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『万葉集』「黄金の国ジパング」賛歌

珠洲の海に

大伴家持(巻17・4029)珠洲の海に 朝開きして 漕ぎくれば 長浜の浦に 月照りにけり

はじめに   消えたモンスターゴールド

 産総研 地質標本館に「モンスターゴールド」と呼ばれている自然金の金塊が展示されている。1980年に発見者の御子息が寄贈したものである。しかし、明治37年(1904)、徳永重康氏が宮城県気仙沼市の鹿折金山で発見したものである。しかし、この「金塊」は徳永氏が発見し手許に所有していたもので、「巨大金塊」の六分一でしかないのだ(写真上)。残り六分の五の足取りを辿ると、1980年の米セントルイス万博に出品された後、行方不明となる。よくある世にも不思議な話。ちなみに、このモンスターゴールドは銅メダルを獲得。メダルと賞状は気仙沼市の市長室に保管されている(写真下)

産総研 地質標本館の「モンスターゴールド」


気仙沼市市長室のメダルと賞状

 日本の産金事業は聖武天皇の奈良の大仏建立の時代(701~756年)となる。天平勝宝二十年(749)陸奥守百済王敬福が砂金を献上したのが始まりである。この時、陸奥から持ち込まれた大量の金で大仏が完成する。黄金で世界を照らす巨大な毘盧遮那仏と共に人々を魅了したのは、黄金の国「陸奥」である。一攫千金を夢見て奥州へと人々の足が向く、まさに、一種のゴールドラッシュが起こった。有名な「金売吉次」伝説のように陸奥は産金地であった。吉次ゆかりの一つ黄金山神社近くの一帯は国史跡に指定されている。陸奥の産金は国家財政の危機を救い、華厳経と法華経による平和共存共栄国家建設の理想を希求する聖武天皇の「知識運動」を後押ししたことは間違いない。この辺のことは、『続日本紀』巻廿七天平神護二年(766)六月壬子廿八日百済王敬福薨(こう)の記事、『萬葉集』巻十八の4094~4097を中心にからうかがえる
・大伴家持 4097「天皇の御世栄えんと東なる みちのく山に黄金花咲く」
 天平感宝元年の五月の十二日に、越中の国の守が館にして大友宿禰家持作る。

1 女影廃寺軒丸瓦 

(1)女影廃寺金泥古瓦の発見




(2)昭和54年(1979)9月2日出土の女影廃寺軒丸瓦拓本

  

(2)佐島助造邸出土古瓦拓本+金泥古瓦合成

佐島助造宅出土古瓦拓本と金泥古瓦の合成
同范であることがわかる

(3)女影廃寺古瓦・女影公民館展示時

(4)女影廃寺古瓦の供給先

(5)女影廃寺金泥古瓦と同時代の古瓦

東大寺敷瓦

 聖武天皇の天平宝字元年(757)二月八日には、造東大寺司次官に任ぜられている。天平宝字二年(758年)の武蔵守再任では、武蔵国内に新羅郡を設置している。この時期、東宮武官の福信は東大寺造営責任者として産金事業と関係者に深く関わることになる。武蔵国分寺や女影廃寺の造営にも指導的な役割を果たしたであろう。東大寺敷瓦の意匠デザインはこの証左である。

・陸奥黄金山涌谷六角堂出土古瓦

陸奥天平銘瓦
陸奥黄金山涌谷六角堂跡出土
古瓦
陸奥黄金山涌谷六角堂跡出土

2 黄金の国「ジパング」ことはじめ

(1)  『続日本紀』の産金記録、天平21年(749)の主な記述

1月23日 和暦元日。元正太上天皇の喪中のため、朝賀の儀式などは行われず。
1月26日  凶作にかんがみて、文武官人および家司に毎月米六斗を給与することとする
2月1日  上総国が飢饉のため、物を恵み助けた
2月5日  下総国に旱害と蝗による飢饉のため、物を恵み助けた。
2月11日  石見国に疫病がはや􁻵たため、物を恵み助けた。
・2月22日 『続日本紀』の産金記述は、天平21年(749)2月23日
・3月20日 郡の役人について、現地の一族間での争いが多いことに鑑み、専任は原則嫡流を優先とし、該当者に問題がある場合に限り、令に従って立て替える
・4月22日 天下に大赦を行った
・3月23日  日食があった
・5月4日 改元。天平21年を改め天平感宝元年とした。
・6月29日 天下に大赦を行った。
・8月19日 皇位継承。聖武天皇が譲位し、皇太子阿部内親王が即位した(孝謙天皇)。
改元。天平感宝元年を改め天平勝宝元年とした。
10月23日  紫微中台の官制を定めた。

写真左:辰沙               写真右:砂金
唐招提寺毘盧遮那仏(華厳経) 唐招提寺金堂の中尊
は鑑真が中国からもたらした唐様式の毘盧舎那仏

(2)天平感寶元年(749)聖武天皇の詔書

 聖武天皇の造東大寺造仏の発願詔書は、それ以前の造大仏とは異なる思想哲学で進められている。すなわち「知識」運動である。以下は『続日本紀』の記録。

天平感宝元年(749)閏五月二十日聖武天皇施入勅願文】

【原文】
詔曰。冬十月辛巳
朕以薄徳、恭承大位。志存兼済。勤撫人物。雖率土之浜、已霑仁恕。而普天之下、未浴法恩。誠欲頼三宝之威霊、乾坤相泰。修万代之業、動植咸栄。
粤以天平十五年歳次癸未十月十五日。発菩薩大願、奉造盧舍那仏金銅像一躯。尽国銅而鎔象。削大山以構堂。広及法界、為朕知識。遂使同蒙利益共致菩提。夫有天下之富者朕也。
有天下之勢者朕也。此富勢造此尊像。事也易成、心也難至。但恐徒有労人、無能感聖。或生誹謗、反墮罪辜是故、
預知識者。懇発至誠。各招介福。宜毎日三拝盧舍那仏。自当存念各造盧舍那仏也。如更有人、情願持一枝草一把土助造像者。恣聴之。国郡等司、莫因此事、侵擾百姓強令収斂。布告遐邇、知朕意矣。

【意訳】天平十五年 冬十月十五日
『朕は徳の薄い身でありながら、かたじけなくも天皇の位を受け継ぎ、その志は広く人民を救うことにあると、努めて人々を慈しんできた。思いやりと情け深い恩恵は、朕が天皇として国土の果てまで受けるよう計れるが、いまこの国を見るに、み仏の法恩においては、天下のもの一切が浴しているとは思われない。朕は真実、仏法僧(三宝)の威光と霊力に頼って、天地ともに安泰となり、万代までの幸せを願う事業を行って、草、木、動物、生きとし生けるもの悉く栄えんことを望むものである。
そこで、この天平十五年癸未の十月十五日を以て、菩薩に大願して、盧舎那仏(華厳経)の金銅像一体をお造りしようと思い立った。国中の銅を尽くして像を鋳造し、大きな山を削って仏堂を建築し、仏法をあまねく宇宙にひろめる。この為に智識運動を起こすこととしたい。この事業が成就したならば、朕も衆生も、皆同じように仏の功徳を蒙り、ともに仏道の悟りの境地へと至ることができよう。
天下の富を有する者は朕なり。天下の権力者は朕なり。やることは容易だが、心がこもったことにはならない。また徒に民に労苦を強いてはこの事業の神聖な意義は失われよう。あるいはこの事業そのものが憎しみを産み罪を作り出すことがあってはならない。
「知識」運動が必要で、そこへ参加する者は熱心に誠心誠意、大きな幸いを招くよう廬舎那仏を敬い、自発的に参加し造立に従事するように。もし更に、一枝の草や一握りの土であっても捧げて、造立の助けたらんことを願う者があれば、その望み通りに受け入れよう。国司や郡司は造立の名の元に公民の暮らしに立ち入ったり、強いて物を供出させてはならない。遠近を問わず国中にこの詔を布告して、朕が意を知らしめよ。』

(3)『続日本紀』の「産金開始」関連記録の抜粋。

『続日本紀』巻十五天平十五年(743)十月辛巳丁夘朔十五
・・・粤以天平十五年歳次癸未十月十五日。
發菩薩大願奉造盧舍那佛金銅像一躯。盡國銅而鎔象。削大山以構堂。廣及法界爲朕知識。遂使同蒙利益共致菩提。・・・

『続日本紀』巻十七天平勝宝元年(749)二月丁巳廿二
天平廿一年二月丁巳。陸奧國始貢黄金。於是。奉幣以告畿内七道諸社。

『続日本紀』巻十七天平勝宝元年(749)四月甲午朔
・・・此大倭國者天地開闢以來尓黄金波人國用理獻言波有登毛。斯地者無物止念部流仁。聞看食國中能東方陸奧國守從五位上百濟王敬福伊部内少田郡仁黄金出在奏弖獻・・・


『続日本紀』巻十七天平勝宝元年(749)四月乙夘廿二
陸奧守從三位百濟王敬福貢黄金九百兩。


『続日本紀』巻十七天平勝宝元年(749)五月甲辰十一
・・・
獲金人上総國人丈部大麻呂並從五位下。
左京人无位朱牟須賣外從五位下。
私度沙弥小田郡人丸子連宮麻呂授法名應寳入師位。
冶金人左京人戸淨山大初位上。
出金山神主小田郡日下部深淵外少初位下。


『続日本紀』巻十八天平勝宝二年(750)三月戊戌己丑朔十三月戊戌。
駿河守從五位下楢原造東人等。於部内廬原郡多胡浦濱。獲黄金獻之。練金一分。沙金一分。於是。東人等賜勤臣姓。」又賜中衛員外少將從五位下田邊史難波等上毛野君姓。
『続日本紀』巻十八天平勝宝二年(750)十二月癸亥乙夘朔九。
授駿河國守從五位下勤臣東人從五位上。獲金人无位三使連淨足從六位下。賜■■疋。綿■屯。正税二千束。」出金郡免今年田租。郡司主帳已上進位有差。」・・・
『続日本紀』巻十八天平勝宝四年(752)二月丙寅己酉朔十八
陸奧國調庸者。多賀以北諸郡令輸黄金。其法。正丁四人一兩。以南諸郡依舊輸布。
『続日本紀』巻十八天平勝宝四年(752)二月己巳廿一己巳。
京畿諸國鐵工。銅工。金作。甲作。弓削。矢作。桙削。鞍作。鞆張等之雜戸。依天平十六年二月十三日詔旨。雖蒙改姓。不免本業。仍下本貫。尋検天平十六年以前籍帳。毎色差發。依舊役使。
『続日本紀』巻廿一天平宝字二年(758)八月戊申九
勅曰。子尊其考。礼家所稱。策書鴻名。古人所貴。昔者。先帝敬發洪誓。奉造盧舍那金銅大像。若有朕時不得造了。願於來世。改身猶作。既而鎔銅已成。塗金不足。天感至心之信終出勝寳之金。我國家於是初有奇珍。開闢已來。未聞若斯盛徳者也。
『続日本紀』巻廿二天平宝字四年(760)三月丁丑十六丁丑。
勅。錢之爲用。行之已久。公私要便莫甚於斯。頃者。私鑄稍多。僞濫既半。頓將禁斷。恐有騷擾。宜造新樣與舊並行。庶使無損於民有益於國。其新錢文曰萬年通寳。以一當舊錢之十。銀錢文曰大平元寳。以一當新錢之十。金錢文曰開基勝寳。以一當銀錢之十。
『続日本紀』巻廿四天平宝字六年(762)二月甲戌廿五甲戌。
賜大師藤原惠美朝臣押勝近江國淺井高嶋二郡鐵穴各一處。
『続日本紀』巻廿四天平宝字六年(762)六月庚午廿三庚午。
尚藏兼尚侍正三位藤原朝臣宇比良古薨。贈太政大臣房前之女也。賻■百疋。布百端。鐵百廷。

(4)百済王敬福薨(こう)の記事

・・・時聖武皇帝造盧舍那銅像。冶鑄云畢。塗金不足。而陸奥國馳驛。貢小田郡所出黄金九百兩。我國家黄金從此始出焉。・・・

『続日本紀』巻廿七天平神護二年(766)七月己夘廿六己夘。
近江國志賀團大毅少初位上建部公伊賀麻呂賜姓朝臣。」散位從七位上昆解宮成得似白鑞者以獻。言曰。是丹波國天田郡華浪山所出也。和鑄諸器。不弱唐錫。因呈以眞白鑞所鑄之鏡。其後。授以外從五位下。復興役採之。單功數百。得十餘斤。或曰。是似鉛非鉛。未知所名。時召諸鑄工。与宮成雜而練之。宮成途窮无所施姦。然以其似白鑞。固爭不肯伏。
寳龜八年。入唐准判官羽栗臣翼齎之以示楊州鑄工。僉曰。是鈍隱也。此間私鑄濫錢者。時或用之。

『続日本紀』巻廿九神護景雲二年(768)二月癸夘廿八
癸夘。
筑前國怡土城成。」讃岐國寒川郡人外正八位下韓鐵師毘登毛人。韓鐵師部牛養等一百廿七人。賜姓坂本臣。
『続日本紀』巻卅三宝亀五年(774)十月己巳丁夘朔三冬十月己巳。
散位從四位下國中連公麻呂卒。本是百濟國人也。其祖父徳率國骨富。近江朝庭歳次癸亥属本蕃喪亂歸化。天平年中。聖武皇帝發弘願。造盧舍那銅像。其長五丈。當時鑄工無敢加手者。公麻呂頗有巧思。竟成其功。以勞遂授四位。官至造東大寺次官兼但馬員外介。寳字二年。以居大和國葛下郡國中村。因地命氏焉。『続日本紀』巻卅四宝亀七年(776)四月壬申十五・・・汝奉使絶域。久經年序。忠誠遠著。消息有聞。故今因聘使。便命迎之。仍賜■一百匹。細布一百端。砂金大一百兩。宜能努力。共使歸朝。相見非■。指不多及。
『続日本紀』巻卅四宝亀八年(777)五月癸酉廿三・・・
又縁都蒙請。加附黄金小一百兩。水銀大一百兩。金漆一缶。漆一缶。海石榴油一缶。水精念珠四貫。檳榔扇十枝。・・・

