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古代史の謎を解く女影遺跡:金泥古瓦と五芒星土器の発見


1 「五芒星墨書・刻書土器」の出土遺跡

(1)群馬県「上野国分僧寺・尼寺中間地点遺跡」刻書土器

【八世紀前半】
「群馬県・上野国分寺・尼寺中間地域」8. 1992年より

(財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団)

群馬県・上野国分寺・尼寺中間地域出土の記号刻書土器
(8世紀前半)

(2)群馬県前橋市「元総社蒼海遺跡群」

【奈良~平安時代】
 市文化財保護課では、市内各地で遺跡の発掘調査を行っています。
今回は「元総社蒼海遺跡群」の調査から、最新の情報をご紹介します。

(3)群馬県・新田郡新田町市野井出土墨書土器

【八世紀後半】

墨書き土器 (8世紀後半),
群馬県新田町市野井出土

(4)千葉県・柏市花前遺跡

【九世紀前半】

墨書き土器 (9世紀前半)  
千葉県花前Ⅰ遺跡出土  
千葉県花前Ⅱ遺跡出土  (9世紀前半) 

(5)秋田県引田柵・厨川谷地遺跡

(6)長岡京出土

【八世紀末】
京都府日向市長岡京左京一条二坊十一町遺跡

墨書き土器 (8世紀前半) 
長岡京跡出土
 

(7)埼玉県日高市・女影遺跡

埼玉県日高市文化財ニュース【令和6年2月8日掲載】
・大量に出土した土器の中には、墨で五芒星(ごぼうせい)が書かれた土器がありました。
・全国的に見ても五芒星を墨書した土器の類例は少なく、11点もまとまって見つかる事例は非常に珍しいと言えます。(日高市ホームページ引用)

  • 五芒星墨(漆)書き土器(合計11点)

22-27
28.  29.  30.  45.  57.
  • 漆塊+セルロース繊維

漆塊+セルロース繊維


2 女影遺跡の金泥軒丸瓦の発見

  • 女影遺跡 軒丸瓦 佐島助造氏提供

昭和五十四年(一九七九)九月二日 出土の女影廃寺軒丸瓦拓本

旧高萩公民館に展示されていた「女影廃寺跡出土瓦」
公民館新築に伴い市に寄贈したが、現在は所在不明。高麗神社一辺倒の谷ケ崎市政で高萩地区の郷土の歴史は黙殺されてきました。そのために、遺跡の破壊と資料の散逸が著しいのです。歴史と伝統を軽視する者には明日はないと言いたい今日この頃です。
下記の記事は当時の方々の女影廃寺に対する思いが伝わってくる貴重な内容です。日高市図書館で閲覧できるでしょう。注目記事です。


