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大川清 図説 日本の古瓦



本書は教養文庫の一冊『かわらの美』と題して社会思想社よりいくたびか版を重ねたものであったが、刊行後三十年を経過すると古書扱いを受け、いつしか重版を絶たれたのである。しかし、しきりとその重版の要望を聴くにつけ、若干の補訂の後、上梓のはこびにもってゆきたいむねを社会思想社に相談うすると共にたまたま古稀を迎えるにあたり記念銘のひとつにもなればと思い、旧著を補訂して『古代のかわら』と改題して上梓する次第である。
平成八年立春   桃 林


図説 日本の古瓦


十葉素弁蓮華文鐙瓦 径16.2㎝ 飛鳥寺跡 飛鳥時代

200

 蓮弁の中に蕊(しべ)のないものを素弁という。この瓦は、百済から来朝した4人の瓦博士、麻奈父女(まなふめ)ヽ陽貴文、昔麻帝弥(しゃくまていみ)らによってつくられたものといわれている。この瓦とセットをなす宇瓦がつくられ なかったことは、瓦博士らの故国百済と同じで、ますます、こ の瓦が彼等の製作であることの 断定に有力となってくる。


(上)九葉素弁蓮花文鎧瓦 径15.2cm
(下)杏棄(ぎょうよう)若草文字瓦 厚6cm
若草伽藍跡(わかくさがらん)(旧法隆寺跡) 飛島時代

p201

 鐙瓦と宇瓦がセットとして軒先を飾るようになった最初のものであろう。宇瓦はこれと同じような文様をヘラで一つ一つ彫刻してつくった。
 若草伽藍跡は法隆寺の南東に接し、ここに四天王寺式配置をもつ寺院のあったことを発掘によって証明し、さらに、これらの瓦が現法隆寺の瓦よりも一時期ふるいことにより、法隆寺は再建されたことに間違いないことになった。


(上) 八葉複弁蓮花文鐙瓦 径18cm
(下)  四重弧文宇瓦 厚3cm
 
川原寺跡 奈良前期  

p202

 飛鳥川にあったから川原の寺といわれ創建は斉明天皇元年(655)と伝えられている。今の本堂のところが当時の中金堂でメノウの碁礎石をつかったことで名高い。
  鐙瓦の文様はすっきりした彫刻による范をつかったため、みごとな作品である。宇瓦の重弧は、初期の宇瓦として、その発明の動機を語っているようである。


(上)八葉複弁蓮花文鐙瓦  径18.7cm
(下) 忍冬唐草文宇瓦  厚5.8cm
 
法隆寺 奈良前期

p203

  川原寺の鐙瓦とは、かなり印 象をことにする。両者ともに、 きわめて端正な作品であるが、 どちらかといえば法隆寺の方に きぴしさを感じる。この鐙瓦の 文様面を上に向け、中房に仏像 をおくと蓮花座(れんげざ)としてきわめて恰好なものである。 
 宇瓦の文様は流麗な天衣のた なびきをおもわせる。この文様 はのちに九州方面にも流行をみた。


(上)八葉複弁蓮花文鐙瓦 径21cm
(下)均斉唐草文鐙瓦 径6cm
 
大官大寺跡 奈良前期

p204

 聖徳太子が起した平郡(へぐり)の熊凝精含(くまごりしょうじゃ)に端を発し、舒明天皇11年(639)百済川の辺に移って、百済大寺と呼び、天武天皇2年(674)現在の地に移り高市大寺と称したが、同天皇6年に大官大寺と改めた。のち、平城に移されて大安寺となった。
 彫りの深い焼成のすぐれた鐙瓦である。宇瓦は、外区上部に点を、両測と下部は波文で天星地水をあらわしている。内区の唐草文は中心花から左右に均斉をたもって転回している。


(上) 八葉複弁蓮花文鐙瓦 径17cm 
(下) 扁行唐草文字瓦  厚5cm
 
観世音寺(かんぜおんじ)所用  老司(ろうじ )瓦窯跳 奈良前期

p205

 この瓦窯でつくった瓦は観世音寺(福岡県太宰府市)につかわれた。寺は、斉明天且の追福を祈願して、天智天皇(662~671)の御発顧により創建され、天平年中(729~748)に完成した。
 鐙瓦は川原寺ほど強烈な彫りをもたないが、全体に整ったやさしさがある。宇瓦の内区は右から左へ転回している。外区は天星地水をあらわし、全体に整っている。この一組の瓦は、藤原宮の瓦より優れ、かつ、その製作も天智朝に属するであろう。


(上)八葉複弁連花文鐙瓦 径18cm 
(下)扁行唐草文宇瓦 厚5.2cm 
  
藤原宮跡  奈良前期

p206

 藤原宮は持就天皇の時に遷(うつ)られ(694)平城宮に遷都する和銅3年(710)まで3代16年の都であった。
 この一組の瓦は、観世音寺のそれに類似しているが、くらペると、かなり見劣りがする。宇瓦のごときは大官大寺や観世音寺にみる天星地水をあらわしてはいるが、両側の波文が省略されている。この一組は観世音寺に範をもとめたものではなかろうか。


(右)忍冬唐草文字瓦 厚7.5cm
(左)八葉複弁連蓮花文鐙瓦  径20.6cm
 
 天台寺跡 奈良前期

p207

 福岡県田川市鎮西公園が寺跡である。
 新羅系文様をもったわが国古瓦中の優品である。帰化人系豪族、またはその系統の工人によってつくられた寺院と考えられる。


(上) 鬼面文鐙瓦 径17.2cm
(下) 葡萄唐草文宇瓦 厚7.4cm
  
慈光寺(ぢこうじ)跡  奈良前期

p208

 奈良県北葛城郡新庄町にある。創立年代など文献的に明らかでないが奈良前期ころの寺院跡であろう。
 宇瓦の葡萄唐草は中央から左右へ転回する均斉文で、新羅統一時代の同文宇瓦には葡萄の1房が写実的に表現されているが、この文様では房の表現が略化され、周囲に5、6個の粒があらわされている。鐙瓦の鬼面文様は高句麗系で、宇瓦は高旬麗にはなかったので、新羅系のものをとりいれた。それは直輸入ではなく、飛鳥岡寺のものを範とした。范の作者が葡萄そのものを知らず、単に文様を楳倣したので、このような瓦ができたのであろう。


(上)三重巫文鐙瓦 怪16cm
(下)重廓文字瓦 厚4.2cm
  
平城宮跡  奈良後期

p209

 平城宮をはじめ唐招提寺などにも用いられ、遠く東国にも一時流行をみたものである。ともに節素な幾何学的文様で、蓮花文や唐草文の複雑なものにくらべてあまりにも単純であるため、ものたりなさを感じるであろう。ところが、堂塔の軒先は地上からではかなり高い。いかに繊細華麗な文様であっても、地上からみた目には、その美しさも半減される。軒先にあって、みた目に鮮やかでそして柔かな印象をあたえるには、この一組の文様は効果的である。この文様こそ、古代瓦文様のなかで近代的感覚をもった知的なデザイナーによった唯一最高のものである。


(上)八葉単弁蓮花文鐙瓦 径20.5cm
(下) 偏行唐草文宇瓦   厚5.5cm
  
陸奥(むつ)国分寺跡  奈良後期

p210

 奈良時代の仙台付近は、辺境といわれながらも、開拓の拠点として鎮守府(
多賀城)をはじめ多くの城柵(じょうさく)、寺院の造立がさかんであった。陸奥の国分寺は奈良東大寺の伽藍配置を模した規模雄大な寺院であった。
 鐙瓦文様は、小さな中房から花弁がのぴやかに展開し、みちのくの開拓期にふさわしい、おおらかな瓦である。
 宇瓦の天地は数珠(じゅず)玉状の連鎖珠文(れんさしゅもん)を配し、内区は右から左へ転回する簡略唐草文である。