3 『万葉集』の「黄金の国ジパング」賛歌

(1)大伴家持の産金賛歌

天平感寶元年(749)、家持が産金の詔書を知り歓喜して詠んだ歌は、『万葉集』巻18【4094】で、反歌三首【4095~4097】も共に詠んでいる。

【万葉集第18巻4094】「賀陸奥國出金詔書歌」
陸奥の国に金(こがね)を出(い)だす詔書を賀(ほ)く歌一首并(あわ)せて短歌

「あしはらの みづほのくにを あまくだり しらしめしける すめろきの かみのみことの みよかさね あまのひつぎと しらしくる きみのみよみよ しきませる よものくにには やまかはを ひろみあつみと たてまつる みつきたからは かぞへえず つくしもかねつ。しかれども わがおほきみの もろひとを いざなひたまひ よきことを はじめたまひて くがねかも たしけくあらむと おもほして。 したなやますに とりがなく 、
あづまのくにの みちのくの をだなるやまに くがねありと まうしたまへれ。 みこころを あきらめたまひ あめつちの かみあひうづなひ すめろきの みたまたすけて とほきよに かかりしことを わがみよに あらはしてあれば をすくには さかえむものと かむながら おもほしめして もののふの やそとものをを まつろへの むけのまにまに おいひとも をみなわらはも しがねがふ こころだらひに なでたまひ をさめたまへば ここをしも あやにたふとみ うれしけく いよよおもひて。
おほともの とほつかむおやの そのなをば おほくめぬしと おひもちて つかへしつかさ うみゆかば みづくかばね やまゆかば くさむすかばね おほきみの へにこそしなめ かへりみは せじとことだて ますらをの きよきそのなを いにしへよ いまのをつづに ながさへる おやのこどもぞ
おほともと さへきのうぢは ひとのおやの たつることだて ひとのこは おやのなたたず おほきみに まつろふものと いひつげる ことのつかさぞ あづさゆみ てにとりもちて つるぎたち こしにとりはき あさまもり ゆふのまもりに おほきみの みかどのまもり われをおきて ひとはあらじと いやたて おもひしまさる おほきみの みことのさきの(を)きけばたふとみ (たふとくしあれば)」

【通釈】葦原の瑞穂の国の治天下の皇祖神。幾代も代を重ね、次々と代を日継ぎなされた。どの御代も治められている四方の国々には山や川があり、国土は広く豊かなので献上申し上げる御宝は数えきれず、尽くしきれない。
けれども、わが大君は多くの人々を導かれ、立派な事業をお始めになったところ、黄金も確かにあるだろうとお思いになった。このことがずっと心におありになったところ、東の国は陸奥の小田なる山(宮城県遠田郡涌谷町)に黄金ありという報告をお受け(①)になった。それが明らかになって、貴重なものと神々ともども喜び合われた。皇祖神の御霊の助けにより、遠い御代からの懸案だったことがこの御代に現実化した。(②)これで、わが国土はますます栄えていくと神の御心でお思いになった。官人たちを心から平服なさって意のままに動かされ、老人も女子供も願う心を平安になさり、慰撫して治められた。このことを私は本当に尊く思い、ますます嬉しく思う。(③)
大伴の遠い祖先の神、その名も大久米主という誉れを背負ってお仕えしてきた官職。(④)海を行くなら水に沈む屍、山を行くなら草に埋もれる屍となって、大君の近くで死ぬのは本望。決して省みることはないと誓った一族。この大夫(ますらお)なる潔い名をいにしえより今の今まで受け継いできた子孫なるぞと大伴と佐伯の氏は祖先が立てた誓い(⑤)のままに、子孫はその名を絶やさず、大君にお仕え申し上げる。そう言い継がれてきた官だぞ大伴は。梓弓を手に取り持って剣大刀を腰にしっかと帯び、守る。朝も夕も大君の御門を守るのは自分をおいて人はあるまいと、いよいよその思いはつのるばかり。大君の御言葉のありがたさの内容を承れば尊くてならないのだ』

注①     宮城県遠田郡涌谷町黄金山。
注②     これまで日本は金の輸入国だったが、陸奥のゴールドラッシュが始まった。北米のゴールドラッシュと同じことが、千二百五十前の日本列島で起きていたのだ。東国は一種の「金本位制」が出現したと言えなくもない。
注③     あやにたふとみ うれしけく いよよおもひて。(私は本当に尊く思い、ますます嬉しく思う)」、大伴の喜びは尋常ではない。万葉集の頂点にある産金賛歌である。
注④     「大伴の遠い祖先の神、その名も大久米主という誉れを背負ってお仕えしてきた官職」
注⑤     大伴と佐伯の両氏族は天皇と東宮の親衛隊であることを明確に自覚している。「海行かば…」の唄は、、大伴・佐伯両氏に代々伝わる「戦闘歌謡」である。天皇・東宮(春宮)の親衛隊としての誓いなのだろう。

【通釈】

・天平感寶元年(749)の5月12日、越中國の守大伴宿祢家持の歌

第18巻【4095】「ますらをの心思ほゆ大君の 御言(みこと)の幸(さき)を聞けば貴(とうと)み」 
(わが大伴の遠い先祖の霊を鎮めている墓は 目立つしるしの杭立てし 世の人々が知るように)

第18巻【4096】「大伴の遠つ神祖の奥城(おくつき)は しるく標(しめ)立て人の知るべく」 
(わが大伴の遠い先祖の霊を鎮めている墓は 目立つしるしの杭立てし 世の人々が知るように)

第18巻【4097】「天皇の御代栄えむと東なる陸奥山に金(くがね)花咲く」
(帝の御代が今後いっそう栄えるに違いない、東国の陸奥の山に黄金ザクザク花が咲く)

・ここに出てくる佐伯氏とは?
『日本後紀』巻三十五の天長四年(827)四月二十六日
『散位正四位下佐伯宿禰清岑(きよみね)卒去。清岑は従五位下男人の孫で、従五位下人麻呂の息男である。延暦二十四年従五位下、弘仁十三年従四位上。温顔で、人に対して怒りを顔に出すことがなかったが、緩急の間で、適切に処理することが、はなはだ下手であった。清廉の程は、仰いで称すべきものがあり、政化を遠くまで致し、地方官として悪い噂が立つことがなかった。但し、かつて上野守に任じられた時、通例の出挙の他に、更に加挙を行ない。国内に未納が増え、民は返済できずに逃亡するなど苦しんだ。常陸守に遷任した時も、同様に出挙の加増を行ない、百姓に愁訴され、名地方官としての評判を得ることができなかった。下僚の国司が言上して、出挙の加増は停止となった。任期が満ちて入京し、豊島の別業で死去した。時に年六十五歳。』以上。
 佐伯氏というのは、『新撰姓氏録』で天孫降臨に際し瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に従った天忍日命(あめのおしひのみこと)を祖と主張する。万葉集 第18巻【4094】の大伴家持の産金国誕生の賛歌に詠んだように同祖とされた氏族であり、大伴氏とともに王と東宮の親衛隊である。皇極四年(645)の飛鳥板蓋宮での蘇我入鹿暗殺事件にも功があった。その後も武官に任じられる官人を輩出した。しかし、天平宝字元年(757)の橘奈良麻呂の変や延暦四年(785)の藤原種継(たねつぐ)暗殺事件に関与して罰せられる者も出ている。
延暦三年(784)、今毛人(いまのえみし)が、東大寺・西大寺・長岡宮造営の功績によって参議に任じられている。この辺にも、産金事業関係者の名誉回復・復活劇がある。

(2)『万葉集』巻14・巻18の産金歌と恋歌

万葉集の産金歌と恋歌

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第14巻【3378】武蔵国の歌
「入間道の於保屋が原の いはゐつら 引かばぬるぬる 吾にな絶えそね」
(武蔵国の歌代表的な歌。砂金を運んできて、また一攫千金狙って陸奥に向かったか?この歌により、入間道も保屋我波良も入間郡であることが解かる。さらに戦後に狭山市と入間市が入れ替わっている。したがって、女影廃寺は入間郡衙の一部になるわけである)
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第14巻【3426】陸奥の国の歌
「会津嶺の 国をさ遠み 逢はなはば偲ひにせもと 紐結ばさね」
 
【通釈】会津嶺の聳え立つ国、その故郷が遠くなってお前さんに逢えなくなってしまったら結んでくれた紐を偲ぶよすがにしよう。心をこめてしっかりと結ぶ
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第14巻【3427】陸奥の国の歌
「筑紫なる にほふ子ゆゑに 陸奥の可刀利娘子の 結ひし 紐解く」

【通釈】筑紫なんぞの色っぽい女にだまくらされて、折角この陸奥の可刀利乙女が固く結んであげた紐を解くんだとさ
(陸奥と筑紫の関係を示す)
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第14巻【3428】陸奥の国の歌
「安達太良の嶺に伏す鹿猪のありつつも我れは至らむ寝処な去りそね」
【通釈】安達太良山の鹿や猪はいつも決まった寝床に帰って休むという。我もそのように通うから、共寝できるように待っていてください
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第14巻【3437】陸奥の国の歌
「陸奥の安達太良真弓 はじき置きて反らしめきなば 弦はかめかも」
【通釈】陸奥の安達太良真弓、この立派な真弓は、弓弦を弾いたままにしておいて、反っくり返らせるようなことをしたら、もう二度と弦を張ることは出来ません、結婚なんてしませんよ
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第14巻【3560】相聞
 辰砂(しんしゃ)の歌
「ま金ふく丹生のま朱の色に出て言はなくのみぞ我が恋ふらくは」
【通釈】金精練に使う辰朱の土は真っ赤で目立つが、それと比べ私は何も言えないが、本当にあなたを恋しているんですよ
(辰砂は顔料としての硫化水銀は朱または丹と呼ばれ、貴重な赤色顔料だった)
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第18巻【4097】
「天皇の御世栄えんと東なる みちのく山に黄金花咲く」
天平感寶元年(749)五月十二日於越中國守舘大伴宿祢家持作之
天平21年(749)の『続日本紀』の記録は下記。
・1月23日  元正太上天皇の喪中で、朝賀の儀式などは行われず
・2月22日 天平21年(749)産金記述
・3月23日 日食があった
・5月4日  改元。天平21年を改め天平感宝元年とした。
・6月29日 天下に大赦を行った。
・8月19日 皇位継承。聖武天皇が譲位し、皇太子阿部内親王が即位した(孝謙天皇)。改元。天平感宝元年を改め天平勝宝元年とした。
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4 産金賛歌『万葉集」

 万葉集17巻~20巻は特徴ある構成内容になっている。その分量は時系列で下表のようになっている。大伴家持の産金賛歌は第18の4094に収録されている。天平20年が天平感宝元年に改元された歳である。その前々年の天平18年から歌詠みが急増し、天平感宝元年の5月12日、越中(こしのみちのなか)の国の守(かみ)が館(たて)での「陸奥の国に金を出だす詔書を賀く歌一首、併せて短歌」を引き立てている。
万葉集の分析は、編集者の意図が明確な目録を第一の橋頭堡とすることで、意外と簡単に見えてくるものなのです。特に、天平の時代から詠み歌は、『続日本紀』の時代とも連動している。実際、表と裏、上部と下部、というように不可分の関係にあるといっていいでしょう。大伴家持らが万葉集で意図した意味を解き明かために、目録データを中心にして解析するという新しい手法を採用しました。

(1)歌詠みの時期

万葉集17巻~20巻の時系列を下表に示した。【グラフ1】に示すように、天平21年(勝宝元年)から急増し、宝字元年あたりまで続く。あたかも「宝」の字を冠する年号の時期に黄金の国「ジパング」賛歌が盛んに歌われたことを示しているのは偶然ではないでしょう。大伴家持らは意図的に、万葉集巻第十八の【4094~4097】「天平感宝元年の五月十二日に、陸奥の国に金(こがね)を出だす詔書を賀く歌一首併て短歌 大伴宿禰家持」をメーンテーマとして構成されていることに気づかされる。

万葉集17巻~20巻の時系列表

 上の時系列表をグラフ化すると万葉集編集者の意図がよくわかる。単に収集したらこんな具合になりましたではないわけである。また、従来のような「恋歌」集では決してないといえるでしょう。詠まれた歌の一つ一つに日付とコメントを添えて「目録」を添えていることの意味は余りにも大きいものがあるが、従来の万葉集研究の方法は、余りにも偏っていないか?木を見てばかりで森を見ていなかったといえるでしょう。
特筆すべきは、天平20年4月1日の4首(巻の十八4066~4069)までは、通年の歌詠み回数で目立ったところはないが、天平21年の3月から、急増する。巻の十八の【4069】と【4070】の間には「通常の空白」期間が存在している構成になっている。天平天平21年の3月の歌から人事交流が盛んになり、4月14日には年号が「天平感宝元年」となる。越中には政治の風が南から吹き寄せ、風雲急を告げる様相が伺える。
・天平21年3月14日:【4070】
・天平21年5月5日:『天平感宝元年』に改元
・天平感宝元年5月12日:【4094】~【4097】
  【4094】「陸奥の国に金を出だす詔書を賀く歌」
天平感宝元年は12月までおびただしい数の歌を作ることになる。この様子はグラフ化すると一目瞭然である。ここからわかることは、日記帳風に気の向くまま歌を詠んでいるわけではなく、一種の「戦略的な創作活動」であると見なせるものである。橘政権の実行部隊の通信手段と見ていいだろう。決して、藤原仲麻呂一派には知ることができない内容であった。なぜなら、仲麻呂の頭は石だから。

