていた。「お姉さんに教えてもらう」のだという。
しかし現実を生きるものとしては、やっぱり自分を「女子大生」とも「お姉さん」とも思えないのだ。

昨今、「整形」がここまで広まり、他ならぬ、この「らしさ」のあまりに単純で安易な固定化の結果ではないだろうか。「そうでないと社会に快適に参加できない」という強迫観念が、SNSで日常的に扇動され、「そうでない者」をどんどん排除していく。たちが悪いのは、それがネットというごく個人の世界にむけての扇動だということだ。

私はその「らしさ」に染まって、「どうせこんなもん」の社会の中で戦略的に生きていくことはありだと思う。実際そう割り切った方が気が楽だと思うから、今後そうしていくのかもしれない。「最近の若者」として批判されそうだがそういう信念はあまり持ち合わせていない。しかしまだ、最善な選択も発見できていない、アドバイスも必要としていない。
だからこれはフェミニズムでもないし、私はフェミニストでもない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?