(上) 八葉複弁蓮花文鐙瓦 径18cm
(下) 均斉唐草文字瓦 厚9cm
  
長門国分寺跡  奈良後期

p211

 山口県下関市長府にある。長門国は、当時の造幣局といえる鋳銭司が設けられたり、長門国の瓷器(しき)といわれる緑色の釉薬(うわぐすり)・緑釉(りょくゆう)をかけた陶器の製作などで有名な工芸技術国として、文化程度の高いところであった。したがって、朝廷をはじめ、中央との往来がはげしかった。そのようなことによったかどうかは別として、この寺の鐙瓦文様は東大寺系のものである。宇瓦は左右へ転回する唐草文で、いくらか新羅系のにおいがしなくもない。


(上)緑釉八葉単弁蓮花文鐙瓦  径19.5cm  
(下)緑釉均斉唐草文字瓦 厚8cm
  
平安宮跡  平安前期

p212

 桓武天皇延暦13年(794)、7代70余年の都であった平城京( 奈良) から新都平安京( 京都) へ遷った。平安京はその後、東京遷都までの千余年の都であった。
 これは鉛(なまり)系の釉楽(うわぐすり)である緑釉をかけた瓦で、わが国施釉瓦の最古のものといわれていたが、近年平城宮からも発見され、その製作が、奈良時代におこなわれていたことを語っている。


八葉単弁蓮花文鐙瓦 径16.3cm
山田寺跡  奈良後期

p213

 奈良県桜井市にある。皇極天皇( 642~644) のとき、蘇我倉山田石川麻呂が建立したといわれる。三重弧文宇瓦と組になる。同系の瓦は、のちに蘇我氏と関係のあった東国や九州の地でもっくられた。


六葉索弁文鐙瓦 径16.3cm
三河北野廃寺跡    奈良前期

p 213

  愛知県岡崎市にある。四天王寺式伽藍配置をもつ奈良前期の寺院である。鐙瓦の文様は、蓮花文とはいえない棒状の弁と弁の間に珠文を配し、高句麗系の特色を継承するものである。重弧文字瓦が七ットになる。


八葉複弁蓮花文鐙瓦  径18.7㎝
東大寺 奈良後期

p214

 東大寺造立は、天平15年(743)聖武天皇の大仏建立の勅願によってはじまり、宝亀末(780) ころほほ完成した。諸国の国分寺のなかには、この瓦文様と同類のものをつくったところもあった。


八葉単弁蓮花文鐙瓦 径20㎝
土佐国分寺跡 奈良後期

p214

 高知県南国市にある。塔1基をもった薬師寺式伽藍配置である。瓦文様は百済系の単弁蓮花文で、飛鳥時代にくらぺ、中房が大さくつくられているところに、この時代の特色がある。重弧文宇瓦とセットになる。


八葉素弁蓮花文鐙瓦(水切瓦) (上)径17cm (下)径19cm
備後寺町廃寺  奈良前期

p215
p215

 広島県三次(みよし)市にあり、法起寺式伽藍配置である。
 『日本霊異記』の説にみえる「三谷(みたに)寺」に比定されている。この寺は、斉明天皇6年(660) ~天智天皇2年(663)の百済救援軍に伴い渡来した百済の僧引済(ぐさい)が建立したという。円形の下部が三角状に突出した「水切瓦」と呼ばれるもので、備後北部を中心に特異な分布状況を示す。現在知られる寺院跡は備後国では三次市上山手廃寺、寺戸廃寺.庄原市神福寺廃寺、世羅町康徳寺廃寺、安芸国が本郷町横見廃寺、吉田町明官寺廃寺、備中国の岡山市大崎廃寺、総社市栢地(かやでら)廃寺、出雲国の神門(かむど)廃寺の10ヵ所である。


方形蓮花文鍔瓦 高さ24cm
滋賀廃寺  奈良前期

p216

 滋賀県大津市にある。薬師寺式伽藍配置である。
方形の鐙瓦という極めて特異な形で、蓮花文も他は上方から眺めた状態を表現しているのに対し、これは横から眺めた形を表わしている。このため、かつては「サソリ文」と呼ばれたこともあった。


八花形蓮花文鐙瓦 径11.4cm 平城宮東院跡 

奈良前期(767?)

p216

 内区に八葉単弁蓮花文、外区に飛雲文を配し、外葉が円形ではなく八花形である。神護景雲元年(767)東院に玉殿が造営され、その屋根には瑠璃(るり)の瓦を葺いたとの記録がある。黄、緑の二色の釉を施したこの鐙瓦は王殿の屋根を飾ったものと思われる。


八葉素弁蓮花文鐙瓦 径19.7cm
伊豆国分寺跡 奈良後期

217

 静岡県三島市にある。東大寺式伽藍配置である。蓮花文をあらわしているのであるが、きわめて粗雑な苑をつかっている。デザインとしては効果的なものである。重弧文系宇瓦と七ットになる。


六葉花文鐙瓦 径19.5cm
武蔵国分寺跡 奈良後期

p217

  東京都国分寺市にある。この寺の鐙・宇瓦の文様は多種多様で百余種におよぶ。これは茎のついた花弁の長短、大小を交互に配し、中房を四区分した高句麗系文様で、国内居住高句麗人のニューデザインである。


五葉単弁蓮花文鐙瓦 径16.5cm
上野国分寺跡  奈良後期

p218

 群馬県群馬町にある。この寺跡は武蔵国分寺跡同様、文字瓦の発見が多く、瓦文様は高句麗系が圧倒的で、文様も数十種におよぶ。


細弁蓮花文鐙瓦  径19cm
秋田城跡 平安前期

p218

 秋田市にある。秋田城は奈良時代東北開拓の日本海側路線の拠点として、天平5年(733) 出羽柵を秋田高清水岡に遷地(せんち)したのにはじまる。細い花文を無雑作に描いた粗雑な文様で、平安時代前期の製作であろう。


八葉単弁蓮花文鐙瓦   径17cm
明後沢(推定覚鱉城跡)   平安後期

p219

 岩手県前沢町にある。胆沢(いさわ)城(水沢市)の南にあり、延暦12年(793) 坂上田村麻呂らによって造立された覚鰲(かくべつ)城跡と考えられる。瓦は胆沢城のものと同范で、多賀城、陸奥国分寺の鐙瓦を模したものである。


鬼面蓮花文鐙瓦 径16cm
佐野市犬伏出土 平安後期

 p219

 栃木県佐野市犬伏(いぬぶし)から発見されたものである。巾の広い花弁を配し、中房に顔面がある。歯牙(しが)の表現されているところから、鬼面といえる。この出土地については、今のところ、その性格を明らかにできない。


変形複弁蓮花文鐙瓦 径14cm  尊勝寺 平安後期

尊勝寺 平安後期 p220

巴文鎧瓦 径13.5cm  尊勝寺 平安後期

尊勝寺 平安後期 p220   

 京都市にある。六勝寺の内で、堀河天皇の発願により康和4年(1101)造立供養された。
 この寺の瓦は、京都北部の幡枝(はたえだ)瓦屋と亀岡市付近のいわゆる丹波瓦屋の2カ所からの供給が多く、この時代の造営工事が請負形式に変ってきたため、瓦文様に多種多様なものがつくられるようになった。このような不統一な瓦文様は、修繕の実をあげるのに造寺造仏の多寡(たか)によるという考えが背景となっていたのであろう。


八菜複弁蓮花文鐙凡 径19.5cm
興福寺 鎌倉時代

p221

 藤原氏の氏寺として山科(やましな)寺・厩坂(うまさか)寺が前身で、都が平城(奈良)に還るとこの寺も移転した。たびたぴ兵火に遭い、治承4年(1180)灰燼と化し、大伽藍の俤(おもかげ)を失った。


