第412回「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション」にみる絶対論
原作を未読で、映画のみの視聴ですが、好き嫌いの好みは別にして、自分は映画で作品が伝えたかった事は、何となくわかる気がしました。
この映画は、最後に世界が滅ぶバッドエンドの作品なのですが、この映画を肯定的に見ている人もそうでない人も「例え世界を滅ぼす事になろうとも、主人公は親友の命を救う事を選ぶ」という解釈をされているのではないかと思うのですが、自分はその解釈には少し違和感を抱いています。
確かに世界が滅びる世界線に入る大きなきっかけとなったのは、主人公が、タイムリープ?装置を作動させたからなのですが、この時、主人公は別に、タイムリープ?をする事で、世界が滅びる事になるとは思ってないですし、親友の命を救いたいとは思っていても、世界と天秤にかける事までは恐らくしていないと思うのです。
自分達は映画を観る時に、物語の展開には明確な理由があり、〇〇が〇〇をしたからそうなるのだと考えてしまいます。
善い行いをすればよい展開になり、悪い行いをすれば悪い展開になるのだと考えるので、悪い展開には、何かそれ相応の、悪い行いがあったのだろうと考えてしまいます。
そして主人公を含む登場人物達の何がいけなかったのかと言う、原因探しをしてしまいます。
しかし自分が思うに、この映画で世界が滅びるのに、直接的な原因といえる人間達の明確な要因はないのです。
何年も上空にとどまっている宇宙船に対して、様々な人達が、各々の思いで宇宙人との関りを持とうとしますが、どの考えが正しくて、どの考えが間違えているというような明確な答えはなく、人間が宇宙人に対して、間違えたコンタクトを取ったから世界が滅びたというような話でもないのです。
誰もが皆、自分の考えこそが正しくて、世界をあるべき方向に導けるのだと考えて行動をするのですが、世界は、そんな人間の思惑等には関係がなく、変えようのない大局的な流れの元に、起こるべく運命へと導かれます。
正しい行いをすれば世界が救われる訳でも、間違えた行動をしたから世界が滅びる訳でもないのです。
そう言ってしまうと「何をしてもしなくても世界はなる様にしかならない」という運命論に聞こえてしまいますが、この映画は、そこまで冷めている訳ではなく、例え大局的な歴史の流れは変えられなくても、その中で、人々が少しでも自分の望む方に向けて抗う事で、ほんの僅かでも世界を変える事が出来るかも知れないという事を描いているのだと思います。
何を変えられるのかは、人によっても違うと思いますが、主人公にとってのそれは、親友の命という事だったのかも知れません。
世界を天秤にかけるとは言わないまでも、世界の運命に抗ってもこれだけは変えたい、守りたいと思えるものがあるならば、それがその人にとっての「絶対」なのだろうと思いました。
絶対とは、社会的な普遍物ではなく、各々の心にある相対的な物なのです。
※原作は、人類救済展開も描かれているらしいですが、恐らく映画の方は、そこはテーマの本筋ではないので、カットをしたのかも知れません。
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