万葉集17巻~20巻に収録された詠み歌数の時系列グラフ

(2)「霍公鳥」の詠まれた時期

霍公鳥(ほととぎす)を詠んだ歌 は153首のリスト(橘の花と一緒に詠まれている)。万葉集 巻第16【3786~3889】からは詠まれた年月日が明記されている。巻第16~巻第20の頻度傾向は可視化でき、結果は前出の歌詠み頻度の「グラフ1」の同じ傾向を示す(「グラフ2」)。

万葉集16巻~20巻に収録された「ほととぎす」詠み歌数の時系列グラフ

この時系列グラフが、大伴家持や橘諸兄政権の編集者の意図が明確に示されている。グラフ1とグラフ2は同じ傾向を示すのは当然のことといえるわけです。さらに注目すべき特徴がいくつか目に付く。歌詠み順に追っていく。

万葉集巻第17【3909~3919天平13年4月の10首歌

この10首は橘と霍公鳥の相性を繰り返し歌っている。「橘」は霍公鳥の宿り木なのだから当然と言えば当然なのだが、万葉集巻第16の冒頭部分に配置されているにのは、編者の意図がよくわかる。橘政権の賛歌集が「万葉集」なのである。また、産金事業の成功と黄金の廬舎那仏建立の成功を前後して寿ぐ歌を創作・収集して完成したのも万葉集である。しかし、産金事業に関する直接の歌は極めて少ない。

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天平13年4月2日

3909: 橘は常花にもが霍公鳥住むと来鳴かば聞かぬ日なけむ
3910: 玉に貫く楝を家に植ゑたらば山霍公鳥離れず来むかも
天平13年4月3日
3911: あしひきの山辺に居れば霍公鳥木の間立ち潜き鳴かぬ日はなし
3912: 霍公鳥何の心ぞ橘の玉貫く月し来鳴き響むる
3913: 霍公鳥楝の枝に行きて居ば花は散らむな玉と見るまで
3914: 霍公鳥今し来鳴かば万代に語り継ぐべく思ほゆるかも天平16年4月5日
3916: 橘のにほへる香かも霍公鳥鳴く夜の雨にうつろひぬらむ
3917: 霍公鳥夜声なつかし網ささば花は過ぐとも離れずか鳴かむ
3918: 橘のにほへる園に霍公鳥鳴くと人告ぐ網ささましを
3919: あをによし奈良の都は古りぬれどもと霍公鳥鳴かずあらなくに
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(3)鶯の声

巻の17から19までの鶯の詠み歌は極めて少ない。特に天平21年、天平勝宝元年の時期の巻の18は皆無である。この様相は、上のふたつのグラフ1、2と比べ、真逆になっていることがわかる。霍公鳥とも橘とも直接的には結び付きそうにもない。
しかし、天平勝宝元年、突然、大伴家持の産金賛歌が「万葉集巻の第18【4094】」に登場する。この奇妙さ、違和感を誰しも感じるでしょう。「鶯=砂金」とするならば腑に落ちる。何を隠そうこの鶯こそ、「金衣公子」と別称されていたものなのです。
 万葉集巻第17~20では、橘諸兄政権にとって、砂金の隠語だったのでしょう。しかし、この秘密の通信手段は、正岡子規が絶賛するほどの文学作品だったので、無教養の藤原仲麻呂には知られることはなかったものと考えられる。

 鶯の歌:万葉集巻第17~19

天平19年の【3966】【3968】【3969】【3971】は、大伴家持が越の中国に赴任して初めて迎えた春に歌われたもの。
3971: 山吹の茂み飛び潜く鴬の声を聞くらむ君は羨しも
(山吹の茂みを飛びくぐって鳴く鴬の、その美しい声を聞けるあなたが、とても羨ましいです。わたくしも早く聞きたいです)
赴任直後の天平20年2月のこの歌には、鶯の声を待ち焦がれているという心境や希望が見える。前向き。

天平20年の【4030】は、鶯の声は待てど聞かれず、、、、、
4030: 鴬は今は鳴かむと片待てば霞たなびき月は経につつ
(鶯はもうそろそろ鳴く頃でしょうね。ひたすら心待ちにしているうちに、霧が一面たなびき、月日はいたずらに過ぎてしまいます)


金衣公子とは?
きんいこうし 金衣公子 ウグイスの別名。金衣鳥。
[開元天宝遺事上](唐の玄宗が黄色のウグイスをこう呼んだ故事から)ウグイスの雅称。
「金衣」は、玄. 宗皇帝が鶯を「金衣公子」と呼んだという逸話(『開元天宝遺事』 ) による表現、美しい羽を指す)。

(4)万葉の黄金古道

詠まれた場所と自然・風物は、産金詔書を賀く歌の序章として巻第17に集中する。結論的には、産金ロジスティク、「砂金街(海)道」を見てみよう。かなりの分量になるが、従来、紹介されていないので、できる限りリストアップしてみる。特に、数千年に一回の2024年元旦の「能登大地震」で壊滅的な被害を受けたこの地が、奈良東大寺の黄金の盧舎那仏建立に尽力し大きく貢献した「越中国(こしのなかくに)」、この国の再生を願って、大伴家持らの時代を顕彰したいと念ずる。
 天平13年4月から、詠み歌番号の順に計38ヵ所リストアップしてみる(伊藤博訳注を引用)。下表は、歌番順に歌われた場所をまとめたものである。新潟県から富山県、石川県、そして福井県の敦賀の地名へと特徴的な場所に広がっている。

天平13年4月からの詠み歌の地名リスト

上表の歌詠みの舞台は、「越の中の国」を中心をする、現在の富山県と石川県の能登国の陸と海である。下図は、歌が詠まれた場所の中心地図。富山県高岡、砺波、射水、氷見。石川県羽咋、七尾、能登島、穴水、能登、珠洲、輪島。さらには、福井県敦賀市の五幡、今庄町(合併し南越前町)にも広がっている。歌詠み舞台の全体を下の地図に示す。

歌詠みの舞台と地質図(産総研シームレス地質図加工)

表と地図から、歌詠みの場所は、詠み歌順番および時系列順に、下記のように大まかに3分割できる。
1.富山湾周辺の陸地と海
2.「能登国」(羽咋郡、能登郡、鳳至郡、珠洲郡の四郡)・七尾湾周辺
3.福井県敦賀
好都合なこの分割に従って、歌詠み場所を地図を頼りに巡ってみることにする。

(5)富山湾周辺の歌詠み地 

富山湾周辺の歌詠み地(万葉集【3952】~【4023】)¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨
①【3952】「伊久理(いくり)」:富山県砺波市井栗谷
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②【3954】「渋谿(しぶたに)」:高岡市太田(雨春)の海岸、
渋谿の崎」:富山県高岡市渋谷。この付近の海岸に突出した地形。
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③【3955】玉くしげ 二上山に 鳴く鳥の 声の恋しき 時は来にけり
③「二上山」:山富山県高岡市北方にある山。
この山の麓、小矢部川の河口近くに越中の国府があった
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④【3956】「余呉の海」:高岡市から射水にかけての海岸(国府の東)
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⑤【3986】「射水川」:現在の小矢部川。富山県・石川県・岐阜県の県境付近に発し、
小矢部市と高岡市を通過して富山湾にそそぐ。
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➅【3991】「布勢の水海」富山県氷見市南方にあった湖。
➆「松田江の長浜」:富山県高岡市から氷見市にかけての長い砂浜。
⑧「宇奈比川」:氷見市北方を流れる宇波川
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【4000】⑨「新川(にいかわ)郡」:富山県東部の地 
⑩「片貝川(かたかいがわ)」:富山県の魚津市と黒部市の市境を流れて富山湾にそそぐ川
⑪「立山(たちやま)」:富山県南東部の立山連峰 ¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨
思いがけず『京に上ろうとして思いを述べた歌』を拝見し、お別れすることは悲しく耐えがたく、恨めしい気持ちが抑えきれません とりあえず思いを歌にして差し上げる一首と短歌二首
【4008】あをによし 奈良を来離れ 天離る 鄙にはあれど 我が背子を 見つつしをれば 思ひ遣る こともありしを  大君の 命恐み 食す国の 事取り持ちて 若草の 足結たづくり 群鳥の 朝立ち去なば 後れたる 我や悲しき 旅に行く 君かも恋ひむ 思ふそら 安くあらねば 嘆かくを 留めもかねて 見渡せば 卯の花山の ほととぎす 音のみし泣かゆ 朝霧の 乱るる心  言に出でて 言はばゆゆしみ 礪波山 手向の神に 幣奉り 我が祈ひのまく はしけやし 君がただかを ま幸くも ありたもとほり 月立たば 時もかはさず なでしこが 花の盛りに 相見しめとぞ
⑫「砺波山(となみやま)」富山県小矢部市西方の山¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨
【4011】矢形尾の鷹を手に据ゑ 三島野に猟らぬ日まねく 月そ経にける
⑬「三島野」:越中国府の南東、高岡市付近から射水市にかけての野¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨
逃げて行った鷹を恋い慕い、夢に見てうれしくなって作った歌一首と短歌
【4015】心には緩ふことなく須加の山すかなくのみや恋ひ渡りなむ
⑭「須加(すか)の山」:富山県高岡市にあった山、二上山の西の山か¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨
高市連黒人の歌一首〈年月は不明〉
【4016】婦負の野のすすき押しなべ降る雪に宿借る今日し悲しく思ほゆ
⑮「婦負(めひ)の野」:富山県射水市付近の野
〈かつて富山県婦負郡(ねいぐん)、
越中国婦負郡(めひのこおり)の地名があった〉
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【4020】越の国の信濃〈浜の名なり〉の浜を行き暮らし長き春日も忘れて思へや
⑯「信濃の浜」:未詳。富山県射水市放生津潟付近の海岸かといわれる¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨
礪波の郡の雄神川のほとりで作った歌一首
【4021】雄神川 紅にほふ 娘子らし 葦附取ると 瀬に立たすらし
⑰「礪波郡(となみのこおり)」越中四郡のひとつ。
富山県小矢部市・砺波市・南砺市と高岡市の西部。
⑱「雄神川(おかみがわ)」:岐阜県に発し砺波平野を北流して富山湾にそそぐ庄川の古称。¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨
婦負の郡にして鵜坂の川辺を渡る時に作る歌一首
【4022】鵜坂川渡る瀬多みこの我が馬の足掻きの水に衣濡れにけりし
⑲「婦負の郡(めひのこおり)」:越中四郡のひとつ。
およそ、富山県富山市の神通川以西と射水市の一部。
⑳「鵜坂(うさか)」:神通川流域の富山市婦中町に鵜坂という地名がある¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨
鵜を潜らせて魚をとる人を見て作った歌一首
【4023】婦負川の 速き瀬ごとに 篝さし 八十伴の男は 鵜川立ちけり
㉑「婦負川」:婦負郡を流れる川〈神通川の下流域での名か〉

(6)「能登国」(羽咋郡、能登郡、鳳至郡、珠洲郡の四郡)・七尾湾周辺

【4026】~【4029】
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能登の郡にして香島の津から船を発し、熊来の村をさして往く時に作った歌二首
4026飛総立て船木伐(き)るといふ能登の島山 今日見れば木立繁しも幾代神びそ(※「とぶさ」:梢や枝葉の茂った先。きこりが木を伐ったあとに、これを立てて山の神を祀る神事)【4027】香島より熊来をさして漕(こ)ぐ船の楫(かじ)取る間なく都し思ほゆ
㉕「能登の郡」:能登四郡のひとつ。石川県鹿島郡と七尾市の地。
㉖「香島(かしま)の津」:石川県七尾市の港。
㉗「能登の島山」:七尾湾中央の能登島
㉘「熊来村(くまきのむら)」:石川県七尾市中島町の熊木川下流域一帯。
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鳳至の郡にして饒石の川を渡った時に作った歌一首
【4028】妹に逢はず久しくなりぬ饒石川清き瀬ごとに水占延へてな
㉙「鳳至(ふげし)」:鳳至郡で饒石川を渡ったときに作った歌一首
㉚「鳳至郡」:能登四郡のひとつ。石川県輪島市と鳳珠郡の一部。
㉛「饒石川(にぎしがわ)」:現在の仁岸川。石川県輪島市門前町を流れて日本海にそそぐ。
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珠洲郡から船出して太沼郡に帰ったときに、長浜湾に停泊して月の光を仰ぎ見て作った歌一首【4029】珠洲の海に朝開きして漕ぎ来れば長浜の浦に月照りにけり
㉜「珠洲(すず)」:能登四郡のひとつ。能登半島の先端部。石川県珠洲市と珠洲郡の地。
㉝「太沼郡」:未詳、国府付近か 
㉞「長浜の浦」:富山県氷見市から高岡市にかけての「➆松田江の長浜」¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨
七尾市中島町熊木川下流
饒石川河口:現在の仁岸川、石川県輪島市門前町を流れて日本海にそそぐ。