桃山城の鑓瓦 径20.5cm
桃山城 室町時代

p221

 文禄4年竣工した。秀吉は歿年までの4年間この城にいた。瓦文様は秀吉の家紋の桐で、表面には金箔をはってある。


聚楽第の鐙瓦径16cm
聚楽第跡 室町時代
 秀古は関白にふさわしい邸館として天正14年(1586)旧大内裏跡の内野に聚楽第の造営をはじめ、翌年できあがった。瓦の表面には金箔をはり、豪華な亭館が軒をならぺていた。瓦文様は巴文である。

p222 



前田邸の鎧瓦 径15cm
江戸前田邸跡 江戸時代
  江戸の大名屋敷のうちで、加賀百万石の前田邸は金箔の瓦をつかったというので名高かった。金箔を表面にはったのは、秀吉にはじまる。瓦文様は前田の家紋である。

p222

竹菅指圧文字瓦 厚5.5cm  奥山久米寺 奈良前期
 中央に竹管文を、上にXを下には指圧のような連続文を配した独特の文様である。

p223

忍冬文字瓦 厚6cm  藤原宮跡 奈良前期
 宮跡からは、さきのセットと、ここにあげた宇瓦とが多く発見される。細い棒で表現した、特異な唐草文である。周縁は天星地水をあらわしている。

p223

忍冬唐草文字瓦  厚5.6cm  法隆寺 奈良後期
 奈良前期の流麗な忍冬唐草文にくらべると数段のへだたりがある。

  p224



均斉唐草文宇瓦 厚5cm 大宰府蔵司(くらのつかさ)跡 奈良後朋
 都府楼・観世音寺の主流文様は扁行唐草文であったが、この種の別種文様も時代の降るにしたがってあらわれる。唐草の転回は機械的になってきて、豊かさが失われている。

p224

飛雲文字瓦 厚5.3cm  下野国分寺跡 奈良後期
 宝雲であるかもしれない。いずれにしても中央の雲は左右にたなぴきをあらわし、左右二つずつの雲は外側へたなぴき左右に均斉をたもったものである。

p225

均斉唐草文字瓦   信濃国分寺跡 奈艮後期
 畿内に流行をみた都風の唐草文である。ことにセットになる鐙瓦は東大寺系のすぐれたものである。都でつくった苑をもってきて瓦をつくったのであろう。

p225

扁行唐草文宇瓦 厚6cm  武蔵国分寺跡 奈良後期


 左から右へ進む文様で、唐草文を意味しているのであろうが、形式化され、文様としては、単純でセンスのあるものとなった。針金細工をおもわせる。

武蔵国分寺跡 奈良後期 p226

蓮花文字瓦  厚4.6cm  下野国分寺跡  平安前期
 唐草でなく蓮花である。簡単で自由な構図が面白い。この瓦は上野国分寺からも発見され、両寺の補修用の瓦である。両寺が同文の瓦をつかっているのは、同じ瓦屋から供給をうけていると考えられ、平安時代の寺院経済を知る資料として資重なものでもある。
 平安時代になってくると、奈良時代の文様にとらわれず、自由な文様をつかうようになってくる。

p226

均斉唐草文宇瓦  厚5.4cm  陸奥国分寺跡 平安前期
 新羅系文様の流れであろうと思うが、退化がはげしく、范の作者自身、唐草文様を意識せずに原型を模作したものであろう。

p227

均斉唐草文字瓦  厚6cm  尊勝寺跡  平安後期
 藤原貴族の趣向にかなった文様の―つであろう。おっとりとした感じが、奈良時代の唐草文とはちがう。陸奥国分寺跡の均斉唐草文とくらべたとき、都風と田舎風を感ずる。いずれにしろ、平安時代の政治、経済の乱れを反映してか、この時代の瓦文様は乱れ、退化がはげしくなる。

p227

剣頭文(けんとうもん)宇瓦  厚2.6cm 長楽寺跡 鎌倉時代
 神奈川県鎌倉市にある。平安後期から流行した剣頭文(剣の先に似ている)は蓮花の花弁の形式化したもので、巴文と組合せて宇瓦につかった。相互の数は自由で各種ある。この瓦も中央に巴文、左右に剣頭文を配し、均斉文宇瓦の構図を受継いでいる。

p228

熊本城の宇瓦(滴水瓦)  厚13cm  熊本城 室町時代
 日本在来のものとは異う三角形の異色ある瓦である。このタイプの字瓦は朝鮮に流行していた。桃山城や姫路城にもつかわれた。この城にニュースタイルの瓦を採用したところなど、加藤清正の人間味をあらわして興味深い。中央に「慶長四年八月吉日」とる。関ケ原の戦は慶長5年(1600)であった。

p228

扶余の石製花文鬼瓦
 百済の古都扶余(ふよ)から出土した石製の鬼瓦 で、飛鳥時代から奈良時代前期に流行した 形のもので、大棟に取り付ける鉄製のカギ 釘が一緒に発見された。

p229
p229

蓮花文鬼瓦  高28cm  奥山久米寺  飛鳥時代
 奈良梨高市郡明日香村にある。型徳太子の弟来目(くめ)皇子の創建と伝える。
 円頭方形で、中央に八葉単弁の蓮花文をおき、周囲に大粒の珠文をめぐらし、端正な美しさをもっている。バックの方形から蓮花文の一部がはみでた構図は、堤瓦を重ねた上に男瓦をおくため、男瓦先端をかくす必要から生れたものである。
 鬼瓦と呼ぶが、正しくは棟端飾瓦というべきである。

p230

蓮花文鬼瓦(重文)  吉備寺跡  奈良後期
 岡山県吉備郡真備(まきび)町にある。
 円頭方形で、中央に八葉の単弁蓮花文をおきそのまわりに18個の大きな珠文をめぐらしさらに外側には半載珠文と波文とを2列にめぐらしてある。中央の蓮花文は新式(奈良後期)、まわりの装飾文は古式(奈良前期)の流行をもったもので、新旧の文様が組みあわさって、この瓦の図柄を構成していることは興味ぶかい。


蓮花文鬼瓦 高35.5cm  菜切谷(なきりや)廃寺跡  奈良後期
 宮城県加美郡中新田町にある。
 玉造柵に付属した寺院跡といわれる。(279page参照)
 方形で下部にくり込みがあり、そのために左右に脚ができている。中央には八葉単弁蓮花文を配し、そのまわりに珠文がめぐっている。両脚のところに忍冬文が配されたもので、現存部分は約半分で左上の一部と右側が欠失している。
 左脚のところに「小田建万呂(おだたけまろ)」と人名が刻まれている。この種の棟端瓦は多賀城・陸奥国分寺跡から出土している。この瓦の裏而には、スダレによる成形のあとがのこっている。

p232

蓮花文鬼瓦 高43cm 南滋賀廃寺跡  奈良後期
 滋賀県大津市にある。薬師寺式伽藍配置
である。
 半円方形で、中央には16葉の単弁蓮花文をおき、中房は円形につくられ、大きな形の釘穴がある。蓮花文のまわりには左右対称にそれぞれ4個の飛雲を配している。下部の両脚にも左右対称に山と樹木が配置され、さらにこれらの図柄の外側には小さな飛雲約8個を配した絵画的な美しさをもつものである。

p233

蓮花文鬼瓦  巾30cm 下野薬師寺跡  奈良後期
 栃木県南河内町薬師寺にある。
 吉備寺跡や奥山久米寺、山村廃寺跡などのような円頭方形である。
 雄勁(ゆうけい)な八葉単弁の蓮花文、中房には18個の蓮子を1+5+12の順に配列し、周緑には面違波文が配されている。下部中央にわずかながらくり込みがある。この瓦は上下に割れていて、下部は東博所蔵品、上部は最近の調査によって出土したもので、平成6年に上下を合せたことがあり、これはその時の写真で、いまは別々になっている。

p234

鬼面文鬼瓦(重文)  高50.5cm 都府楼跡  奈良前期
 福岡県太宰府市にある。大宰府正庁跡、後殿跡などがあり、天智朝に開設されたものであろう。
 円頭梯形で鬼面文のもっとも代表的なもののーつである。目を怒らせ、口を大きく開け、眉を逆立て、眉間にしわをよせた念怒の形相(ふんぬのぎょうそう)のはげしさは、彫刻的技法の優秀さと相まって、鬼瓦の名称を独占するにやぶさかでない逸品である。

p235

鬼面文鬼瓦(重文) 高50cm 東大寺  奈良後期
 半円方形で、范からの抜けが不十分である。けれども、図柄は大体わかる。都府楼出土の鬼面はどの形相のはげしさはないが、南都(奈良のこと)諸寺の鬼面文鬼瓦でこれ以上のものはない

 p236

鬼面文鬼瓦(狐文)高41cm 伝大安寺跡  奈良後期
 半円梯形で、口の部分のくり込みが大きく、図柄は念怒の形相を表わしているけれども、東大寺のものにくらべて、鬼気を感じない形式化のすすんだものである。さきの東大寺の鬼面を模したものと考えられる。

p237

 


