日々雑事8

ここ何年か夏が暑くない日々はない。誰しも夏は暑いものだと思っている、その記憶の中の暑い毎日を日々更新する。そんな2024年の7月。

子どもの頃の記憶や行動パターンは上書きされない。上書きされないまま残り、それが自分の思考となる。思考は行動を生み、自らの記憶を子どもに無意識で伝えようとして、無邪気に傷つける。

自覚のない子育ては、誰の目に触れる事もなくただの人それぞれの記憶になり、ある人には思い出にもなるし、またはトラウマにもなる。

わたしの母は市立病院の看護師さん(当時は女性ばかり)の子供達を預かる保育所の保育士だったし、父は夜勤の多い郵便局に勤めていた。なぜわたしの母は週に何度も仕事で泊まり勤務だから夜はいないのだろうか?なぜわが家は土曜日とか日曜日とか世間のお休みの日に父と母がいないのだろうか?
などとは考えず、時間や休日が不定休である。
という生活がわたしの毎日であった。

生活が不定休である。に加えて、父も母も労働運動や婦人運動に生き甲斐を見いだす性質であった為に、わが家の休日はビラ配りのビラを数えたり役所への署名用紙の束。など普通の家庭にはないものがそこに存在していた。
そういうものがあったという事実も、今になって理解できるもので、子供の頃のわたしにとってはいつもと変わらないわが家の風景であり良いも悪いもなく、ビールがありつまみがある。そんな風景だ。

トーヴェ・ディトレウセンという生き方は今日の日本に住む50代の男性にとって、本当にヘビー過ぎてため息しかでない。デンマークの人々から「トーヴェは私だ」と共感を持たれる小説であるというが、生活の救われなさや何気ない女性差別、社会を構成する見えない者からの無意識の分断。息苦しさを素晴らしい文章にする精密さ。全てが心に刺さる。

わたしの母は酔っぱらうといつも女性の生きづらさ、社会の中の役割りの不公平差、そして(わたしにとっての父である)男性の我が儘を口にした。幼いわたしには、それがよく分からないまま聞いていた。世の中にとって見えるものが正解か不正解かも判断できないまま成長したような気がする。

2024年に50歳になってトーヴェ・ディトレウセンの「結婚/毒」コペンハーゲン三部作を読み、
どれだけ時代が変わろうとこの生きづらさは何年たっても何も変わってないんじゃないか?と気づくと、昔の母を思い出した。
#トーヴェ・ディトレウセン
#結婚 /毒

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