(7)福井県敦賀市五幡

万葉集巻第18【4052】~【4055】】歌四首
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掾久米朝臣広縄が館にして、田辺史福麻呂に饗する宴の歌四首
【4052】霍公鳥今鳴かずして 明日越えむ山に鳴くとも験あらめやも
【4053】木の暗になりぬるものを 霍公鳥何か来鳴かぬ君に逢へる時
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この二首は大伴宿禰家持  前の件の歌は、二十六日に作る
【4054】霍公鳥こよ鳴き渡れ燈火を 月夜になそへその影も見む
【4055】可敝流廻の道行かむ日は 五幡の坂に 袖振れ我れをし思はば
(可敝流の道を行く日は、五幡の坂で袖を振ってね。私を思っているなら)
可敝流(かへる)》:福井県南条郡南越前町南今庄にあった帰(かえる)。
五幡(いつはた》:福井県敦賀市五幡。帰から西へ越えた敦賀湾の岸

五幡の坂から見える五幡海岸
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(8)造酒・造船関連の歌関連

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「造酒司令史田辺福麻呂」
天平20年(748)3月中旬以降と推定される。

造酒の歌一首 
【4026】飛総立て船木伐るといふ能登の島山 今日見れば木立繁しも幾代神びそ
【4027】香島より熊来をさして漕ぐ船の楫(かじ)取る間なく都し思ほゆ
《飛総(とぶさ)》梢や枝葉の茂った先。きこりが木を伐ったあとに、これを立てて山の神を祀る神事。古代造船や寺院の建築には、大陸から移植された「チャンチン」の巨大木材が使われた可能性が大。

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・「造酒司令史田辺福麻呂」天平20年(748)春の3月23日
万葉集巻第18
【4032】【4033】
天平20年(748)春の3月23日、左大臣橘家(橘諸兄)の使者、造酒司令史である田辺福麻呂が、国守大伴宿祢家持の館でもてなしを受けた。そこで新しく歌を作り、またさらに、古歌を歌うなどして互いに思いを述べた
【4032】奈呉の海に船しまし貸せ沖に出でて波立ち来やと見て帰り来む
【4033】波立てば奈呉の浦廻に寄る貝の間なき恋にそ年は経にける
造酒司令史(さけのつかさのさかん》酒の醸造をつかさどる役所の三等官。
奈呉の海》富山県高岡市伏木から射水市放生津潟(ほうじょうづがた)にかけての海。
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(9)東大寺高僧平栄と大伴家持

1.平栄、越中国へ:天平感宝元年5月5日
万葉集 巻18【4085】大伴家持の歌
天平感宝元年5月5日、東大寺の占墾地使の僧平栄らをもてなした。
そのとき、守大伴家持が酒を僧に送った歌一首
「焼き大刀を礪波の関に明日よりは守部遣り添へ君を留めむ
占墾地使(せんこんじし》寺社権門勢家が荘園とするための土地を占定するために派遣した使者。
礪波の関》富山県小矢部市の礪波山の東麓にあったという関。越中と越前の国境を守る。
守部》番人。ここでは関所の役人。
《礪波の関》小矢部市西南部の礪波山東麓にあった関所、越前との国境。
天平勝宝元年(749)5月に「東大寺の占墾地使僧」、「東大寺家野占寺使法師」として越中国へ赴いている。この前月の天平21年4月14日に天平感宝元年に改元されている。改元と同時に家持の越中国へ移動。親衛隊長として決意を込めた熱い歌である。同時に酒(樽)を送っているところに注目。東大寺の高僧に酒樽?

2.良弁・安寛・平栄の関係
隋・唐代の仏教―華厳経と法華経の隆盛の時代に中心で活躍した開祖たち。その中でも、唐代の「華厳経」の開祖として義淵(ぎえん)と良弁の役割は絶大であった。下に両者の坐像と活躍の年表を示した。

良弁僧正坐像(東大寺/奈良)                                      義淵(ぎえん)僧正坐像(岡寺/奈良)木心乾漆
義淵(ぎえん)僧正 】 義淵はその門下から行基、道慈、良弁等の多く学匠を輩出した奈良時代前期の法相宗の学僧で、天智天皇から岡本宮を賜わり、これを改めて竜蓋寺(岡寺)を創建し、神亀5年(729)この地で入寂したと伝えられる。両部の深く刻まれたしわや、胸部の肋はいかにも年老いた姿を写しながらもがっしりとした躰躯や、しわ深いとはいえ、ひきしまった面部の造作は精悍な気迫をよくとらえている。衣は肉身部の表現とは対称的にゆったりとおおまかに表現され、それがかえって高僧義淵の肉身部特に面部に集約される強烈な意志を強調しているかの感がある。木心乾漆とはいえ桧材で彫成された木心部はかなり発達し、その上に厚手の乾漆をもり上げて細部の表現をしており、技法的に奈良時代後半から平安時代初期の特色を持っており、気分的に平安時代初期の一木彫像の造形を感じさせるものである。ともあれ、奈良時代後半から平安時代初期頃の造顕になる数少ない肖像彫刻の一遺品として注目すべき作例といえよう。

良弁僧正】 良弁は、草創期の東大寺の寺家を代表する僧であり、奈良時代を代表する僧の一人であった。 『続日本紀』には次に挙げる四筒所。 《天平勝宝三年(七五一)四月甲戌【廿二】》詔、以菩提法師為僧正。良弁法師為少僧都。道瑠法師・隆尊法師為律師。 《天平勝宝八歳(七五六)五月丁丑【廿四】》勅。奉為先帝陛下、屈請看病禅師一百廿六人者。宜免当戸課役。但良弁。慈訓。安寛三法師者。並及父母両戸。然其限者、終僧身。又和上鑑真。小僧都良弁。華厳講師慈訓。大唐僧法進。法華寺鎮慶俊。或学業優富。或戒律清浄。堪聖代之鎮護。為玄徒之領袖。加以。良弁。慈訓二大徳者。当于先帝不予之日。自尽心力。労勤昼夜。欲報之徳。朕懐罔極。宜和上・小僧都拝大僧都。華厳講師拝小僧都。法進。慶俊並任律師。 《天平宝字四年(七六〇)七月庚戌【廿三】》大僧都良弁。少僧都慈訓。律師法進等奏曰。良弁等聞。法界混一。凡聖之差未著。断証以降。行住之科始異。三賢十地。所以開化衆生。前仏後仏。由之勧勉三乗。良知。非酬勲庸。無用證真之識。不差行住。詎勧流浪之徒。今者。像教将季。緇侶稍怠。若無褒貶。何顕善悪。望請。制四位十三階。以抜三学六宗。就其十三階中。三色師位并大法師位。准勅授位記式。自外之階。准奏授位記式。然則、戒定恵行、非独昔時。経・論・律旨、方盛当今。庶亦永息濫位之譏。以興敦善之隆。良弁等。学非渉猟。業惟浅近。輙以管見。略事採択。叙位節目。具列別紙。」勅報曰。省来表知具示。勧誡緇徒。実応利益。分置四級。恐致労煩。故其修行位。誦持位。唯用一色。不為数名。若有誦経忘却。戒行過失者。待衆人知。然後改正。但師位等級。宜如奏状。」又勅曰。東大寺封五千戸者。平城宮御宇後太上天皇・皇帝・皇太后。以去天平勝宝二年二月廿三日。専自参向於東大寺。永用件封入寺家訖。而造寺了後。種種用事、未宣分明。因茲。今追議定営造修理塔寺精舍分一千戸。供養三宝并常住僧分二千戸。官家修行諸仏事分二千戸。 《宝亀四年(七七三)閏十一月甲子【廿四】》僧正良弁卒。遣使弔之。   

天平宝字(757~765)初年頃、東大寺上座。平栄の兄弟子は、東大寺の上座である安寛である。このふたりに君臨するのが東大寺のトップである大僧都良弁である。安寛と平栄の兄弟子の関係は、安寛が政治的活動、平栄は実務・実践活動とそれぞれ分担している。安寛が表で、平栄は裏という関係推察できる。『続日本紀』には安寛の記録はあるが、平栄の記述は無い。一方、『万葉集』には平栄に関する歌はあるが、安寛に名は見当たらない。平栄には、天平勝宝8年(756)10月11日、東大寺の左官兼上座法師として阿波国新島庄と因幡国高庭庄に出向いて「寺田占定」いう記録がある。期せずして、天平宝字元年改元の歳である。

(10)辰砂を求めて、徳島県「若杉山遺跡」

天平勝宝元年(749)5月の北陸での仕事の後は、西国に活動の場を移している。天平勝宝6年からの2人の動静を、下に列挙してみると、大伴家持は、天平勝宝6年(754年) 11月1日に山陰道巡察使の任に付いている。本州日本海側西部の行政区および幹線道路の監察官である。一方、平栄も西国で忙しく動き回っている。二年後の天平勝宝8年(756)10月には、因幡国高草郡の東大寺領荘園(鳥取市域内)に東大寺野占使として赴き、勅施(ちょくせ)入地を占定している(東大寺文書)。二人の動静は、辰砂増産問題と関連していると考えられる。辰砂案件は砂金と違って、大手を振って扱えるから、「橘」の花も「霍公鳥」の声も「鶯」の声も気にかける必要もなくなったのである。ポスト「万葉歌」の時代に突入ともいえなくもない。東大僧平栄は、山陰道巡察使の大伴家持に守られながら、天平勝宝8年に因幡国の高庭庄の東大寺領に赴きに勅施入地を占定している。家持も平栄も実践部隊なのだから同然といえば当然だが、二人の関係は注目点である。
越中国赴任を終えた後の二人の動静を下に列挙した。
天平勝宝6年(754年) 4月5日:大伴家持、兵部少輔。
天平勝宝6年(754年) 11月1日:大伴家持、山陰道巡察使
天平勝宝8年(756)10月:平栄ら、因幡国高庭庄(東大寺文書)
因幡国高草郡の荘園。東大寺領に赴き、勅施入地を占定)
天平勝宝8年(756)11月5日:平栄ら、阿波国新島庄(東大寺文書)
天平勝宝9年(757年) 6月16日:大伴家持、兵部大輔、見右中弁
天平宝字2年(758年) 6月16日:大伴家持、因幡守(約3年間)
天平宝字2年(758)~3年:平栄ら、越前・越中へ赴く

 天平勝宝元年(749)5月の北陸での仕事の後は、西国に活動の場を移している。天平勝宝6年からの2人の動静を、下に列挙してみると、大伴家持は、天平勝宝6年(754年) 11月1日に山陰道巡察使の任に付いている。本州日本海側西部の行政区および幹線道路の監察官である。一方、平栄も西国で忙しく動き回っている。二年後の天平勝宝8年(756)10月には、因幡国高草郡の東大寺領荘園(鳥取市域内)に東大寺野占使として赴き、勅施(ちょくせ)入地を占定している(東大寺文書)。二人の動静は、辰砂増産問題と関連していると考えられる。辰砂案件は砂金と違って、大手を振って扱えるから、「橘」の花も「霍公鳥」の声も「鶯」の声も気にかける必要もなくなったのである。ポスト「万葉歌」の時代に突入ともいえなくもない。東大僧平栄は、山陰道巡察使の大伴家持に守られながら、天平勝宝8年に因幡国の高庭庄の東大寺領に赴きに勅施入地を占定している。家持も平栄も実践部隊なのだから同然といえば当然だが、二人の関係は注目点である。
越中国赴任を終えた後の二人の動静を下に列挙した。
天平勝宝6年(754年) 4月5日:大伴家持、兵部少輔。
天平勝宝6年(754年) 11月1日:大伴家持、山陰道巡察使
天平勝宝8年(756)10月:平栄ら、因幡国高庭庄(東大寺文書)
因幡国高草郡の荘園。東大寺領に赴き、勅施入地を占定)
天平勝宝8年(756)11月5日:平栄ら、阿波国新島庄(東大寺文書)
天平勝宝9年(757年) 6月16日:大伴家持、兵部大輔、見右中弁
天平宝字2年(758年) 6月16日:大伴家持、因幡守(約3年間)
天平宝字2年(758)~3年:平栄ら、越前・越中へ赴く

 膨大な砂金の産出は、当然の帰結として辰砂の不足という事態を引き起こした。そこで、国内産の増産とともに輸入品の増加という二方面作戦が採用されたのだろう。輸入は家持や百済王敬福らに担当させて、国内産の増産担当は、東大寺三綱の僧平栄が担ったことが「東大寺文書」の動静で伺える。平栄らは、真っ先に阿波国の新島庄へ赴いた。阿波国(徳島県)の「若杉山鉱山」である。徳島県阿南市水井町にある国史跡の「若杉山辰砂採遺跡」である。水井町の風景写真を下に示す。

阿南市水井町「若杉山辰砂採掘遺跡」の風景
橋が架かる対岸が水井町
「若杉山辰砂採掘遺跡」段々の石垣はみかん畑跡
辰砂(母岩から分解した微密質粒状集合体)
徳島県阿南市水井 水井鉱山
(株)三菱マテリアル所蔵 (東京大学総合研究博物館データベース)
四国中央構造線付加体の地質図;作図条件は下記
①岩相は付加帯
②形成年代は、古生代+原生代


 阿南市水井町の「若杉山辰砂採掘所」の隣に、東大寺荘園の新島庄が位置している。この東大寺荘園の絵図が、東大寺に所蔵されている。「天平宝字二年六月天平寶字二年六月廿八日造国司図案」「阿波國名方郡東大寺啚▢地」と読める。
日本最古の絵図面か、作成は、天平宝字2年(758)6月28日である。枚方地区は、現徳島市上助任町周辺に比定される。
平栄らは、また、天平宝字2年から3年にかけて、越前・越中へ赴いている。平栄の家持も、忙しい働きである。