 半円梯形の中に鬼の裸像(らぞう)を中央に、左右の空間にはたてがみを表現した図柄である。
 大きな眼、牙のむき出た大きな口、いかにもヒトを取って喰いそうな形相である。頭髪、あごひげは頸(くび)のまわりを埋め、腕を両ももの上において両肩をいからした姿は六朝の神像攫天(かつてん)をおもわせ、ふしぎな魔力を感ずる。 

 この種のものは、平城宮跡をはじめ、薬師寺からも発見されている。この瓦のデザイナーは鑑真大和上にしたがって来朝したお弟子の一人であろう。

p238

素文鬼瓦  高43.7cm  信濃国分寺跡 平安前期
 長野県上田市にある。裏表ともまった<文様がない。中央上部に釘穴があり、棟の先端をふさぐ機能は十分で、好意的にみれば実質的な鬼瓦といえる。しかし、この寺の鐙瓦や宇瓦の文様が、都に范をとっているのに鬼瓦だけが素文とはどういうわけか。鐙瓦と宇瓦の苑だけは注文して出来あがったが、鬼瓦の范は値段が高く、予算がそこまでまわらなかったので、注文を差し控え、棟端をふさぐものであるなら、たとえ板であっても機能的に問題ないわけで、文様なしの鬼瓦をつくったのであろう。いずれにしても無文にした理由がはっきりしない謎の鬼瓦とはこのことである。

p239

面戸瓦 横長31.5cm 藤原宮跡 奈良前期
 男瓦をヘラできりおとしてつくった。棟につかうときは、写真の上が外になり、下は内側になる。内側にけずり口が斜めに入っている。
 この面戸瓦は降棟(くだりむね)に用いたのであろう。

p240

面戸瓦 高10.5c 下野薬師寺所用 水道山瓦窯跡  奈良後期
 下野楽師寺、国分寺所用瓦を焼いた瓦窯からの出土品である。上は外、下は内側である。
 大棟につかわれることが予定されていたであろう。

p241

隅切瓦(宇瓦) 厚5cm 都府楼所用 老司瓦窯跡  奈良前期
 宇瓦の女瓦の部分を切断して隅瓦としたものである。それと同様のものが同瓦窯跡からさらに1個発見されている。

p242

宝珠(瓦製)黄金山神社六角堂跡(沙金収納堂)  奈良後期

 宮城似遠田郡涌谷町にある。六角の稜(りょう)をもった宝珠の頂点部破片である。この宝珠には絵画のようなものと、その反対側にヘラ書文字「天平」が記されている。「天」は明瞭であるが、下の「平」は一部分しかみえないが2字を「天平」と読んで間違いない。天平の下になんと書かれていたかはクイズのようなもので、いまはわからない。
 この宝珠は、大伴家持の「陸奥国より黄金を出せる詔害を賀ぐ歌」で有名な黄金山神社に建立された六角円堂の屋根の中央につかった宝珠と考えられる。

p243

素弁蓮花文垂木先瓦 径15cm 飛鳥寺跡  飛鳥時代
 鐙瓦の外区を取りのぞき中房中心に釘穴を開けたものである。六葉素弁の百済系文様で中房のところに鉄釘がのこっている。

p244

単弁蓮花文垂木先瓦 径16cm 山田寺跡  奈良前期
 八葉単弁、中房中心に釘穴があり写真ではみえないが鉄釘がさぴついて、わずかであるがのこっている。これは、この寺の鐙瓦と同じ文様をもちいている。

p244

複弁蓮花文垂木先瓦 径9.3cm   栗原寺跡(大原寺) 奈良時代
 八葉複弁で中房に12個の蓮子を配し、その中心に小さな釘穴がある。垂木先瓦の流行時期の関係からか、複弁系のものは、きわめて少ない。

p245

単蓮花文垂水先瓦  長径16.7cm 新堂廃寺跡  奈良前期
 長円形の単弁10葉、中房に小さな釘穴がある。
この文様は、山田寺系蓮花文様と考えられ、この瓦の形から垂木が長円形であったことがわかる。

p245

単弁蓮花文方形垂木先瓦  方11.2cm 井上廃寺跡  奈良前期
 
八菜で、対角綜方向の花弁は一般的であるが、その間にある4個の花弁は方形に制約されて写実性を失っている。このほか、円形垂木先瓦が発見されているので、同一建物につかったなら、二重垂木構造の屋根が考えられる。

p246

三彩釉方形垂木先瓦残片 復元縦14cm 西大寺 奈良後期
 方形のものは宝相花文(ほうそうげもん)と考えられ四隅に釘穴が あけられていたものであろう。
 三彩釉(さんさいゆう)でつくられたこの瓦は完形であったら、さ ぞ芙しいものであったと思う。

p246

鬼面文隅木瓦  縦19.6cm 新棠廃寺跡 奈良前期
 隅木瓦には、隅木の上面をおおうものと端を飾るものがある。これは両者を― つにしたものである。図は鬼面でまわりは重弧文、隅木おおい( 上面) の部分は茅負(かやおい)に接するように三角の切りこみがある。

p247

堤瓦(裏表)縦32cm  武蔵国分寺跡 奈良後期
 女瓦を二つ割りにしたもので、割り口はヘラで化粧してある。布目(右)の部分に「都」とヘラで記されている。このヘラ書文字は、武蔵国内の都筑(つづき)郡の略である。

p248

堤瓦 縦40cm   武蔵国分寺跡  奈良後期
 女瓦を二つ割りにしたもの、左側が割り口で、ヘラで化粧してある。

p249

鴟尾瓦   法輪寺 飛島時代
 飛鳥時代の鴟尾(しび)は破韻したものが多くこれは比較的旧形をのこしている。下部(棟に接する部分)がかなり欠失している。ヒダ状につくった羽の表現は形式化の前段階を示すものであろう。

p250

唐招提寺金堂所用鴟尾 高11.5cm  奈良後期
 金堂の大棟左側(正面より)にのっている。沓形(くつがた)と呼ばれるにふさわしい形である。

p250

戯画
 瓦を焼く前のやわらかなとき、人物をはじめ、動、植物などを描いた。戯画(らくがき)瓦は比較的少ないが、なかにはみごとなものもある。らくがきの犯人については、いろいろ容疑者をあげることができる。第一には、瓦屋に働く瓦工たち、とすることが自然である。しかし、画題によっては瓦工以外の人物、つまり瓦屋に出入してらくがさできる立場の人間があげられる。とすると造寺関係の役人たちで、彼等のなかには多少絵ごころをもった者もいたことであろう。これが第二の容疑者になる。


