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経営とは矛盾との闘い

 1950年代後半から戦後流通革命を先導したビッグストア(GMS)の時代は、2024年3月10日、ヨーカ堂創業者・伊藤雅俊氏の死去によって完全に終わりを遂げました。ダイエーは、1972年(昭和47年)、年間売上高3,051億円を達成して、百貨店の三越を抜いて、小売業日本一の座に就きます。そして1980年(昭和55年)、売上高1兆円突破します。この頃がピークでした。

 2001年(平成13年)、マイカル(旧ニチイ)が経営破綻、2002年(平成14年)、西友が米国ウォルマートの傘下入り、2004年(平成16年)、ダイエーに産業再生機構の支援が入ります。2018年(平成30年)、ユニーがドンキに買収されます。残されたのはヨーカ堂とイオンですが、ヨーカ堂は8年間で800億円の赤字、事実上破綻しています。イオンは小型店「まいばすけっと」を首都圏に1,100店舗展開していますが、100%マニュアル化が進み店員は素人でも生鮮の扱いができるようになっています。イオンモールの開発は2024年以降国内は4ヶ所しかありません。

1980年代から消費者行動が変わり、流通革命の主役はスーパーからコンビニに移ったと言われますが、GMSに引導を渡したのは、ダイソーとユニクロだったのです。

 ダイソーは、1972年、矢野博丈氏が28歳の時広島で創業します。トラックにプラスチック製品やステンレス製品を積み込みスーパーの軒先で販売します。当時は信用もなく、お客から言われる「安物買いの銭失い」という言葉が一番堪え難かったと言います。「ちくしょう! どんせ儲からんのなら、いいもん売っちゃる!」と利益を度外視し、原価を思いきり上げ、時には98円で仕入れて100円で売ったと言います。たちまち、客の目付きが変わったと言います。

 同業者との場所の取り合いが激しくなり、矢野氏は、意を決して、広島を地盤とするスーパー「イズミ」の本社を訪ね、店頭販売をさせてほしいと直談判したといいます。それが実現し、1日で100万円を売るようになります。これを皮切りに1980年(昭和55年)、全国展開を見据え、東京を皮切りに各地に営業所を設立します。

 東京初進出は「ヨーカ堂北千住店」。店長に挨拶に行ったら「そんなモン売れるワケないだろ、荷物を持って帰れ!」と怒鳴られたと言います。商売をする人にとって単価100円の物が、10~30坪程度の1店舗で1日何十万、何百万も売れるのは有り得ない話です。結局この北千住店で1日130万円を売り上げ、ヨーカ堂本社にまで噂が届いたと言います。

 その後、ニチイ(後のマイカル)やダイエー、ユニーなどのGMSでも店頭販売で次々と実績を挙げ、チェーンストア経営者の間で、ダイソーと矢野博丈氏の名が知られていくのです。

 GMSの売場構成は、1階が食品、2階が衣料品、3階が住居品、4階が家電・催事となっているパターンが多かったのですが、ダイソーが扱う商品は、3階の住居品の売場に閑古鳥を泣かせます。国内の中小零細業者が製造し、何段階もの卸売業者を経由した商品の価格は、一獲千金を狙った業者が中国で生産し、ダイソーが一括購入する商品の3倍から10倍以上したからです。

 中国の内陸に“100均の里”と呼ばれる町があります。そこに行けば、様々な商品を格安で仕入れられます。“100均の里”と呼ばれるその町の名は「浙江省義烏(ぎう)市」。上海から南西へ300キロに位置し、戸籍人口はおよそ85万人(2020年末現在)です。

 1982年頃に義烏に大規模な卸売市場ができたのが、全てのきっかけだったと言います。それ以前の義烏はただの貧しい農村でしたが、農閑期に人々が日用雑貨品を作り、生活の足しにする習慣がありました。そのため1978年に始まった「改革開放」で市場経済に移行すると、義烏の人々は競って店を出し、市場が発展したのです。

 義烏の発展ぶりを聞きつけて労働者が次々と流れ着き、義烏は「市場」と「工場」の両機能を兼ね備えた一大生産拠点へと変貌を遂げていきました。そんな義烏の「低価格」の噂が、1990年代に入ると日本の100円ショップ関係者の耳に届き、大量の商品を注文するようになりました。義烏と100円ショップはウィンウィンの協力関係を築き、ともに成長してきたのです。

 私もこの当時、義烏の商品を日本に卸す業者を取材したこともあります。「商業界」でも義烏の商談会をメインにするツアーを組んでいたことを憶えています。

 日本からの技術移転もあったと思います。工場の運営や品質管理をサンヨー電機やシャープの社員が週末の休暇を利用して中国へ飛び、中国人に指南したのです。半導体関連の技術移転も同時に行われました。