東大寺荘園阿波国新島庄絵図
天平宝字2年(758)6月28日

5.ポスト『万葉集』の時代:筑紫怡土城の造営

ゴールドラッシュの衝撃と伴に世界の政治経済システムも大きな転換点を迎えることになる。越中『万葉集』後、敬福・家持・真備たち官僚のアリバイを探ってみよう。畿内から遠い九州・西国、北は陸奥へとひろがっている。その目まぐるしい活躍の概要を下表にまとめた。
まるで、寄せては返す波(津波)のように、内外ともに激変の時代、それに懸命に対応していくひとびと、顕彰せずにはいられないし、それがまた、今日的問題の解決策の宝庫でもあるのだから、

(1)ポスト「万葉集」の官僚たち

 黄金賛歌の『万葉集』の後には、また新しい時代に突入する。陸奥に始まったゴールドラッシュは、東西に長く伸び切ったシルクロードの世界政治経済システムに強い衝撃となった。家持・敬福・吉備真備ら官僚たちも東大寺三綱の僧平栄らも、つぎのステージに立つことになる。これらの活動を、延暦4年(785年)の家持の薨去まで下表にまとめた。この表からは、吉備真備⇒大伴家持へと、大伴家持が真備の後任として重責を担ったことをよく示している。

越中での黄金賛歌『万葉集』後の敬福・家持・真備たち官僚の活躍

(2)筑紫国怡土城の造営

怡土城遠景(南東より)
《天平宝字四年(七六〇)十一月丙申【十】》○丙申。遣授刀舍人春日部三関。中衛舍人土師宿禰関成等六人於大宰府。就大弐吉備朝臣真備。令習諸葛亮八陳。孫子九地及結営向背。 天平宝字3年(759年)6月に新羅を討つために大宰府にて行軍式(軍事行動に関する規定)が作成されると、8月に新羅征討を行う方針が決まり、同年9月には船500艘を造ることが決まるなど遠征の準備が進められるが、これに関して、以下の活動記録がある。なお、この遠征は後の孝謙上皇と仲麻呂との不和により実行されずに終わっている。 天平宝字4年(760年)平城京から派遣された授刀舎人・春日部三関と中衛舎人・土師関成らに対して、諸葛亮の「八陳」と孫子の「九地」、および軍営の作り方を教授した。天平宝字5年(761年)新羅征討の軍備を整えるために節度使が設置されると、西海道節度使に任ぜられる(副使は多治比土作と佐伯美濃麻呂)。大宰府赴任中の真備は対新羅の拠点となる築城を行い、四ヶ条の言上により新羅征討計画に対して重要な示唆を与え、行軍式を作成するなど、唐で学んだ兵学を実践して仲麻呂政権を通じて計画された新羅征討策の一翼を担った(上表を参照) 吉備朝臣真備は、天平勝宝8年(756)3月、「築怡土城専知官」に任じられる。6月から築城開始。「怡土城」は、筑前の怡土氏がいたという高祖山の西斜面に築かれる。吉備朝臣真備の大宰大弐の職務は、途中、天平宝字8年(764)正月21日造東大寺長官に転任するに伴い、佐伯宿禰毛人に代わる。その後、神護景雲2年(768)2月に完成するが、世界情勢は変り、用無しになる運命だった「怡土城」。結局、真備は、「安史の乱」対策で、約十年間大宰府に居たことになる。そして、真備の背中を追って次世代の家持たちが、後に続いていくという景色が目に浮かぶわけである。
¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨『続日本紀』天平宝字8年の記録¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨
・『続日本紀』天平宝字8年(764)正月21日の条天平宝字8年(764)正月21日:正四位下吉備朝臣真備為造東大寺長官。天平宝字8年(764)正月21日:従四位上佐伯宿禰毛人為大宰大弐。¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨
・『続日本紀』天平宝字8年(764)正月18日の条《天平宝字8年(764)正月18日:大隅。薩摩等隼人相替。授外従五位上前公乎佐外正五位下。外正六位上薩摩公鷹白。薩摩公宇志並外従五位下。¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨
《天平宝字8年(764)正月21日:以正五位下山村王為少納言。従五位下阿倍朝臣子路為左少弁。内蔵助外従五位下高丘連比良麻呂為兼大外記。¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨
外従五位下麻田連金生為左大史。従五位下大伴宿禰潔足為礼部少輔。正五位下紀朝臣伊保為仁部大輔。従五位上多治比真人木人為主計頭。外従五位下葛井連立足為助。従五位下甘南備真人伊香為主税頭。
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外従五位下船連男楫為助。従五位下路真人鷹甘為兵馬正。従五位下小治田朝臣水内為大炊頭。正五位下久世王為木工頭。従五位下穂積朝臣小東人為助。従五位下掃守王為典薬頭。従五位下粟田朝臣黒麻呂為左京亮。
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外従五位下蜜奚野為西市正。正四位下吉備朝臣真備為造東大寺長官。正五位下百済朝臣足人為授刀佐。従四位下仲真人石伴為左勇士率。従五位下大原真人宿奈麻呂為左虎賁翼。従五位下藤原恵美朝臣薩雄為右虎賁率。正五位上日下部宿禰子麻呂為山背守。従五位下大伴宿禰伯麻呂為伊豆守。従五位上粟田朝臣人成為相摸守。従五位上上毛野公広浜為近江介。従五位下藤原恵美朝臣執棹為美濃守。
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外従五位下池原公禾守為介。従五位下藤原朝臣継縄為信濃守。従五位下田口朝臣大万戸為上野介。従五位下上毛野朝臣馬長為出羽介。従五位下藤原恵美朝臣辛加知為越前守。
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外従五位下村国連虫麻呂為介。従五位上高円朝臣広世為播磨守。従五位下藤原朝臣蔵下麻呂為備前守。
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外従五位下葛井連根主為備中介。従四位下上道朝臣正道為備後守。従五位下石川朝臣氏人為周防守。従五位下小野朝臣小贄為紀伊守。従四位上佐伯宿禰毛人為大宰大弐。従五位上石上朝臣宅嗣為少弐。従四位下佐伯宿禰今毛人為営城監。従五位下佐味朝臣伊与麻呂為豊前守。従五位上大伴宿禰家持為薩摩守。
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博多湾を望む怡土城址周辺の地質図
福岡県糸島市高祖954
博多湾を望む怡土城址周辺の地質図(上図の拡大図)


上図の赤外線地質図

 赤外線地質図を概観すると、怡土城とそれを連なる叶岳から高地山へ山頂を要塞化したように見える。因みに、叶岳から高地山への痩せ尾根が確認できる。

叶岳から高地山への人工的な痩せ尾根

(3)『続日本紀』検索結果:

  • 「北辰」・「華厳」の記述

《養老六年(七二二)十一月丙戌【十九】》○丙戌。詔曰。朕精誠弗感、穆卜罔従。降禍彼蒼。閔凶〓及。太上天皇奄棄普天。誠冀。北辰合度。永庇生霊。南山協期。遠常承定省。何図。一旦厭宰万方。白雲在馭。玄猷遂遠。瞻奉宝鏡。痛酷之情纒懐。敬事衣冠、終身之憂永結。然光陰不駐。倏忽及期。汎愛之恩。欲報無由。不仰真風。何助冥路。故奉為太上天皇。敬写華厳経八十巻。大集経六十巻。涅槃経〓巻。大菩薩蔵経廿巻。観世音経二百巻。造灌頂幡八首。道場幡一千首。着牙漆几卅六。銅鋺器一百六十八。柳箱八十二。即従十二月七日。於京并畿内諸寺。便屈請僧尼二千六百卅八人。設斎供也。

《天平勝宝八歳(七五六)五月丙子【廿三】》○丙子。勅。禅師法栄。立性清潔。持戒第一。甚能看病。由此。請於辺地。令侍医薬。太上天皇得験多数。信重過人。不用他医。爾其閲水難留。鸞輿晏駕。禅師即誓。永絶人間。侍於山陵。転読大乗。奉資冥路。朕依所請。敬思報徳。厭俗帰真。財物何富。出家慕道。冠蓋何栄。莫若名流万代。以為後生准則。宜復禅師所生一郡。遠年勿役。
《天平勝宝八歳(七五六)五月丁丑【廿四】》○丁丑。勅。奉為先帝陛下、屈請看病禅師一百廿六人者。宜免当戸課役。但良弁。慈訓。安寛三法師者。並及父母両戸。然其限者、終僧身。又和上鑑真。小僧都良弁。華厳講師慈訓。大唐僧法進。法華寺鎮慶俊。或学業優富。或戒律清浄。堪聖代之鎮護。為玄徒之領袖。加以。良弁。慈訓二大徳者。当于先帝不予之日。自尽心力。労勤昼夜。欲報之徳。朕懐罔極。宜和上・小僧都拝大僧都。華厳講師拝小僧都。法進。慶俊並任律師。
《天平勝宝八歳(七五六)六月乙酉【癸未朔三】》○六月乙酉。勅、遣使於七道諸国。催検所造国分丈六仏像。
《天平勝宝八歳(七五六)六月丙戌【四】》○丙戌。五七。於大安寺設斎焉。僧・沙弥合一千余人。
《天平勝宝八歳(七五六)六月庚寅【八】》○庚寅。詔曰。居喪之礼。臣子猶一。天下之民。誰不行孝。宜告天下諸国。自今日始、迄来年五月卅日。禁断殺生。
《天平勝宝八歳(七五六)六月辛卯【九】》○辛卯。太政官処分。太上天皇供御米塩之類。宜充唐和上鑑真禅師。法栄二人。永令供養焉。
《天平勝宝八歳(七五六)六月壬辰【十】》○壬辰。詔曰。頃者。分遣使工、検催諸国仏像。宜来年忌日必令造了。其仏殿兼使造備。如有仏像并殿已造畢者。亦造塔令会忌日。夫仏法者。以慈為先。不須因此辛苦百姓。国司并使工等。若有称朕意者。特加〓賞。
《天平勝宝八歳(七五六)六月丙申【十四】》○丙申。六七。於薬師寺設斎焉
《天平勝宝八歳(七五六)六月癸卯【廿一】》○癸卯。七七。於興福寺設斎焉。僧并沙弥一千一百余人。

  • 吉備朝臣真備」・「怡土城」の記述

《天平勝宝八歳(七五六)六月甲辰【廿二】》○甲辰。始築怡土城。令大宰大弐吉備朝臣真備専当其事焉。」勅。明年国忌御斎。応設東大寺。其大仏殿歩廊者。宜令六道諸国営造。必会忌日。不可怠緩。

(4)吉備真備の将来した李筌注釈「孫子の兵法」

  • 『続日本紀』の「《天平宝字四年(760)十一月丙申【十】》○丙申。」

¨¨¨¨¨¨¨¨『続日本紀』天平宝字4年(760) 11月10日¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨
『就大弐吉備朝臣真備。令習諸葛亮八陳。孫子九地及結営向背。』
(大宰府に於て、吉備真備をして諸葛亮八陣・孫子九地及結営向背を習わし
む)
¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨

天平宝字4年(760) 11月10日、吉備朝臣真備が大宰府赴任にあたり、「諸葛亮八陳。孫子九地及結営向背」の実施訓練を命じられてる。文中、「孫子九地及結営向背」という記述は、真備が唐から将来した唐代の李筌(りせん)による「注釈・孫子の兵法書」の中に認められる。『形,謂主客,攻守,八陳,五営,陰陽,向背之形。(形とは,主客,攻守,八陳,五営,陰陽,向背の形を謂ふ。)』という記述があるが、この「結営向背」という表現は「孫子の兵法」にはない。武則天の時代、つまり唐代の李筌による記述されている「太白陰経」のものである。元々、孫子も韓非子もバックボーンになっている思想哲学は「老子」の世界観なのだから、根っ子で繋がっているわけである。老子は「タオ」というし、李筌は「機」と表現している。同じ意味である。唯物論的であり合理主義的な思想といえる。李筌による『孫子』注釈、「太白陰経」は、全6巻・6部構成になっている。主著『太白陰経』の内容は主題によって6部に分類できる。第1部は政治を含めた兵法の原則について総論的に説明したものであり、第2部は軍礼に関する事項、つまり軍隊の部署や祭祀の執り行い方が述べられている。第3部は武器に関する記述であり、刀、槍、弓、弩からはじまって、要塞の攻囲や要塞の守備に使用する大型の装備までが網羅されている。第4部は築城を中心に各種工事に関する解説が盛り込まれており、第5部では戦闘陣形、第6部では占術が取り上げられている。
・第一部 政治・兵法の総論
・第二部 軍礼:部署、祭祀
・第三部 武器(刀、槍、弓、弩、要害の攻囲・守備、大型装備、その他
・第四部 築城を中心に各種工事
・第五部 戦闘陣形
・第六部 占術

吉備真備が将来した「兵法書」が、唐代の『孫子』注釈=『太白陰経』であることがピンポイントで確実視されたことは古代史から中世史の研究全般に大きな影響を及ぼすことになるでだろう。この問題は、テーマが広すぎてここでの展開は遠慮する。