「野花」横長7.7cm 武蔵国分寺跡  奈良後期
 野の花を描いたものであろう。タンポポであるともいう。いずれにしても、身近かに生えていた野花であったことには違いなかろう。

p251

「人面」 縦18.5cm 広島県元町廃寺跡  奈良前期
 男瓦の凸面(上)にヘラで描いた人面、ほほの左右に描かれているのは、美豆良(みずら)であろう。あごひげをたくわえた男子である。

p252

「人面」 縦33.lcm 四天王寺  奈良前期
 男瓦の凸而にヘラで描いた人面、あごの下の3本の曲線は仏像の三道をあらわすに似ている。そのようにみる眉と眼の細長い表現は仏像的である。全体には写実的であるから、直ちに仏像であるとはいえないが、ひょっとすると仏像または神像を描いたものであるかもしれない。

p253

「人物」(重美) 縦17.5cm 光寿庵廃寺跡  奈良前期
 女瓦凹面(上)に人物三人が描かれている。下の人物は圭冠(けいかん)をかむり、両手を胸にあててひざまずさ、緊張を感ずる。上の人物二人は裾(すそ)と足の部分だけ現存し、それから上は欠失している。裾のしわの様子から歩行を表現しているようであるが、二人の顔をみることはでき
ない。いつの日にか、この失われた部分が発見されることをたのしみにしている。

p254

「馬」  横長37cm 武藏国分寺跡  奈良後期
 女瓦凹面(上)、布目のところに左向きの馬をヘラでえがいたもの。
 馬の頭部はからだよりやや小さめである。耳、眼、たてがみなどが描かれ、ことに眼は方形の線でかこっている。脚は前後4本の曲線で描き走行の姿をあらわしたもののようである。無駄のない線で感動を表現していることは、非凡な描手ともいえよう。

p255

馬」 縦18.5cm   武蔵国分寺跡  奈良後期
 男瓦凸面(上)に描いた、ヘラのつかいが着実で、ヘラの運びは頭部から肩、臀、腹部への進め両脚でおわる。写真は頭部がわからないから、拓本をみてもらいたい。たてがみや顔がよく描けている。

p256
拓本

「野草」 山田寺跡  奈良前期
 鐙瓦の文様面(径17cm)の外側にぐるっと描かれた植物である。拓本でみるとよくわかるように、かなり刻明lに描かれている。束京学芸大学の川崎次男博士によると豆科植物の「クララ」にもっともよく似ているとのことである。

p257
拓本

「格子文と野草」  縦19.3cm  秋田城跡 奈良後期
 女瓦凸面(下) に格子文と野荘を交互に描いたもので、文様的な配置である。樋物は豆科樋物ではなかろうか。いずれにしても、意味するものが何であるのかわからない。

p258

宝相花水波文磚(重文) 横長16cm 大宰府学業院跡 奈良前期
 三角形ので、周緑に珠文をめぐらし、内区は水波文で蓮池をあらわし、中に宝相花文を配している。都府楼周辺出土の文様のうちでは摩滅の少ない
ものである。

p259

花文磚(重美)  横長27.5cm   都府楼跡   奈良前期
  長方形で、面中央に八葉重弁蓮花文をおき、中房には8個の蓮子を配している。蓮花文のまわりには宝相花文がめぐり、内区4隅には宝相花文を配し、周緑は珠文帯で縁取りしている。写真下の側面には宝相花の均斉唐草文様がある。このは平面も側面もともに磨滅がはげしい。

p260

天人(重文) 縦39cm  横38cm
  方形で中央に脆坐(きざ)の天女の姿をあらわした美しい絵画的図柄である。このは仏殿などの壁面にはめこまれてあったものと思われる。

p261

鳳凰磚(重文) 縦横39cm  岡寺
 方形で、中央に鳳凰(ほうおう)と瑞雲(ずいうん)を配した図柄である。さきの天人とともに岡寺にあったものと伝えられている。このも仏殿の壁面を飾っていたものと考えられ、天人とともに使用されていたものとするにふさわしい図柄である。

p262

緑釉水波文磚  一辺14.5cm 奈良市法華寺町付近出土 奈良後期
 方形、表面にヘラで水波文を描き、緑釉をかけたものである。このの裏面には「十三条十」のヘラ書がある。このヘラ書は、この種のを何枚も組み合せることによって、法隆寺橘夫人厨子にみられるような蓮池を形づくるものであろう。緑釉の色彩はかなり薄れている。このは良質の陶土を使用してつくったものである。

p263
p263

古瓦文様の種類


鐙 瓦

研究資料の主役鐙瓦と宇瓦
 古瓦研究においては鐙瓦・宇瓦・鬼瓦、垂木先瓦などの文様に重点がおかれるのであるが、さらに造瓦技法はもちろん、瓦窯についても、検討を加えねばならない。古瓦文様の主流をなすものはあくまで鐙瓦・宇瓦であるとともにその数もきわめて多く、飛鳥時代前半を除外してすべての時代にわたり、この2種の瓦が研究資料として主役を演ずる。だが、ともすればこの2種の瓦文様の研究が古瓦研究の主役であるごとく、誤認する傾向がみられるけれども、それが研究のすべてではないということを銘記せねばならない。
 鐙瓦と宇瓦は機能的に軒先でセットとして配置されている。このセットとしての存在はいずれか一方を切り離すべきではない。ことにわが国における寺院などはそれぞれ独自の文様をもって軒先を飾ったものであるから、セットとして把握せねばならない。

Page 265

鐙瓦文様の部分名称
 わが国鐙瓦は南滋賀廃寺の方形鐙瓦を除いては、すべて円形であり文様の多くは蓮花文である。したがって文様面の中央の小円を中房と呼び、その中央には1顆の蓮子を擁し、その周囲に数顆の蓮子が一重または二重に囲続する。中房からは四囲に花弁が開く、この花弁と中房を内区と呼び、花弁の外側を囲む縁を外区と呼ぶ。外区には素文の縁(周縁)と縁が幅広になって素文をもふくめて2種の文様帯がみられる場合、外側を周縁、内側を内縁と呼ぶ。
 鐙瓦の文様は中房と花弁と外区との組合せによって時代の特色を把握することができる。古瓦文様は仏教文化のそれと同様に飛鳥時代から奈良時代前期にかけては、半島や大陸の様式を受け入れているのであるが奈良後期になると畿内の瓦文様は形式として退化の傾向を示すのであるが、他面、畿内以遠の地には新鮮な外来様式の文様がさかえる。
 しかし、その外来様式も時間の経過にともなって退化の一途をたどるのである。このような瓦文様の変遷について飛鳥・奈良時代の代表的セットを例示し、各時代識別の特色について記そう。

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鐙瓦内区・外区文様

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文様の部分と種類
 
鐙瓦文様面の部分名称については述ぺたが、蓮弁や外区の各種についてつぎに図(第1表)によって説明しよう。

第1表 鐙瓦文様各部の組合せによる時代の特色 p268

内区蓮弁については6種に分ける。
1 素 弁( A )  花弁の形のみをあらわしたもので薄肉の扁平なもの
        ( A )と図示しなかったが嵩肉のものがある。
 素 弁(B )  高肉の花弁中央に稜線があり弁間に珠文が配されたもの。
3 忍冬文 素弁の上に忍冬(にんとう)文の配されたものや素弁と
      忍冬文が交に配されて、6分割または8分割されたもの。
4 単 弁 高肉で蕊を配したもの。
5 複 弁 高肉の1花弁が二分割され単弁が二つ合わさって1花弁を構成
      するもので、単弁に対して複弁と称する。
6 細 弁 細弁は5の複弁から派生した形式である。
      単位は単弁であるが、弁数が12~16までが多く、
      さらに多数のものもある。

中房は
1 素 文: なんらの装飾文を施さないもの。
2 一重蓮子(甲):中央に顆を擁し、
          そのまわりに5頼以上の蓮子を一重に囲▢するもの。
3 二重蓮子( 乙):二に蓮子を囲椀するもので、
          この式には中央の一顆を欠くものもある口また、
          この式になってから連子が乳頭状に表現されるものが
          あらわれてくる。