 日本の技術で中国の安い労働力を活用して製造された100均商品は、日本を席巻します。一番ダメージを受けたのがGMSの住居売場と国内の中小零細製造業者だったのです。

 1994年(平成6年)、ユニクロは、自社企画のフリースを発売します。 価格は1,900円で、当時各地の店舗ではフリースを求める行列ができます。1998年(平成10年)にはフリースをメインとした原宿店がオープン。そして2000年(平成12年)には「フリース50色キャンペーン」を展開し、ユニクロ快進撃が始まったのです。

 ユニクロの快進撃により、GMSの衣料売場の衰退が顕在化します。1980年代まで、衣料部門はGMSの花形でした。当時の若者はヨーカ堂に入社し、衣料品のバイヤーになり、ヨーロッパに買い付けに行くのが憧れだったのです。

 そして最後の砦だった食品売場も、生鮮カテゴリーキラーの登場で打撃を受けます。最初は、百貨店の地下売場など食品フロアに、九州屋や北辰水産、ミュークイックなどの生鮮専門店に誘致されたことが始まりです。高級フルーツやタラバガニ、鮪、高級切身、和牛などグレードの高い商品を店員が大声を張り上げて売ります。活気ある商品、活気ある売場にお客は胸をときめかせたのです。

 2000年代になると私は新業態を思いつきます。キャベツ1円、国産豚肉全品1グラム1円、じゃが芋1玉10円、玉ねぎ1玉10円、トマト100g10円、生マグロ100g100円、醤油1ℓ100円、味噌1kg100円、有名メーカー米菓100円、缶ドリンク1缶38円、カップラーメン、スナック菓子68円、ほとんどの商品を、1円・10円・100円と38円・68円で売る業態です。惣菜はコロッケが10円、若鶏唐揚げが1グラム1円、国産若鶏むね肉を丸ごと1枚使用したジャンボチキンカツが1枚100円、そして弁当が250円均一です。

 売場面積は80坪から250坪、500坪の売場もありました。100坪で年商23億円、坪効率2,300円を記録した店舗もあります。

 GMS、SMも同じような業態を開発します。ヨーカ堂が「ザ・プライス」、イオンが「ザ・ビッグ」、カスミが「フードオフストッカー」、マミーマートが「ギガマート」などです。

 GMS、SMが開発したディスカウント業態は現在ではほとんどが消滅するか、名前だけ残して内容はほとんど普通のスーパーに戻っています。原因はディスカウント業態が不振店の受け皿になっていること、優秀な人材が配置されず、商品開発、店舗開発、従業員の教育・訓練に投資が行われなかったことです。

 GMSを葬ったのはダイソーでしょうか?ユニクロでしょうか?生鮮カテゴリーキラーでしょうか?

 経営とは矛盾との戦いです。リクルートが世の中にある“不の解消”という使命を掲げているように お客の不安や不満を読み取り、その不安や不満を解消する試みは矛盾と背中合わせです。

例えば、安いが品質がよい

例えば、安いが売場は清潔で明るい。活気がある

例えば、安いが店員が元気で明るく、しかも親切だ

例えば、安いが珍しい商品が並んでいる

例えば、安いが要望に応えてくれる

例えば、安い商品も扱っているが最高級グレードの商品も扱っている

 “不の解消”に挑むには、常に矛盾が立ちはだかります。その矛盾を解消するには、熱意とアイデア、その実践。最後にフィードバック。この繰り返しなのです。フィードバック、フィードバック、フィードバック。諦めない心がキセキを起こすのです。

 “不の解消”に目を背け、ひたすら儲けることに邁進すると思わぬ伏兵に足をすくわれるのです。その伏兵とは、ダイソーであり、ユニクロであり、生鮮カテゴリーキラーであるのです。

 セブン―イレブンの創業者・鈴木敏文氏は、「スーパーなどの既存の小売店は、どの店も同じ商品を販売しているため、飽和状態になって沈滞した。自主マーチャンダイジング(商品企画、MD)を行い、自分たちの力で差別化しなかったからだ。最初に自主MDを行ったのはセブン―イレブンだった。衣料品では『ユニクロ』、家具では『ニトリ』。いずれも自主的に差別化した企業が残っている」(日刊工業新聞2019年4月10日)と言っています。

 自主マーチャンダイジングでは、ユニクロ創業者・柳井正氏は、鈴木敏文氏の弟子と言える関係なのです。

 しかし、自主マーケティングだけでは、お客の“不の解消”にならないのです。店舗は老朽化して汚い、暗い。売場に従業員がいない。いても不愛想だ。商品が高い、PBばかりで品揃えが悪いなどです。

 矛盾の解消に目をつむり、自分に都合がいいことだけをお客に押し付けてもお客の心は離れていくのです。

 マイカル、西友、ダイエー、ユニーがなぜ間違えたのか。矛盾を解消するため、時として経営者は、自分が大切にしてきたものを捨てる勇気が必要なのです。

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