  • 「諸葛亮八陳」について

諸葛亮孔明の兵法は、主に『六韜・三略』であることは有名である。特に六韜の虎の巻を多用した。『六韜三略』の虎韜の巻に『破軍星「高祖山」城』に直結する記述がある。¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨
「武王問太公曰、凡用兵爲天陳、地陳、人陳奈何。」
(武王が、「一般的に用兵において、天陣、地陣、人陣とはどうするのかね?と太公望に聞いた。」)
「太公曰、日月星辰斗柄、一左一右、一向一背。此謂天陳。丘陵水泉、亦有前後左右之利。此謂地陳。用車用馬、用文用武。此謂人陳。」
(太公曰いわく、日月星辰斗柄、一は左に一は右に、一は向一は背にす。此を天陣と謂う。丘陵水泉、亦、前後左右の利有り。此を地陣と謂う。車を用い馬を用い、文を用い武を用う。此を人陣と謂う。)
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つまり、暦と星座、特に「北斗七星の柄」の位置が重要だと太公望は答えている。ここは吉備真備の独壇場、北斗七星をひっくり返した「破軍星」の位置に陣取れば負けることはないと、北の博多湾を睨み、南の高祖山山稜と山麓を結ぶ「破軍星」望楼の城郭を築城した。望楼と祭壇、合わせて7ヵ所存在しなければならないが、七番目は「北斗七星」の形から高祖神社周辺と推定した。この七星で高低差を考慮して遠望すれば北斗七星を逆さに配した光景が目に浮かぶ。これこそ、戊辰戦争において庄内藩二番大隊が掲げた軍旗、「破軍星旗」ではないか。吉備真備の「不敗の地に立つ」という必死さと意図がハッキリとわかる。
さらに、唐に渡った天台座主円仁の残した『入唐求法巡礼行記』には、仏教国の唐代で、武闘の神「妙見天」とも呼ばれて大いに崇敬され、その信仰が盛んであったことをに記している。吉備真備の怡土城築城の時には、既に北辰妙地蔵菩薩信仰が現実のものになっていったことが伺える。大陸の覇権主義に対峙するためにも、シンボリックな破軍星と北辰星座は「必要なアイテム」になっていたのである。


破軍星(はぐんせい)北斗七星の柄先の星である漢名揺光の一名。日本でも古くからいわれて,一に剣先星という。 「七星旗」とは、戊辰戦争において庄内藩二番大隊が掲げた軍旗。北斗七星を逆さに配したこの旗は、別名「破軍星旗(はぐんせいき)」と呼ばれました。 同隊は連戦連勝の活躍を遂げたと言われており、それを率いた酒井玄蕃(さかいげんば)は、新政府軍から「鬼玄蕃(おにげんば)」と呼ばれ恐れられた名将として知られています
(湯野浜温泉 竹屋ホテルさんから引用)
「破軍星」望楼回廊
吉備真備の兵法『六韜三略』虎韜の巻の応用例

(5)北辰蓮花文軒丸瓦:【複弁7つ】+【単弁lつ】

  • 大圓寺木下コレクションの古瓦写真の複弁八弁蓮花文軒丸瓦

「大圓寺に保管されている木下氏の記録写真に、軒丸瓦が2片収められている。写真の裏には「大正三年 怡土城址(高祖山)」と裏書がある。中房に1+8の蓮子を配し、その周辺に複弁7つと単弁lつとからなる変則的な複弁八弁蓮花文をもっている。このタイプの軒丸瓦ば怡土城郭内からの出土が知られており、同じ瓦当文様は筑前国分寺からも出土してしいる。国分寺造営や恰土城の築城期から8世紀中頃に編年されている。(附録『前原市文化財調查報告書』75頁)」

大圓寺の木下コレクション(写真のみ)
平瓦と軒丸瓦
写真右の拡大
写真左の拡大

確かに、その周辺に複弁7つと単弁lつとからなる変則的な複弁八弁蓮花文をもっている。風雲急を告げる築城だから、范を新たに製作する時間はない。一ヶ所を単弁に加工して、北辰妙見地蔵の意匠デザインとして用いたと考えられる。このデザイン瓦は当時の国分寺や怡土城の急造建築物に用いられた。
そして、嵐が去った後は、北辰妙見地蔵菩薩が『李筌注釈「孫子の兵法」』を携えて仏門や武門や公家者へ拡散していった。北辰妙見地蔵菩薩との遭遇は、特に室町幕府を開いた初代征夷大将軍足利尊氏をまず第一に上げられる。九州に落ち延びた尊氏が転機になったのは、北九州の怡土城を取り巻く北辰妙見地蔵菩薩と遭遇だったことは確かである。

  • シンメトリックドラゴン

双龍文簋(そうりゅう)・シンメトリックドラゴン
台湾「「国故宮立博物館」西周早期 作宝葬紐
「故宮所蔵の銅器のうち、その装飾が古書〔易経〕の「[陰陽 太極」と関係があるものが2点ある。これは中国人の宇宙観 と社会的な秩序とを象徴している。1点は西周早期の双龍文簋(写真上)、もう1点は春秋初期壺である。この2点の装飾はともに雌雄の龍が旋動する様子をかたどったものであるが、現在では、陰陽太極という考 え方はこの二龍崇拝から始まったものではないかと推測され ている。 太極の図象のもとは二龍信仰である。二龍とは雌雄の龍が向き合ってとぐろを巻いている形である。〔易経〕の乾卦(八 卦の一)の象徴は龍であり、卦の頂も「九」を用いる。九という字の古体字も龍をかたどったものである。九は数字の極 数であり、また龍の形でもある。重なった乾卦は全て九をそ の番りとしていることから、各々の卦は龍の各種の状態とみ ることもできる
  • 『続日本記』の北辰についての記事

養《養老六年(722)十一月丙戌【十九】》○丙戌。詔曰。朕精誠弗感、穆卜罔従。降禍彼蒼。閔凶〓及。太上天皇奄棄普天。誠冀。北辰合度。永庇生霊。南山協期。遠常承定省。何図。一旦厭宰万方。白雲在馭。玄猷遂遠。瞻奉宝鏡。痛酷之情纒懐。敬事衣冠、終身之憂永結。然光陰不駐。倏忽及期。汎愛之恩。欲報無由。不仰真風。何助冥路。故奉為太上天皇。敬写華厳経八十巻。大集経六十巻。涅槃経〓巻。大菩薩蔵経廿巻。観世音経二百巻。造灌頂幡八首。道場幡一千首。着牙漆几卅六。銅鋺器一百六十八。柳箱八十二。即従十二月七日。於京并畿内諸寺。便屈請僧尼二千六百卅八人。設斎供也。


《養老七年(723)二月己酉【十四】》○己酉。詔曰。乾坤持施。寿載之徳以深。皇王至公。亭毒之仁斯広。然則居南面者。必代天而闢化。儀北辰者。亦順時以涵育。是以。朕巡京城。遥望郊野。芳春仲月。草木滋栄。東候始啓。丁壮就隴畝之勉。時雨漸注。蟄蠢有浴灌之悦。何不流寛仁以安黎元。布淳化而済万物乎。宜給戸頭百姓。種子各二斛。布一常。鍬一口。令農蚕之家永無失業。宦学之徒専忘私

(6)糸島郡二丈町吉井 浮嶽神社 『木造地蔵菩薩立像』

重要文化財 木造地蔵菩薩立像
/糸島郡二丈町吉井 浮嶽神社(うきだけ)
/カヤ材 一木造/像高 173.9センチ

 「二丈町の西部にそびえる浮嶽(805m)の山麓には、かつて怡土郡七ケ寺の一つ、久安寺があったと伝えられています。本像はそこに安置されていたといわれ、九州で最も古い木彫像の1つです。全身を一木から彫り出すこと、厳しい表情、重量感のある体躯などはいずれも平安時代前期の彫刻の特徴です。」

左肘を曲げをもつ格好、本来は左手に宝珠を載せ右手に錫杖をもった妙見地蔵である。妙見地蔵の最古の作品と考えられる。また、微かに浮かぶ鎧の文様は、東大寺や唐招提寺の意匠デザインに似る。なお、頭部は冠か兜を載せているようにも見える。平安時代初期の妙見地蔵菩薩像である。

木造地蔵菩薩立像(同上)  

(7)足利尊氏の守護神「勝軍地蔵」

  • 足利尊氏の守り本尊「勝軍地蔵」のルーツは九州福岡

足利尊氏の守り本尊は「勝軍地蔵」である。このルーツは九州と伝えられてきた。敗走して九州に辿り着いた尊氏の前に白馬に乗った「勝軍地蔵」が現れた。この辺の逸話は、足利尊氏の側近くに仕えた寵臣命鶴丸(みょうづるまる)として知られ、『太平記』では「容貌当代無双の児」と評されていた饗庭 氏直(あえば うじなお/うじただ)の話がよく引用されている。
『(連戦連敗で)  尊氏は、九州に落ちて行く途中で夢を見たが、その夢の中で、敵が迫ってきたのでので、之を避けて山頂に登った。所が道は絶えて其處は断巖絶壁で、殆んど墜ちそうになった。すると忽ち一人の僧が出て来て、それが地蔵菩薩の形セして居り、その地蔵菩薩が、尊氏の手を取って其嵐から飛び下りた。するとその断巖絶壁が、忽ち坦々たる大平原となり、そこへ自分の家族或は高師直等が、数千の軍勢を率いて助けに来たと見て、夢が醒めた。』 (義堂周信の日記『空華日用工夫略集』)
これを参照すると、真備以来、北辰妙見地蔵菩薩の生息する九州での尊氏が、圧倒的な劣勢の中で菊池一族に完勝したのは、「北辰妙見地蔵菩薩」、すなわち「勝軍地蔵」のご加護であると確信したことは疑いないだろう。
反転攻勢、東に攻め上がり、連戦連勝で、埼玉県日高市高麗原と毛呂山町苦林で、「観応の擾乱」の最終決戦に勝利した。ここで、東の政府「入間川御所」で、東国の武士に「安堵状」を大量に発行し、足利幕府が発足することとなった。

  • 関東の「妙見地蔵」・「勝軍地蔵」

足利家は、「勝軍地蔵」のご加護を祈念し、関東の激戦地に「妙見地蔵」や「勝軍地蔵」の寺院を建立した。右手に錫杖、左手に宝珠を持ち、白馬にまたがって今にも馳せ参ずる様相のお地蔵さん。このルーツは北九州福岡の「北辰妙見地蔵菩薩」であると考えて間違いないでしょう。以降、弓馬を旨とする武門たる者は、『李筌注釈「孫子の兵法」』と伴に、「勝軍地蔵」と「妙見様」が必須アイテムとなっていくのである。実際、妙見地蔵菩薩信仰と李筌兵法書に習熟した武将だけが、鎌倉以降の武人の時代を走り抜けている。以下に代表的な妙見将軍地蔵を紹介する。

① 日高市新堀の霊巌寺の将軍地蔵厨子:
右手に錫杖、左手に宝珠を持つ典型的な「将軍地蔵」、さらに注目すべきは、両膝の二巴文、双龍太極紋である。

饗庭 氏直(あえば うじなお/うじただ)の話
饗庭 氏直は、南北朝時代の武将。足利尊氏の側近くに仕えた寵臣命鶴丸(みょうづるまる)として知られ、『太平記』では「容貌当代無双の児」と評されている。
『 「足利尊氏の信仰」に迫つて来た 尊氏は、九州に落ちて行く途中で夢を見たが、その夢の中で、敵が迫ってきたのでので、之を避けて山頂に登った。所が道は絶えて其處は断巖絶壁で、殆んど墜ちそうになった。すると忽ち一人の僧が出て来て、それが地蔵菩薩の形セして居り、その地蔵菩薩が、尊氏の手を取って其嵐から飛び下りた。するとその断巖絶壁が、忽ち坦々たる大平原となり、そこへ自分の家族或は高師直等が、数千の軍勢を率いて助けに来たと見て、夢が醒めた。 この話は義堂周信の空華日エ集に記されて居る所であるが、その時尊氏に従って居た饗庭氏直が、茶話の序に周信に話したとある所から見て、信ずぺぎ逸話であらうと思はれる。これが機緑となつて、尊氏の地蔵菩薩に封する信仰は、頓に敦きを加へ、自身地蔵菩薩の尊像を描き、且つ之に自賛を加へたものが、今日尚相嘗多く遺つて居る。』
勝軍地蔵横顔(左右の腕の位置に注目)

② 飯能市 子の権現:天台宗・大鱗山雲洞院天龍寺
創建年 911年(延喜11年)。足利尊氏によって九州福岡の叶嶽のお地蔵さんが億武蔵の霊山に降臨し鎮座した。

地蔵菩薩立像 子の権現
埼玉県飯能市大字南461
右手に錫杖、左手に宝珠
子の権現のお守り御札の一部に巴文を発見

③ 飯能市 竹寺:天台宗・医王山薬寿院八王寺(子の権現と同門)
天安元年(857)、円仁(慈覚大師)の開山とされる。
文化財には、室町時代末期の摩訶毘盧遮那仏である「銅造大日如来坐像」と慶長16年(1611)の「線刻勝軍地蔵懸仏」があり、華厳密教および将軍地蔵信仰の足利尊氏の足跡と一体感が伺える。


(8)巴文様意匠デザインのルーツ

吉備真備によって広まった唐代の兵法書と陰陽道から「太極八卦図」の意匠デザイン化が意識的に起きたのである。

双龍文簋(そうりゅう)・シンメトリックドラゴン台湾
「「国故宮立博物館」西周早期 作宝葬紐
太極八卦図
  • 六勝寺の軒丸瓦

法勝寺は、承保3年(1076)に建立。白河天皇政期に造られた六勝寺の一つで、六つのうち最初にして最大の寺である。厚く保護されたが、度重なる火災と応仁の乱などで衰微廃絶し、今では忘れられているが、法王が「国家安康」を念ずる『華厳経』の寺院であった。