外区文様は
A  素 文 なんらの装飾文を施さないもの。
B  宣 文 二重、三重の圏文が凹凸によってあらわされている。
C 波 文 これには三種あり、
(1) 面違波文(めんたがいはもん:面違いによってあらわされたもので、
       別に鋸歯文とも呼ばれている。
(2) 凸波文:三角形の波文が凸文であらわされている。
(3 ) 隆線波文:隆起線によってジグザグ文があらわされている。
D 雷 文:雷文を連続することにより雷文帝をつくる。
E 唐草文:
F 珠 文:珠文帯をつくるが、これには珠文の大小があり、数には8の倍数16、24、32、40などが比較的多い。
 上のABCは周縁に配されるが、DFは内縁に多く、Eは周縁、内縁ともに配される。
 以上、鐙瓦文様各区の種類について略説した。そこで、これらの中房と花弁と外区文様の組合せによって時代の特色を把握すべく前出第1表のように整理した。

宇瓦

宇瓦の出現
 宇瓦は初期の段階においては出現をみず、飛鳥寺の創建時などにはまったくなかった。
 しかし.字瓦の発明については軒先で女瓦を 数枚重ねることから、これをーつの瓦として つくり軒先に罷くことをくふうしたものと考 えるのが妥当であろう。それを証明するかの ように.女瓦の2、3倍に近い厚さの素文字瓦が四大王寺から発見されている。また、ヘ ラで横線を描いたりしたものもある 。つぎの段階は法隆寺若草伽藍出土の ヘラで一つ―つ彫刻した杏葉唐草文字瓦がある。そしてつぎの奈良時代前期になってから 重弧文宇瓦や忍冬唐草文宇瓦がつくられ、宇瓦の盛行期になるのである。
 宇瓦は、四天王寺の素文のものや杏葉唐草文を丹念に彫刻するという技法から考えれば、これ以前来朝の造瓦技術者たちが故国において既存のものがあればそれを教示したはずであるのに、それがなされず、ことに百済よりの飛鳥寺造立時の瓦博士たちによって、まったく造られなかったことなどを考慮するなら、その出現が飛烏時代末にあり、わが国で発明されたものであろうと考えている。

字瓦文様の部分名称
 宇瓦文様の主流は、後世唐草瓦とも名称されたように、唐草文で、その配されている部分が内区、その外側の上下左右の縁が外区である。シンメトリカルな唐草文の中央には中心装飾があり、名づけて均斉唐草文と呼ぶ。また左右いずれかの一方より延ぴる唐草文の場合、これを扁行唐草文と呼んでいる。
 宇瓦の文様面各部名称については、図(272頁下)のように唐草文様のものについては鐙瓦のそれに従って内区外区に分けることが便利であるが、飛烏時代、奈良時代前期(一)のものには忍冬唐草文字瓦を除外して、この両区分類を必要としない。奈良時代前期曰になって出現する唐草文宇瓦から外区が設けられる。これは鐙瓦について述べたように初唐様式の文様変化で、鐙瓦における複弁蓮花文とともに長くわが古代屋瓦文様の主流の地位を占める。それらを鐙瓦同様前出第2表のように表記する。

p272
p272


以下第2表によって、さらに詳述する。

第2表 宇瓦文様各区の組合せにみる時代の特色 p274

飛鳥時代


 飛烏時代には索弁文である。しかし、弁形から百済様式の花弁はレリーフの盛りあがりが少ない博肉で、扁平な感じをもち、わが国造瓦の喘矢(こうし)といわれる飛烏寺(法輿寺)創建期につくられたものを代表とする。
 高句麗様式の花弁(B) は百済様式とはまった<趣を異にし、高肉で花弁はそれぞれ隣と間隔をもち、弁央に稜線をもち弁端と弁端の間に珠文一顆を配している。百済様式(A)のものとともに、索文とはいえまったく別種のもので、二様式の顕著な相違をみることができる。この様式の代表として飛島向原寺の鐙瓦が名高い。向原寺は飛鳥寺よりもふるい歴史をもっているため、百済様式の飛鳥寺式鐙瓦よりもはやく造られたとする説もある。
 両様式とも中房は一重蓮子であり、巾房径と内区径との関係は中房4乗が内区径であるのが一般である。周縁は幅せまく低い素文縁をめぐらしている。
 飛鳥時代の末期になってはじめて宇瓦の出現があり、それ以前にはみられなかった。もっとも女瓦列の軒先に配骰して女瓦数枚を重ねたものと同一の機能的効果をもった素文の宇瓦と称すべきものはぽつほつ造られ、ことに四天王寺に少しみられ、これには沈線を施して重弧文字瓦の祖形と考えられるようなものもある。

奈良時代前期(一)


 奈良時代前期と時代区別をしても、前代の百済、高句麗様式を踏襲するものの存することは述べるまでもない。
 しかし、両様式を踏襲しながらも花弁は中肉の写実に近いものがつくられるようになった。また、両様式の融合化もみられ、素弁文と忍冬文を組合わせた文様もつくられた。この時代になると、仏教文化の摂取はますます隆盛となり瓦文様においても、飛島時代の百済、高句麗の技術者たちによって造られたものではあきたらず.仏像に伴う蓮花座や光背などの多種多様の蓮花文様を瓦文様にとり入れたと考えられるほど、写実性に富んだ傾向を示して
いる。
 つまり、花弁に韮を配する単弁は、中房が大きなり(中房径X3=内区径)、周縁は幅広く高くなり、そこに重圏文を配する山田寺式を代表するものが造られた。
 花弁.のきわめてシャープな忘肉の複弁形態をもつ川原寺式のものが造られた。この式になると、山田寺式よりも中房はさらに大きくなり(中房径X2=内区径)、周縁は面違波文を配する。
 また、同じように複弁ではあるが、扁平な蕊が花弁上に配され、中房が高く突出し、弁端方向に低くなり、上向に置くと蓮花座を想わせるつくりの法隆寺式のものがある口これも中房と花弁の関係は川原寺と同様であり、周縁には隆線波文をめぐらしている。
 中房蓮子については、山田寺式のものは前時代同様一重蓮子であるが、川原寺、法隆寺式のものになると二重蓮子になる。
 上の諸式は百済様式ではあるが、むしろ大陸南朝から百済を経由して将来されたものと考えられそうであるため、とくに南朝・百済様式としておく。
 これらの字瓦については、山田寺、川原寺式には重弧文宇瓦、法隆寺式には忍冬唐草文宇瓦が七ットとなっている。

奈良時代前期(ニ)


 複弁型式は川原寺式の複弁型式の亜式と考えられるものである。韮が長くなり、花弁全体の彫刻は鋭さを欠き、外区には雷文や、重圏文(山田寺式)を配するものがあらわれる。中房径と内区径の関係は、1X2であり、二重蓮子である。
 細弁型式はJII原寺式から発生したとも考えられるが、明確にできない。この式の花弁は16分割で、8葉複弁が分離したものと考えられなくもない。花弁蕋(しべ)が長く弁端に達し、円を16分割しているため、きわめて狭長な花弁である。外区には面違波文や重圏文を配する。この式も中房径と内区径の関係は1x2であり、蓮子は一重と二重がある。
 この期の宇瓦には、重弧文宇瓦がセットとなる。

奈良時代前期(三)