【日高市女影一五六番地 佐島助造氏宅出土】

【全国的に注目される女影地区】新たな出土品が次々見つかっている。

  • 女影遺跡 金泥軒丸古瓦



女影廃寺金泥古瓦
  • 東大寺敷瓦

東大寺敷瓦

・ 金泥軒丸古瓦金付着土器の分布

金の付着した土器を出土した遺跡分布図
(田中広明氏1997年報告書に⒓女影遺跡金泥古瓦を追加)
✯印は五芒星土器

I. 元総社蒼海遺跡群  2.上野国分寺中間地域  3. 綿貫遺跡  4. 中堀遺跡  5. 信濃国府推定地 6.御所遺跡  7. 武蔵国府跡  8.上総国分寺周辺遺跡 9.多買城跡  10.山王遺跡 11.後田遺跡 12.女影遺跡

陸奥の城柵官衙マップ

3 「⛤」・「⋕」の記号について



4 《⛤》シンボルと吉備真備

イントロダクション

・吉備真備と《⛤》五芒星印
 
下記は『続日本紀』天平宝字4年(760) 11月10日の引用である。
『就大弐吉備朝臣真備。令習諸葛亮八陳。孫子九地及結営向背。』
(大宰府に於て、吉備真備をして諸葛亮八陣・孫子九地及結営向背を習わしむ)
《⛤》の星印は、吉備真備が招来した李筌『太白陰経』(老子の思想に基づく陰陽道)の太極陰陽道のシンボルである。そして、「五芒星文字《⛤》」は同時代の華厳密教とともに定着していったのである。11枚もの墨書き土器の出土は、全国的にも珍しい考古学上の大発見であろう。また、従来から見つかっている《大》印は、五芒星文字《⛤》が起源の簡略印であることの証左でもある。 女影での《⛤》印の出土の成果により、北九州福岡の怡土城ー武蔵国女影廃寺-秋田柵へと日本列島全体に古代仏教と密教が伝搬したことになる。それは、吉備真備の奈良時代である。安倍晴明ではない。

・吉備真備の筑紫怡土城造営
 ゴールドラッシュの衝撃と伴に世界の政治経済システムも大きな転換点を迎えることになる。越中『万葉集』後、敬福・家持・真備たち官僚のアリバイを探ってみよう。畿内から遠い九州・西国、北は陸奥へとひろがっている。その目まぐるしい活躍の概要を下表にまとめた。まるで、寄せては返す波(津波)のように、内外ともに激変の時代、それに懸命に対応していくひとびと、顕彰せずにはいられないし、それがまた、今日的問題の解決策の宝庫でもあるのだから、・吉備真備の将来した李筌注釈「孫子の兵法」「諸葛亮八陳」について諸葛亮孔明の兵法は、主に『六韜・三略』であることは有名である。特に六韜の虎の巻を多用した。『六韜三略』の虎韜の巻に『破軍星「高祖山」城』に直結する記述がある。

「武王問太公曰、凡用兵爲天陳、地陳、人陳奈何。」
(武王が、「一般的に用兵において、天陣、地陣、人陣とはどうするのかね?と太公望に聞いた。」)
「太公曰、日月星辰斗柄、一左一右、一向一背。此謂天陳。丘陵水泉、亦有前後左右之利。此謂地陳。用車用馬、用文用武。此謂人陳。」
(太公曰いわく、日月星辰斗柄、一は左に一は右に、一は向一は背にす。此を天陣と謂う。丘陵水泉、亦、前後左右の利有り。此を地陣と謂う。車を用い馬を用い、文を用い武を用う。此を人陣と謂う。)

(1)『万葉集』「黄金の国ジパング」賛歌

 つまり、暦と星座、特に「北斗七星の柄」の位置が重要だと太公望は答えている。ここは吉備真備の独壇場、北斗七星をひっくり返した「破軍星」の位置に陣取れば負けることはないと、北の博多湾を睨み、南の高祖山山稜と山麓を結ぶ「破軍星」望楼の城郭を築城した。望楼と祭壇、合わせて7ヵ所存在しなければならないが、七番目は「北斗七星」の形から高祖神社周辺と推定した。この七星で高低差を考慮して遠望すれば北斗七星を逆さに配した光景が目に浮かぶ。これこそ、戊辰戦争において庄内藩二番大隊が掲げた軍旗、「破軍星旗」ではないか。吉備真備の「不敗の地に立つ」という必死さと意図がハッキリとわかる。さらに、唐に渡った天台座主円仁の残した『入唐求法巡礼行記』には、仏教国の唐代で、武闘の神「妙見天」とも呼ばれて大いに崇敬され、その信仰が盛んであったことをに記している。吉備真備の怡土城築城の時には、既に北辰妙地蔵菩薩信仰が現実のものになっていったことが伺える。大陸の覇権主義に対峙するためにも、シンボリックな破軍星と北辰星座は「必要なアイテム」になっていたのである。

(2)超巨大地震と城柵官衙の時代(上)

5 資料:城柵官衙時代の『続日本紀』の記録

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