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第290回、劇場版ガンダムシードを元に様々な作品や価値観の考察をしてみた


劇場版「機動戦士ガンダムSEED FREEDOM」が大ヒットの好評という事で、特別にガンダム好きな訳でも、今までガンダムシードを見た事もないのに、これは観ておいた方がいいように思い、映画館に行って来ました。

それまでの流れを一切知らなくても大筋がわかる、極めてシンプルな内容で成程、これは日本人の好きな王道の展開なのだと思いました。

ざっくり言えば、いつまでも戦争を止められない愚かな人類を統治する為に遺伝子操作された優秀な人類が、人類の統治者として名乗りを上げる物の、従わない国に神の雷ならぬ、都市にビーム攻撃を容赦なく浴びせる残忍さに「暴力で強制的に人々を従わせようとするお前たちは、間違っている」と、主人公達が反旗をひるがえす話で、早い話が専制君主制の帝国主義への批判になっているのです。

この手の話は「エヴァンゲリオン」の人類補完計画でも描かれている様に、日本人にとっては絶対受け入れる事の出来ないトラウマ的な話であり、その根底には、先の世界大戦における、日本の帝国主義に対する強烈な拒否感があるのだと思います。

作中で悪の存在に位置づけられる相手を倒した所で、人間の本質が変わる訳ではないので、その後も人類は戦争を行い続ける事にはなるのですが、例えそうであっても、人間は何者かに強制的に支配されるべきではない、人間は本質的に自由であるべきだという思いが、そこにはあるのだと思います。

自分もこの考えに異論がないので、この映画の内容を素直に受けとめる事が出来たのですが、よく考えてみたら自分が批判をしているディズニー作品の「ウィッシュ」も、本質的にはこれと同じ事を唱えているのです。

そう考えるとウィッシュは、主人公のアーシャが帝国主義を滅ぼす英雄的な作品として、普通に日本人好みの作品になっていたのかもしれません。

それなのになぜ自分はこの映画は受け入れて、ウィッシュを批判するのか?

それは今作の敵が擁護のしようがない程、倒すべき敵として徹底的に残忍に描かれている事と、一国ではなく、全人類を統治しようとする支配者として描かれているからなのだと思います。

ウィッシュは、王制や君主制が普通に行われていた中世の時代が舞台なのでその時代に一国を統治する王制の批判をするのはやや的外れですし、舞台のロサス国は、王に支配的な側面があるのだとしても、当時の水準で考えれば国民にとって、かなり理想的な国に描きすぎているのです。

正直今作のガンダムシードも、敵が反抗する国にレーザー攻撃をする事なく優れた政治手腕で国々を統治していたなら、例え裏で腹黒い事を考えているマグニフィコ王のような相手だったとしても、果たして彼らは倒すべき悪の存在といえるのか?という事になりかねないのではないかと思います。

スターウォーズ」がいい例ですが、倒すべき敵は、それを見ている人達が倒されても当然なのだときちんと思える様に、しっかりと外道の鬼畜な存在として描かないと駄目なのかもしれません。


さてこの映画に限らず、人間を洗脳したり遺伝子操作をして、半ば強制的に人類の理想社会を築く理想郷は、偽りの楽園(ユートピア)として、多くのSF作品で、倒すべき対象として描かれているのですが、自分の中でこの理に反して描かれた、忘れる事の出来ない、ある一つの作品があります。

それは「攻殻機動隊」の原作者で知られる、日本のサイバーパンクSF作品の第一人者である士郎 正宗氏が描いた「アップルシード」という作品です。

この作品は、度重なる世界大戦により、人類がほぼ絶滅しかけている世界で人間を遺伝子的に操作して闘争本能を取り除いた人工人間、バイオロイドによって運営されている、オリュンポスという都市が舞台の作品なのですが、この作品でも当然、この都市は偽りの理想郷だと、人間に批難をされる事になります。

しかし人類が自分のエゴでほぼ絶滅状態になっている世界で、暴力で人間を支配する訳でもなく、理想の社会を構築する為に人間を遺伝子操作しようとする彼らの考えは、この状況下では仕方のない事の様にも思えてきますし、バイオロイドが管理するのは、あくまでもオリュンポスという一都市のみの事なので、例えそれが偽りの理想郷なのだとしても、それくらいは許容範囲として見てもいいのではないかと思えてしまうのです。

この作品の主人公、デュナン・ナッツという人間の女性も、この都市が偽りの理想郷である事に悩みますが、色々と思う所があって、その都市の存在を受け入れて、社会の一員として生活をする事になります。

オリュンポスが人間にとって、正しい社会かどうかは別にして、その価値観や社会感が自分から見て、いくら間違えている様に感じたとしても、一国や一都市内で行われている限りでは、それでその社会を滅ぼしていい理由にはならないのです。


またウィッシュの話に戻ってしまいますが、アーシャもロサスが、自分から見ていくらおかしな国に思えたとしても、自分はやはりそれでその国の制度を崩壊させていい理由にはならなかったのではないかと思っています。

マグニフィコ王が自国の領土を超えて、全人類を自分の価値観で統治しようと考えない限りは、自国内でどの様な理念で社会を築いていようと、それを受け入れて生活する人がいる限り、それは許容するべき範囲の事なのです。


ちなみにアップルシードでは、オリュンポスを運営する長老員達が、一都市の運営という領域を超えて、地球上の全人類を子孫を作れない体に改造してバイオロイドを新人類にするという計画を企てた為に、主人公のデュナンに阻止される事になるのですが、例えそれがどれ程優れた思想であったとしても、一つの価値観で全人類を統治しようとした時に、それが誰かにとって、倒すべき対象としての悪になるのだと思います。


つまる所、全人類にとって絶対的に正しい価値観や考え等はないのであり、あらゆる思想や価値観、各々の正義がぶつかり合っている、混沌とした状態こそが、正常な状態といえるのかもしれません。

自分はその考え合わないけど、色々な価値観があっていいよねというのが、人間の思想における最も適切な落し所ではないのかと、自分は思うのです。

この映画は、愛は全人類を総括する物ではなく、各々の人にそれぞれ大切な愛があるからこそ、人は自分の大切な者の為に生きるのだし、それによって人々が争うのは、仕方のない事というメッセージだった気がするのですが、その解釈で合っていたでしょうか?
(もしかしたら、違っていたかもしれません‥)

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