見出し画像

第414回、フュリオサについて、自分の理解不足な事を告白してみた


前回「マッドマックス フュリオサ」について、怒りのデスロードの前日譚として微妙との評価をした自分ですが、そこに書いた自分の気持ちは、基本的には変わらないのですが、自分が作品の誤解をしていたり、理解不足をしている可能性がある事を感じたので、今回書き直してみました。

まずフュリオサイモータン・ジョーとの因縁ですが、そもそも前作でも、二人の間には、特別な因縁関係はなかったのだと思います。

イモータンの存在とは関係なしに、フュリオサは最初から、故郷に帰る事が人生の目的であり、これまでそうしなかったのは、母親の敵のディメンタスへの復讐があったからで、今作で無事、15年越しの復讐劇を果たした事で、本来の目的である、故郷へ帰るという行動を実行に移したのだと考えると、今作が、怒りのデスロードに繋がる前日譚として、十分につじつまが合っているのだと思います。

二人の間に何か特別な因縁があるから、怒りのデスロードで二人に対立関係が生じていたと思うのは、見る側の勝手な解釈から来る誤解なのです。

自分の非を認めつつ、しかしあえて自分の解釈の言い訳をするならば、怒りのデスロードで、フュリオサがイモータンに対して「私を覚えている?」と意味深なセリフを言っているからそう考えてしまうのであり、自分以外にもこのセリフに惑わされた人は、結構いるのではないでしょうか?

この辺りは恐らく、続編映画によくある設定継続のズレであり、アラ探しの領域になってしまうので、これ以上は追及しないでおきます。

もう一つ気になっているのは、フュリオサが故郷に帰るのに、イモータンの5人の妻を連れていく展開なのですが、映画を観る限りでは、この5人の妻はポリコレコンポラに反している以外は、退廃したあの世界にしては、特別に非人道的な酷い仕打ちを受けていた様には感じられない為に、フュリオサの行動に、どこか過剰なまでのフェミニムズとコンポラ推進派の思惑が働いている様に思えてしまったのですが、これも見る側の勝手な解釈であり、別に5人の妻達に、はたから見てはっきりとそう思える様な虐待描写がなければあの場所から逃亡をするのはおかしいという事もないのです。

コンポラに反している事を除いては、イモータンは、それ程酷い人間だとは思えないので、これも現代のコンポラ基準で善悪論を描いている様に思えてしまったのですが、しかしそもそもフュリオサが故郷に帰るのも、その際にイモータンの妻達を連れて行くのも、イモータンを倒して砦の支配権を奪うのも、その要因にイモータンが悪でなければならない理由はないのです。

フュリオサが善でイモータンが悪だから、フュリオサがイモータンを倒すのではなく、人は自分の思う生き方や価値観に従い生きる為に、必要であればその弊害となる相手を倒すのです。

「物事の是非を、善悪の基準で決めつけるな」と普段から言っている自分がこの作品に対して一番、善悪の基準で物事を見てしまっていたのです。

大切な事だと思うので同じ事を言うのですが、人は自分が正しくて、相手が悪だから戦うのではなく、自分の価値観に従って生きる為に、善悪の概念に関係なく、必要であれば戦うのです。

フュリオサは、自分の人生を生きる為に戦っているのであり、社会的な正義を振りかざす為に、悪と戦っている訳ではないのです。

※ディメンタスもイモータン・ジョーもフュリオサも、自分の価値観や人生観に従って生きているのであり、誰が正義でも悪という訳でもないのです。

追伸
多分実際には、フュリオサが正義で、ディメンタスとイモータン・ジョーは悪として描かれているのだと思いますが、自分の個人的な感情として、命の取り合いをするのに、主人公だけが、正義の免罪符を持つ事にあまり好意的ではない為に、その様な解釈をしているのかも知れません。
力で勝負を決める以上、正しい者が勝つのではなく、勝ち残った者が自分の信念を実現させる修羅の道なのだと思います。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?