 藤原宮造営を契機として瓦文様にもいちじるしい変化かみられる。
 川原寺式の高肉調にはほど遠い中肉の複弁文、ことに外区の発達に特色がみとめられ、内縁に珠文帯、周縁に凸波文を配する。
 前時代とは異なり、字瓦に唐草文様が登楊する。 これ、すなわち、新様式の流入でありそれは南朝・百済様式にはみられなかった、初唐の大様さを備えたものといえる。
 したがって、南朝・百済様式にみられた、強い写実からは一歩後退した。もっとも大官大寺式の弁端が鋭く反転した形式もあるが、時代の好みとは反するものであったかに感じられる。
 この期の花弁が写実から後退した顕著な点は、花弁間にある界線(花弁)が文様化し、くさび形を呈してくることである。この界線は、本来、上段に並ぶ花弁と花弁の間から下段の花弁端を写したものであるから、この界線の退化傾向は、蓮花文本来の意義から遠ざかっている。
この時期を代表するものに藤原宮式がある。八葉複弁の中肉調であり界線はくさぴ形になり、外区には内縁に珠文帯、周縁に凸波文をめぐらす。中房は二重蓮子で、中房径と内区径の関係は1X2となっている。この式には扁行唐草文がセットになる。この宇瓦は外区は天に珠文、地に隆線波文を配している。
 また、この期にはさきにも述べた、大官大寺式の八葉複弁文があり、弁端の反転に彫りの鋭さを見いだすし、界線も退化形式を感じない。蓮子は一重で、中房径と内区径は1X2。外区は内縁に珠文帯をめぐらし、周緑は素文である。またこれとセットになる宇瓦は藤原宮式の扁行唐草文とは異なる均斉唐草文である。文様構成は内区に上向の中心装飾を置いて、左右に唐草が展開する。外区天には菱形文(珠文の一種)を配し、地と左右には隆線波文を配している。
 この時期にあらわれた宇瓦の一種に葡萄唐草文宇瓦がある。内区には左右に開く均斉葡萄唐草文があり外区は地を略して天のみで、大型の隆線波文が配されている。これに対応する鐙瓦は、内区に五葉の花弁を配したもので、弁端は高肉になり、外区には字瓦にみられた大型の隆線波文がめぐらされている。中房は一重蓮子で、中房径と内区との関係は1X1.5で、この時期としては、少しく傾向を異にする数値である。
 また、若干退化型式の葡萄唐草文宇瓦と、高句麗様式の鬼面文鐙瓦によってセットを形作る慈光寺式の一組とともに、特異なもので、新羅様式の流入ではなかろうか。

奈良時代後期

 都が平城に移ってからは、新たにつくられる瓦文様が前代にくらぺて、退化の傾向を示すのである。鐙瓦文様は、八葉複弁型式が圧倒的に多くなり、それに対応する宇瓦もまた、均斉唐草文型式のものとなってきた。
 鐙瓦では興福寺式のものが、中房径X2=内区径で、中房は二重蓮子、外区には内縁に珠文帯、周縁に隆線波文をめぐらした前時代の踏襲で、この時期のもっとも代表的な鐙瓦といえる。
 これに対応する宇瓦は、外区の天から左右にかけて菱形文(珠文)、地には隆線波文を配し、内区の唐草文は下向きの中心装飾と、左右に形式化した唐箪文を配している。
 平城宮の造営は、大規模にしかも長年月にわたり、各種の瓦文様をつくった。これらの各種瓦は南都の諸寺とも併用されたものであった。この宮都と南都諸大寺の造営は、造瓦の繁忙な様を示し、あたかも新羅宮都とその地に造立をみた諸大寺が、所用瓦を相互に併用したのに類似していることも興味深いものがある。
 鐙瓦文様の主流は複弁蓮花文であり、中房径と内区との関係は1X2や1X2.5などであり、蓮子が一重になってきている。これらに対応する宇瓦は均斉唐草文で、外区には珠文をめぐらしている。
 また、細弁蓮花文もある。さらには、中央に珠文を擁し、その外側に圏文( 三重)をめぐらした特異な鐙瓦がつくられた。これに対応する宇瓦の文様は、字瓦文様面を二重に陸線をめぐらしたもので、重廓文と名称すべきものである。
 いずれにしても、天平文化と称されたこの時期の瓦文様は、わが国古瓦文様史上における退化の第一歩を示すものと考えられるのである。
 都が平安に遷ってからも、宮城造営をはじめ多くの寺院建立にあたって、多種多量の造瓦がなされた。
 しかし、この時代になると奈良時代後期にみられた瓦文様の踏襲ではあるが、退化は一席はげしいものがあった。鐙瓦文様の主流は単弁、複弁の蓮花文であった。もっとも単弁とはいえ、奈良前期にみられたものとは異なり、むしろ複弁蓮花文の変化型式のものである。
 宇瓦も奈良時代後期の踏襲で、唐草文の退化のはげしいものである。
 以上によって飛鳥時代から奈良時代後期にわたる鐙・宇瓦文様について略述したのである。そこでΧという鐙瓦が発見された場合、内区の花弁と外灰が265頁の図のいずれに属するかを検討し、さらに細弁・複弁の楊合には高肉・中肉・蒋肉をしらべ、界線が写実的かどうか、
さらに宇瓦についても、さきの分類による文様型式に属するか否か、両者を勘案することによって時代判別の目安となる。

時代推定のための諸条件

様式的流れを認められない楊合
 数種の瓦文様が発見される遺跡において、それらの瓦文様に様式的な流れを認め得られないものがしばしばある。かかる協合には出土数量の多寡、出土地域の傾向と同時に層位的関係によって、新旧を知ることができる。ことに、平安時代の瓦文様については、興福寺食堂跡における坪井清足氏の研究(「典福寺食党発掘調査報告」奈良国立文化財研究所学報第七冊)を参照することによって、文様型式の推移の一端を把据することができる。
 瓦文様I形式からⅡ形式がつくられるにはその背景にさまざまな理由の存在したことが考えられる。そのことはしばらくおくとして、地方における文様の変化がどのようになされたものかについて、二、三例示してみよう。 


 その―つの例として北九州の福岡県田川市の天台寺跡出土の新羅様式古瓦について述ぺよう。
 この寺跡からは二型式の瓦が出土している。そのうち字瓦についてみよう。I型式は奈良前期に属するもので、わが国における新羅様式の典型である。II型式はI型式の周絃を跨襲し珠文帯の存在もよろしいのであるが、II型式の内区の文様はI型式の正規な唐草文を理解し得ず、Iの唐草文様に似せて、らしき文様を彫刻したものである。これは、文様の認識がまったく存在しないもので、この種の認識不足に起因する第II、第IIl型式が生まれ、第I型式とはおそろしく遠ざかったものが存在することとなるのである。

p284
p284

 つぎに関東におけるものとして下野薬師寺の奈良時代後期の均斉唐草文字瓦を雛型として范(型)をつくり、それによって造瓦した那須郡衙所用の宇瓦がある。この薬師寺宇瓦は、平城宮式に類似し、珠文を欠く重廊文縁をめぐらし、内区に均斉唐草文を配するが、左右端の唐草は均斉ではない。この左右端の均衡を欠いた唐草文宇瓦そのものを雛型として製范したため、薬師薬寺宇瓦の楊合とは左右が逆に配されるという結果となった。このような文様の変遷は、畿内のごとき多種多量の造瓦がなされた地域はもちろん、地方においても長く法燈の存続した寺院や、比較的早く廃寺となったにもかかわらず多型式の瓦文様が発見されている寺跡もある。したがって、軒先瓦の鐙・宇瓦文様の様式や型式分類は研究上不可欠のものだが、単純に、Ⅰ型式とⅡ型式の時間差を何年、何十年と決めることは、きわめて危険なことで、各遺跡によって、瓦文様のみならず、男瓦・女瓦との造瓦技法や遣構の面から総合して、そこにはじめて、型式間の時間差を推定することができる。飛鳥・奈良時代になると、地域差、時間差をあまり深く考えすぎる結果、大きな数字で推定することはかえって誤りの因となることがある。