法勝寺跡 平安後期 古瓦
尊勝寺跡 平安後期 古瓦
尊勝寺跡 平安後期
大川清著『古代のかわら』P.220

(9)『華厳経』寺院の変遷

  • 法勝寺九重塔

奈良の旧都を模して、華厳経を旨とする白河天皇が、承保二年(1075)に造営開始し、承暦元年(1077)に毘廬舎那仏を本尊とする金堂の落慶供養が執り行われた。永保三年(1083)に高さ約80メートルの八角九重塔が完成した。京の東の出入り口に鎮座するこの巨大な塔に人々は度肝を抜いた。
「白河院は、もと藤原良房(よしふさ)の別荘で、北家藤原氏によって代々受け継がれてきたが、藤原師実(もろざね)の時、白河天皇に献上され、承保2年(1075)天皇によってこの地に法勝寺が建立された。法勝寺は、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺とともに六勝寺と総称された寺で、東は岡崎道より300メートル東、西は岡崎道、南は現在の動物園の南、北は冷泉通より50メートル南に囲まれた広大な寺域を有し、境内には、金堂、講堂、阿弥陀堂、法華堂、五大堂、八角堂、常行堂などの諸堂が立ち並んでいた。中でも、池の中島の八角九重塔は壮大な高塔であったといわれている。しかし、文治元年(1185)の大地震により九重塔以外の諸堂の大半が倒壊し、更に康永元年(1342)の火災により残る堂舎も焼失した。その後覚威和尚によって一部再建されたが、衰退の一途を辿り、やがて廃寺となった。左京区岡崎法勝寺町」(京都市観光協会)

法勝寺九重塔模型(京都市製作)
「平安時代から室町時代まで平安京の東郊、白河にあった仏教の寺院である。白河天皇が1076年(承保3年)に建立した。院政期に造られた六勝寺の一つで、六つのうち最初にして最大の寺である。皇室から厚く保護されたが、応仁の乱以後は衰微廃絶した」(模型説明書き)

六勝寺とは,院政期,天皇や中宮の発願で鴨川東岸の白河(現左京区岡崎)の地に建立された6つの寺院。いずれも「勝」の字がつくので六勝寺と総称されました。  
法勝寺:白河天皇御願。承暦元(1077)年落慶供養。  
尊勝寺:堀河天皇御願。康和4(1102)年落慶供養。  
最勝寺:鳥羽天皇御願。元永元(1118)年落慶供養。  
円勝寺:鳥羽天皇中宮待賢門院藤原璋子御願。大治3(1128)年落慶供養。  
成勝寺:崇徳天皇御願。保延5(1139)年落慶供養。  
延勝寺:近衛天皇御願。久安5(1149)年落慶供養。  
法勝寺八角九重塔2011年復元(81m)同1994年復元   醍醐寺五重塔天暦5年(951)建立(42m)
模型による塔サイズ比較
法勝寺八角九重塔復元立面図を比較する復元の参考とした醍醐寺五重塔は、現存する塔のなかでは規模が大きく、たいへん立派ですが、法勝寺八角九重塔とくらべると半分ほどの高さ

都と東国を結ぶ東海道のルート上という交通の要衝にあたるこの地

平安期の華厳を柱とする中心的大寺院:法勝寺九重塔と仁和寺の位置
都と東国を結ぶ東海道のルート上という交通の要衝地に鎮座。
一方、仁和寺は、西、東西、左右に盧遮那仏が鎮座する構図となる
  • 『仁和寺諸院家記(顕証本)』の法金剛院の華厳経供養記録

 仁和寺は平安時代後期、光孝天皇の勅願で仁和2年(886)に造営開始するが、天皇崩御で未完成、その遺志を引き継いだ子の宇多天皇によって仁和4年(888)に落成した。そこで元号をとって仁和寺と号した。宇多天皇によって仁和4年(888年)に落成した。根っ子のところでは、『華厳経』と毘盧遮那仏であるが、出家後の宇多法皇が住んでいたことから、「御室御所」(おむろごしょ)と称された。延喜元年(昌泰4年を改元)12月13日、宇多は受戒の師を益信として東寺で伝法灌頂を受けて、真言宗の阿闍梨となっている。動向を見ると、その後の変遷は少々複雑で、三つの顔を持つようになっている。①華厳経の六勝寺の顔、②真言宗の顔、③仁和寺の顔という三つ側面である。

【仁和寺御室の主だった丸瓦文様】


「仁和寺銘瓦」    「桜文瓦」   「阿弥陀如来梵字文瓦」 「巴文瓦」    
仁和寺の寺紋(桜)

【仁和寺御室と華厳経】

 宇多が真言宗の阿闍梨となったとしても①の華厳経の顔には変更はないことは、『御室相承記』4(高野御室、御堂供養御参事、法金剛院)より明らかである。「四十巻本華厳経の巻第41」の記事がある。 保延5年(1139)11月25日には法金剛院の三昧堂の供養が行われているこの三昧堂は、「瓦葺一間四面堂」とあることから、本瓦葺の1間(庇が四面に付くため、見た目の上は3間)で、恐らくは宝形造であったかとみられる。四面の扉には法華曼荼羅が描かれ、内部に七宝塔が安置された。この七宝塔には紺紙金泥の法華経1部8巻、無量義経・観普賢経それぞれ1部1巻、金光明経4巻、阿弥陀経・普賢行願品(四十巻本華厳経の巻第41)がそれぞれ1巻納められている。

 さらに、華厳宗中興の祖「明恵上人」が仁和寺御室で華厳経院景雅について法蔵『華厳五教章』を受学している。仁和寺の真言宗の顔は一面であり、実態は東大寺と連携した華厳修学の寺であった。この特質故に現在まで連綿と続いてきたいえるだろう。

明恵上人 華厳宗
承安3年 (1173)1月8日 - 寛喜4年(1232)/(旧暦)
仁和寺華厳院景雅について10歳から15歳まで法蔵『華厳五教章』を受学
国宝「華厳経并筥」明治5年撮影
仁和寺
仁和寺 金堂扁額
梵字「毘盧遮那」と解せる。元々は、法勝寺と伴に華厳経寺院だったか。
比較のために、下図を参照。
胎蔵界曼荼羅(内宮)
大神宮御正体厨子 奈良・西大寺
中央に盧遮那と読める光明真言の梵字
  • 天龍寺と足利尊氏 と日宋貿易

京都 天龍寺の寺紋提灯 室町時代
夢窓疎石の勧めで足利尊氏・直義兄弟が建立した禅寺


 足利尊氏によって建立され、京都五山の第一位に位置づけられている天龍寺の寺紋。「入れ違い雨龍」といわれているデザイン。位置が逆の形状だと南禅寺の寺紋となる。
天龍寺は、夢窓疎石の「敵味方の別なく冥福を祈れ」との勧めで尊氏が開山に尽力したもの。寺院造営のための財源もまた、「天龍寺船」という元貿易からの捻出という夢窓のアイデア、有力商人に貿易船派遣の許可を出し、帰国の際には利益に関わらず五千貫文を幕府に収めるという方式で成功。そうして夢窓は天龍寺の開山に迎えられ、出来上がった寺院は臨済宗夢窓派の一大拠点となっていった。

金銅製蓋(204)と褐釉陶器四耳壷(205)
史跡名勝嵐山内地区(天龍寺周辺)出土
12世紀後半の中国河南地方の製品

『墓跡から褐釉陶器四耳壷(205)や副葬品の土器類が出土した。壷(205)は樽型の形態で、口縁部は「く」字状に短く外反する。頸部下に2条の凹線を施し、その上に4個の横形の耳を貼り付けるが、うち1個は焼成時に欠落している。胴部下半はケズリ、口縁部内側と底部付近には目跡が残る。内外面とも浅黄色の釉を施し、さらに胴部上位から黒褐色の鉄釉を掛け流す。口縁部には金銅製蓋の緑青が付着する。口径9.1㎝、器高20.8㎝、胴部径14.4㎝を測る。胎土は暗赤褐色の粒を多く含み、焼成は良好である。金銅製蓋(204)を伴う。』」
  • 八坂神社の巴紋

八坂神社の軒丸瓦の巴文様

八坂神社の巴紋については武神である八幡神の神紋でもある。大陸から輸入した「破軍星」や「北辰」や「陰陽太極」といった「中華思想」は血肉になっていき、デザイン意匠としては微かに「太極思想」を漂わせている自然な流れになっていった。三つ巴紋はその到達点がある。三つ巴紋は「左三つ巴紋」と「右三つ巴紋」の二通りがある。そして、手を替え品を替え、多種多様に応用と展開が広範囲に起きてくる。また、思想的に考えて、幕末の「公武合体」のアイデアも自然に生まれてくるわけである。とにかく、面白い文様である。

  • 豊臣秀吉の華厳経政策

聚楽第の鐙瓦 径16cm聚楽第跡 室町時代
大川清著『古代のかわら』P.222
秀吉は関白にふさわしい邸館として天正14年(1586)旧大内裏跡の内野に聚楽第の造営をはじめ、翌年できあがった。瓦の表面には金箔をはり、豪華な亭館が軒をならぺていた。瓦文様は巴文である。

 関白秀吉は、天皇と同等あるいは上位という「公武合体」的な意味も込められていたと考えられる。方広寺の巨大な毘盧遮那仏建立をみても、足利幕府の思想的政治的システムを継承しながら、強力にバージョンアップしている。他方、三井寺(園城寺)は、文禄4年(1595)に欠所(寺領の没収、事実上の廃寺)を命じられた。山岳修験道場が、天皇政治システムに組み込まれた状態では、いつテロが起きるか、社会不安の種になるとみられたからである。信長公以来の寺社政策は、徳川家康も継承発展させている。結局、全ての修験者を山から降ろし、いわゆる里の寺社、いわゆるカスミ(霞)としたのである。

豊臣秀吉の毘盧遮那仏

現在の方広寺本尊盧舎那仏座像。往時の大仏の1/10の大きさの模像。
3代目大仏焼失後に本像の開眼供養が行われた。

下はケンペルの日記から

方広寺3代目毘盧遮那大仏。エンゲルベルト・ケンペルののスケッチ(1691年作)
ケンペルの日記によれば、大仏殿内部には巨大な大仏が一体鎮座しているのみで、他に仏像(脇侍)はなかったという。また大仏は八角形の金剛垣(柵)で囲まれていたという。

6.「造東大寺司沙金奉請文」

寺司が東大寺に安置している沙金の下付を請はんとしてその勅許を仰いだもの。「宣」の字のみが御宸筆。孝謙天皇の御宸筆で唯一残っているもの。なお「異筆」のところはこの勅許を得て東大寺が沙金を下したことを示す。
なお天平勝宝四年(七五二)には、孝謙天皇は大仏開眼をおこなう。天平勝宝八年(七五六)五月二日に聖武天皇が崩御、その皇女の孝謙天皇は、同年七月八日に聖武天皇遺愛の宝物を東大寺以下十八の寺に献納した。

「造東大寺司沙金奉請文」(『正倉院御物』)
沙金貳仟壹拾陸兩[有東大寺]  
右造寺司所請如件    
天平勝寶九歳正月十八日 宣  
巨萬朝臣「(自署)福信」
天平勝寳九年正月十八日主典美努連
長官佐伯宿祢 今毛人 
判官紀朝臣  池主 
竪子(じゅし)巨萬朝臣 福信 
葛木宿祢    戸主    
「造東大寺司沙金奉請文」(『正倉院御物』)拡大
沙金貮仟壹拾陸両
右依 御製奉塗大仏像料下充造寺司
天平勝寳九年正月廿一日
主典美努連造寺司長官佐伯宿祢  
判官紀朝臣   
竪子(じゅし)巨萬朝臣  
葛木宿祢    戸主

そして、この砂金が、埼玉県日高市の女影廃寺の金泥古瓦の金とシンクロするわけです。

東大寺廬舎那仏と同時代の砂金が使用されたと推定される古瓦

7 正岡子規 Vs. 藤原仲麻呂

(1)正岡子規 著『歌よみに与ふる書』の紹介

(上河内岳夫 現代語訳)から
『歌よみに与ふる書』は、正岡子規が1898年(明治31年)に新聞「日本」紙上に発表した歌論で、過激な評論とする向きもあるが、万葉の時代を調査して終わった現在の地点からは、至極当然のモノ言いだと得心する次第です。近代短歌のターニングポイントになった評論の一部を紹介する。
明治31年2月12日の「歌人に宛てる書簡」につづく、明治31年2月14日「再び歌人に宛てる書簡」の冒頭でいきなり、「紀貫之は下手な歌人で『古今集』は下らない歌集であります」と強烈なストレートパンチ。

