最近のVはVじゃないなんて言うけど

 最近のVが~という文脈でやれホロやらにじやらを叩くというのはよくみる光景だろう。 2018年にはもうあった気がするようなある意味古典的な光景だが、これについて少し思うことがある。
 まず、私は2017年、怪獣先輩以前からVを見てきた。
 当時好きだったVはふにーだった。
 その後2018年には自分もVになった。
 大抵のV叩きをしている人間は浅いか逆張りだが、この年代くらいから見てる人間のV叩きはわりとガチであると感じる。 
 というのもこの年代の人間にとって忘れられないもの。
 それがのじゃおじ、及びのらきゃっとである。
 彼女達(便宜上そう呼ぶ)は今までの純粋なキャラクター、文字通りのバーチャルなYouTuberとは違い、自分がキャラクターになろうとした。
 それもただの自分ではない。
 なりたい自分をそのままキャラクターにしているのだ。
 人間に、男に生まれたらのじゃろり狐娘にもケモ耳美少女にもなれない。
 だからこそ彼女たちは理想的に見えた。
 そしてそういった別の自分になりたいと言う変身願望を原動力にblenderをいじくり回した人が多くいた。
 そこには夢や理想、苦しみが集まっていた。
 というかたぶん皆現実がうまく行ってなかった。
 なりたい性別、なりたい人種、なりたい自分。
 つまるところ我々にとってVtuberとは自分とか平行線、もしくはどこかで交わることがあったとしてもそれは自分からよっていく物であった。
 だからそこ最近のVに反発してしまうのだろう。
 最近のV、とはいっても2019年ごろに追うことを辞めてしまった、にじさんじSEEDsが未だに最近のVだと思ってるし、さんばかってトリガーじゃないのって思ってるが最近のVと呼ばせてもらう。  
 まず、最近のVはめちゃくちゃ面白い。
 金が稼げると言うことは精鋭が集まる。
 面白い話し方、面白い人間性、面白いエピソード、うまい歌、強い人間関係。
 1つでも持っていれば羨まれるような物を何個ももっている。
 それでいて配信歴も長い。
 つまらなくなりようがないのだ。
 だからそこ、我々は反発してしまう。
 彼らは自分を出して、名前を変えただけの自分で活動している。
 なりたい自分になろうとあがいていた我々からしたら別世界の生き物なのである。
 我々から見るとVである意味がない。
 ただの絵がついためちゃくちゃ面白くて多芸な生主なのである。
 そこのすれ違いこそがV叩きの本質だと感じる。
 少なくとも私はこう感じているからこそ最近のVは嫌いだ。
 俺達の傷を舐め合う場所を奪ったから、俺たちが熱中していた概念を占領したから。
 結局のところ嫉妬である。
 我々のような人間達に能力がなかった、技能がなかった、数字がなかった、金がなかった。
 ただそれだけ。
 たぶんこれからもVは叩く。
 コラボメニューは徹底的に叩くし、その他少なくともここでは言わない方がいいことも全てやる。
 たぶんそのうち訴えられる。
 ただ、持たざる者に取っての変身願望とはそれだけ熱量をもつということである。

  PS VRCはなんか嫌いな方にきしょくなっていったのであまり好きではないです。
 後最近のVだと虎姫とかすこやとか好きです。
 外見だけならイブラヒムとかオウガ。

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