p285 下野薬師寺跡  宇瓦 奈良時代後期
p285 那須官衙 宇瓦  奈良時代後期

付 琉球の古瓦


 南海の琉球(沖縄)での瓦の歴史は、この島の歴史を語るうえに諏要な役割りをもっているにもかかわらず、過去にはあまり研究が進められなかった。私は幸いにも1960年、琉球石袖KK稲嶺一郎社長並ぴに琉球政府のご厚意によって現地調査を実施することができた。限られた期間内での調査であったから十分な成果を得ることはできなかったけれども、ある程度の結論めいたものをまとめることができた。
 1273年(英祖王の治世)、高麗(こうらい・朝鮮) の瓦工が来島して浦添城所用の瓦をつくったことがこの島での最初の造瓦である。その後、高麗(こうらい)の瓦工から造瓦技術を伝授した島人によって若干の造瓦がおこなわれた。これらの瓦は、浦添城・首里城の屋根にのせられたものである。
 そのうち、14世紀後半頃、大和(日本)の造瓦技術が伝えられ、勝連城・首里崎山御嶽(しゅりじょうさきやまおたき)の屋根にもちいられた。しかし、台風銀座の異名をもつこの島では、いくら屋根葺き材として雨水を防ぐ好適のかわらでも、ながく屋根にのっていることを期待しても無理なことで、いつしか、かわらの使用はやめられ、建物の屋根は古来の草葺きまたは板葺きにもどってしまったのである。
 16世紀中頃、中国の製掏技術者が来島し、那覇郊外国場村の真玉橋(まだんばし)の近くに窯を構築して製陶・製瓦をおこなった。この人は琉球王国に帰化し、名を渡嘉敷三郎といい、上地の女子と結婚してながく製陶を生業としたと伝えられている。彼の子孫といわれている人は、この橋の近くにいまも住んでいる。渡嘉敷三郎の造瓦はこの島での造瓦技術の導入の歴史からみると、第一期の高麗(こうらい)系、第二期の大和系についで、第三期の中国系(明)に相当するものである。ちょうどこの頃、漆喰(しっくい)をつかって屋根のかわらをまき、台風でかわらの飛ぶのを防ぐことが考案されたため、ふたたび屋根を瓦葺きにすることが流行しはじめた。もっとも、一般農家では相変らず草葺きの屋根であり、少し上流人の民家の場合板葺きといった具合で、瓦葺きは宮殿•仏殿などのごく限られた建物におこなわれ、その後、一般民家にも用いられるようになった。
            琉 球 三 系 瓦 年 表

p288

九菜素弁蓮花文鐙瓦 径15.5cm
均斉蓮花文字瓦(滴水瓦)高11cm
沖縄・浦添城跡
高麗系13世紀末

289
p289

 鎧瓦はネズミ色で硬く焼きあがっている。宇瓦も同様に焼きの良好なものである。文様面は板状になっていて日本のものにくらベてはるかに大きい。中心花は鐙瓦と同類で、左右に2本ずつ細い茎が出て、その先に半閤きの花とつほみが描かれている。
 この両者はセットになり、宇瓦の女瓦部分には「高麗瓦匠」銘の叩具文字がみられる。


(上)八葉複弁蓮花文鐙瓦  径16cm
(下)均斉座花文字瓦(滴水氏) 厚(中央) 12cm
類 高麗系13世紀末
沖縄・浦添城跡

290
p290

 鐙瓦はネズミ色で焼きは良好である。花弁はY字型になっている。周囲には連鎖珠文(れんさしゅもん)がある。
 字瓦は、若干白味をもったネズミ色で焼きは良好である。文様は一本のつるから左右にわかれ、その先に八弁の花が開いた左右均斉のものである。この両者はセットとして製作されなかったであろうが、軒先では他の宇瓦とともに混用されたものと考えられる。時代もほぼ同じものであろう。


上女瓦叩具文字沖縄・浦添城跡
銘曰「癸酉年高脱瓦匠造」
癸酉の年は1273年英祖王の治世である。このときはじめて琉球でかわらがつくられた。
巴文鐙瓦 径10cm
均斉店印文字瓦 厚5cm
沖縄・崎山御嶽

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 大和系の一組で、14世紀ころの製作であろう。日本の瓦工が渡島したものかまたは島の人が日本へきて造瓦技術を修得し、帰島後製作した、というのとさらに瓦を日本から購入したものとする説などがあるが、私は、この島での製作と考えている。


女瓦叩具文字「大天」 沖縄•浦添城跡 

p292

 この瓦は「……高麗瓦匠造」叩具文女瓦(高麗瓦という)よりも少し新しい瓦で、琉球瓦匠の手になったものであろう。
 高麗瓦といわれるものは、高麗人のつくった瓦にちがいないが、琉球人にとっては、どうもあの瓦に記されている文字は気になってしかたがない。ひらたくいえば.民族的なプライドとでもいおうか、そんなものが心をゆさぷっていた。そこで、こんどは琉球人(琉球瓦匠)の手によって瓦がつくられることになった。技術は高麗瓦匠から教えられた。彼等は、なにかすばらしい意味の文字を記したいと考えた。この瓦は城につかうためにつくった。当時の人々は、自分達のつくり得る最大のものといったら城をのぞいてほかになかった。人間のつくり得る最も大なるものという意味で「大」をえらんだ。「天」はかぎりなく高く、神秘的なもので、最高をも意味し、ときには王者をもあらわす。
 「大天」は、王者の威信と王者の居城の比類なき広大さをたたえたものといえよう。
 それは琉球人の誇りでもあった。


(上)中国系男瓦  
 乾陸3年(1738)の銘がある。赤褐色で現在の島瓦と色調も製作技法もかわらない。この島で赤褐色の中国系瓦がつくられるようになったのは、16世紀中葉ころからであろう。
 壺屋の民家の屋根に使われていたものを、手伝いの新垣栄三郎氏が発見、私に報告されたもので、いま首里の博物館に所蔵されている。

(下) 中国系軒先瓦  首里城跡
左ー宇瓦(滴水瓦) 高12cm
右ー鐙瓦 径16cm 
これも赤い瓦である。島の植物から考えだした文様かどうか、わからない。この瓦で葺いた軒先は美しい。

p293

守礼門(旧首星城の門)
「守礼之邦」の扁額をかかげるこの門は戦災を受けたが、戦後復元した。本瓦葺で鐙・中瓦(滴水瓦)が軒先を飾り漆喰でたっぶりまいてある。 台風シーズンになると「守礼之邦」の扁額ははずされてしまい、シーズンオフになると再び門にかかげられる。

p294 

「守礼之邦」の扁額 p294



あとがき



 わが国の古瓦については、故関野貞博士の「瓦』、石田茂作博士の「古瓦図鑑』がある。いずれも膨大な資料が収録された研究者向の名著で、いまは容易に入手できない。本由は古瓦の図録を目的として編んだものではない。今日の贅科を網羅した図録はいずれ別に計画しなけれぱならないだろう。従来の古瓦研究は文様中心の研究ともいえた。したがって、瓦窯の諸問題をはじめ造瓦技法などについては欠けるところが少なくなかった。
 本書はその辺に関心をもって焦点をあわせたつもりである。各時代の古瓦文様や古瓦各種の紹介は一篇を設けて図説した。また南島の同朋を想いつつ琉球の古瓦を巻末にのせることができたのはよろこびの―つである。
 本書は日ごろ御指導をいただいている井上謙吉氏のおすすめと杉田茂氏の御高配を得て出版のはこぴとなった。また、石田茂作、伊東信雄両博士、滝口宏教授、木内武男、坪井清足、稲垣晋也の諸先生方からは、本書についてとくに御高配を賜わり、古瓦愛蔵家の諸氏、研究機関からは資料の使用について御快諾をいただいた。記して厚く謝意を表する。
 出版にあたっては社会思想社の八坂安守氏の御配慮と河村忠雄氏の御鞭撻によるところ大なるものがあった。記して謝意を表する。
  昭和41年7月          大川 清
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『古代のかわら』あとがき


 本書の初版を上梓してから、すでに30年の歳月が経つと新しい資料が発見され、立体的深味が加えられるようにもなりました。
 ことに藤島亥治郎博士からは半世紀以上むかしの韓国における造瓦工程の写真のご貸与を頂いたことは無上の光栄として深く感謝申し上げます。また畏友石山勲君の中国浙江省余桃市付近での現代中国の伝統的造瓦工程の写真を掲載することができたことは、琉球瓦の祖国といわれる中国の明時代風の造瓦についての関連を理解する上できわめて意義のあるものとして謝意を表します。
 さらに今回の『古代のかわら』の出版にあたっては窯業史博物館の学芸貝諸君並ぴに篠原祐一、浩恵両君の御協力を頂いたことを記し謝意を表します。
     平成8年夏至         桃 林


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