∵∴∵∴∵∴∵「再び歌人に宛てる書簡」∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴
 紀貫之は下手な歌人で『古今集』は下らない歌集であります。その貫之や『古今集』を崇拝するのは誠に気の知れないことなどと言うものの、実はかく言う私も数年前までは『古今集』を崇拝する一人でありましたので、今日世間の人が『古今集』を崇拝する気分はよく承知しています。崇拝している間は歌というものは誠に優美で、ことに『古今集』はその粋を抜いたものとのみ思っていましたが、三年の恋が一時にさめて見れば、「あんないくじのない女に今まで化かされていたことか」と、悔しくも腹立たしくもなります。まず『古今集』という書物を手に取って第一頁を開くと、直ちに「去年こぞとやいはん今年ことしとやいはん」という歌が出てくる、実に呆あきれ返った無趣味な歌であります。日本人と外国人との「あいの子」を「日本人と言おうか外国人と言おうか」と洒落たと同じことで、洒落にもならないつまらない歌です。この他の歌も大同小異で、駄洒落か理屈っぽいもののみであります。それでも強いて『古今集』を褒めて言えば、つまらない歌ながら『万葉集』以外に一つの流儀をなした所が取り柄で、どのようなものでも初めてのものは珍しく思われます。単にこれを真似るだけを芸とする後世の奴こそ、気の知れない奴です。それも十年か二十年のことならともかくも、二百年たっても三百年たってもその糟粕を嘗めている不見識には驚き入ります。何代集だの彼かん代集だのと言っても、皆『古今集』の糟粕の糟粕の糟粕の糟粕ばかりでございます。∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴  

 子規の進めた近代短歌の様式のルーツは、まさに「万葉集」であると言っても過言ではないでしょう。いつ(When)、だれが(Who)、どこで(Where)、なにを(What)などの要素で、何よりも季語(When)を基軸に据えるというのは、橘政権下での通信手段のプロトコルになっている。従って、このプロトコルを知って使わないと、互いの通信が成り立たないのである。こういうセキュリティの高い通信手段を古代に確立したことに改めて感心する。
 子規が、「鶯」 ⇒「金衣公子」 ⇒「砂金」と理解しいるかどうかはわからないが、数多の「霍公鳥」の歌が季語として用いられていることから深い理解に至ったことは想像に難くない。決して、「本歌取り」などの形式に囚われないことをご忠告申し上げる。なぜなら、「本歌取り」のルーツは「法華経」の中の経文の偈(要約)であるから、バリエーションは無くなり陳腐化する。子規の卓見には感服。

(2)「藤原仲麻呂」の糟粕の糟粕の歌

ゴールドラッシュが一段落すると、これを狙った仲間外れの藤原仲麻呂らが砂金金脈を横取りし、この財力で、外交政策を対外侵略に大転換しようと試みた。この政治決定によって、大伴家持と百済王敬福らが一時的に振り回されることになる。このドタバタ政治劇の前後を上表にまとめた。上表からは、大伴家持と百済王敬福ら親衛隊は、藤原仲麻呂(恵美押勝)から離れた距離に居る。百済王敬福と水軍の大伴家持を味方に取り込めなていない状況では、仲麻呂がクーデター失敗で敗死するのは当然。
冤罪をでっち上げて、橘諸兄政権から陸奥の砂金権益を強奪した藤原仲麻呂、膨大な黄金を前にして目が眩み、絶対的な権力を得たと大勘違いしたのだろう。「金に目がくらむ」とはこのことだろう。

大伴家持は、あえて万葉集に仲麻呂のへたな歌を載せている。(自身の歌は未発表)、仲麻呂の高転びを予見していたのかもしれない。
【4487】「いざ子ども狂わざなせそ天地の堅めし国そ 大和島根は」
参照*《(2)「藤原仲麻呂」の糟粕の糟粕の歌》

大伴家持が藤原仲麻呂をどう見ていたか、万葉集歌にそれが分かる次の二首がある。藤原仲麻呂を見切っていた大伴家持の万葉集編纂。

万葉集19巻【4487】いざ子ども 狂わざなせそ天地の堅めし国そ
          大和島根は
【通釈】これ皆の者 たわけたことをしてはいけない 天と地の神が造って固めた国だ この大和の島国は(大炊王が皇太子になった年の新嘗祭翌日の宴で、仲麻呂が大炊王のあとに読んだ歌。冒頭でいきなり「いざ子ども」と威丈高しく詠みはじめる。「子ども」は「目下の者ども」という意味でしょう。「いざ子ども」とくれば、「オイ、てめえら!」と威張っているような幼児性を感じるのは私だけか?「天地の堅めし国そ大和島根は」と頭にのって続く。己に自信がない者は、このように出自に異常に拘るもの、よく見かける「高転び」タイプ、典型的な反面教師といえる。こういう上司とも付き合わなければならないのが世の常である。家持にとっては大きな壁が突然立ちはだかった。幸いにも家持には歌があり、歌友がいた。そうこうしているうちに、たった7年後に、仲麻呂は簡単に失脚する)こちらの歌は対象的、

万葉集19巻4242】天雲の行き帰りなむ ものゆゑに
          思ひぞ我がする 別れ悲しみ
【通釈】天の雲のように、行ってすぐ帰ってくることだろうが、私は物思いをしてしまいます。別れが悲しくて、という意味でしょうか。(仲麻呂の従弟、藤原清河が、遣唐使として唐へ渡ることになり、その送別会で詠った歌とされている。食えない上司でも、身内には異常なほどの心配りをするもので、心理学的にはこういうものなのだろう。まるで、野山に生息する獣たちの生態に近いものがある。光明子の眼は曇っていた。それは執着という期待だったのかもしれない。運命を狂わせたのは陸奥のゴールドラッシュのせいだと考えたい)

8 百済王敬福と産金功労者

(1)天平の陸奥守百済王敬福等の活躍

【人物像】(ウィキペディアから引用)
『細かいことに拘らず、勝手気ままに振る舞う性格で、非常に飲酒と色事を好んだ。一方で物わかりの良い性格で、政治の力量があった。時に官人や庶民が訪問して清貧のことを告げると、都度他人の物を借りて望外の物を与えた。このため、しばしば地方官を務めたが、家にゆとりの財産はなかったという。』
【経歴】
敬福に関する最初の記録は、天平一〇年(738年)の陸奥介から。
天平一〇年(738)この時期では、目立った存在ではない。当時四十一歳。
天平一〇年(738) 四月:見陸奥介
天平十一年(739) 四月十七日:従五位下
天平一五年(743) 六月三〇日:陸奥守
天平十八年(746) 四月十日:上総守。
天平十八年(746)九月十四日:陸奥守。
天平十八年(746)九月七日:従五位上
天平二十一年(749) 四月一日:従三位(越階)
天平勝宝二年(750) 五月十四日:宮内卿
時期不詳:兼河内守

(2)【続日本紀の刑部卿従三位百済王敬福薨の記述】

【原文
天平神護二年(766)六月壬子【廿八】》壬子。
『刑部卿従三位百済王敬福薨(こう)。其先者、出自百済国義慈王。高市岡本宮馭宇天皇御世。義慈王遣其子豊璋王及禅広王入侍。泪于後岡本朝廷。義慈王兵敗降唐。其臣佐平福信、剋復社稷。遠迎豊璋。紹興絶統。豊璋纂基之後。以譛横殺福信。唐兵聞之、復攻州柔。豊璋与我救兵拒之。救軍不利。豊璋駕船、遁于高麗。禅広因不帰国。藤原朝廷賜号曰百済王。卒贈正広参。子百済王昌成。幼年随父帰朝。先父而卒。飛鳥浄御原御世、贈小紫。子郎虞。奈良朝廷従四位下摂津亮。
敬福者、即其第三子也。放縦不拘。頗好酒色。感神聖武皇帝、殊加寵遇。賞賜優厚。時有士庶、来告清貧。毎仮他物。望外与之。由是。頻歴外任。家無余財。然性了弁。有政事之量。
天平年中。仕至従五位上陸奥守。時聖武皇帝、造盧舍那銅像。冶鋳云畢。塗金不足。而陸奥国馳駅。貢小田郡所出黄金九百両。我国家黄金、従此始出焉。聖武皇帝、甚以嘉尚。授従三位。遷宮内卿。俄加河内守。勝宝四年、拝常陸守。遷左大弁。頻歴出雲。讃岐。伊予等国守。神護初。任刑部卿。薨時、年六十九。』

【訳】
『刑部卿・従三位である百済王敬福が薨じた。先祖は百済国の義慈王。高市岡本宮で天下を治めた天皇の御世に、義慈王はその子の豊璋王と禅広王を派遣して、天皇に仕えるようにした。後岡本朝廷に至って、義慈王は戦いに破れて唐に降服した。その臣下である佐平福信は国家を再建し、遠く日本から豊璋を迎え、絶えていた王位を再興した。豊璋は王位についた後、讒言にもとづいて無道にも福信を殺した。唐兵は、それを聞いてまた州柔を攻撃した。豊璋は、救援兵を拒んだため、救援軍は不利となり、豊璋は船に乗って高句麗に逃げた。禅広は、そのため百済に帰らなかった。藤原朝廷に百済王という称号を賜わり、没後に正広参を賜る。
禅広の子である百済王昌成は、幼年のとき、父にしたがって日本に入朝し、父よりも先に死んだ。飛鳥浄御原の御世に、小紫を贈られた。昌成の子である郎虞は、奈良朝廷で従四位下・摂津亮になった。敬福は、彼の第三子である。敬福は、放縦で規則にとらわれず、酒色がとても好きだった。聖武天皇は、特に寵愛の優遇を加えられ、恩賞や賜わりものが多かった。
当時、敬福のもとに官人や人民がきて、清貧のことを告げると、その度、他人のものを借りて望外の物を与えた。そのため、しばしば地方官に任じられても、家に余財がなかった。しかし、天性的に分別力があって、政治的な力量があった。
天平年中に、従五位上・陸奥守になった。当時、聖武皇帝は、盧舍那の銅像を造った。鋳造は終わっていたが、鍍金する金が足りなかった。ところが、陸奥国から早馬をはせて、小田郡から出土した黄金九百両を貢上した。
わが国で、金が出たのは、このときにはじまった。聖武皇帝はとても喜んで、敬福に従三位を授け、宮内卿に転任させ、間もなく河内守を兼任させた。天平勝宝 四 年(752)、常陸守に任じ、左大弁に転任させた。勝宝四年、拝常陸守。遷左大弁。頻歴出雲。讃岐。伊予等国守と歴任し、天平神護のはじめ、刑部卿に任じられた。薨じたときは、六十九歳であった。』

(3)産金地と産金功労者

 聖武朝において、朝廷は東大寺盧舎那仏に塗る金の不足にも悩まされていたところ、天平二十一年(749年)に陸奥国小田郡で黄金が発見され、貢進された[。このことを記念して、同年四月に天平二十一年は【天平感宝元年】と改元された。また閏五月には大赦が行われ、父母を殺したり仏像を損なう者は除いて、全ての罪人が赦免された。続けて陸奥国司および黄金発見に関わった者に対する叙位が行われ、大麻呂は従五位下に叙爵した。この表から、敬福や足人の保護の下で、渡来人を中心に探索したことが伺える。

産金功労者

あとがき 

 1 海の向こうの大陸で、世界帝国となった唐の時代、シルクロードというグローバル経済市場が形成された。唐がもたらす進んだ政治・経済システムは極東アジアへと拡散し、遂には海を越えて日本列島にも少しづつ浸透していった。そしてグローバル経済社会システムとして完成したかに見えた。しかし、西暦715年に日本列島で起きた中央構造線連動型の超巨大地震の発災は、大陸シルクロードを列島の北端陸奥にまで強引に広げた。まさにその瞬間、全く偶然に、本州先端の地の陸奥でゴールドラッシュが起きた。その衝撃は計り知れないものがあったであろう。それは、1848年から起きた北米カリフォルニア州でのゴールドラッシュを観るようであった。モンタナ州でのリトルビッグホーンの戦いも第七騎兵隊のカスターの惨敗もウーンデッド・ニーの虐殺も千二百五十年前に上演されていたのである。

2 東大寺大仏造営の時代は、産金事業のはじまりと不可分の関係にある。
突然の産金事業の開始は、八世紀日本の経済・社会システムに決定的な影響を及ぼした。続日本紀と万葉集は、当時の翻弄されていく世相を克明に映す鏡となり、リアリティを持って迫ってくる。ゴールドラッシュは遣唐使の再開を力強く後押し、空海と最澄と橘速成は砂金、銀、水晶、絹織物、絹糸、麻などを満載して唐に渡った。爆買いしたことは記録にも残っている。船の三割は玄界灘に沈んでいるという。

3 一(ひと)欠片(かけら)の金泥古瓦が古代史に及ぼす影響は、計り知れないものがある。
地域史への影響は言うに及ばず、古代史の様々な謎を解く鍵を提供している。その余波は、中世史から近・現代史にまで及んでいる。取りあえずの成果を左記に列挙する。
・入間道も「おおやがはら」も入間郡であること。
・女影廃寺は古代入間郡の僧寺か尼寺であること。
・高萩地区は古代入間郡下と見なしていいでしょう。
・入間郡郡衙および出雲伊波比神社の特定精度が上がった。
・その他諸問題はこのシリーズが相互に補完し合っている。

4 敦煌莫高窟と陸奥産金に象徴されるシルクロード経済圏は余りにも東西に延びてしまった結果、これを整えて支える「力」の形成はもはや不可能であった。そして、律令制は未完のままに歴史に押し流されていった。
この東西に延びたシルクロード経済圏に気づいたのが大宰府勤務だった平清盛である。貿易決済として砂金と銀を担保に交換価値の通貨として宋銭を流通させたのである。世界に先駆けた「アジア的生産方式」の誕生である。これこそ、マルクスもマックスウェーバーも解明できずに死んでしまった重要テーマの要点だった。これ以上は、本資料集

附録1

【第1表】「陸奥国の人事」関連年表

【第1表】「陸奥国の人事」関連年表

【第2表】「蝦夷・陸奥の産金」関連年表

【第2表】「蝦夷・陸奥の産金」関連年表

附録2 万葉集編年目録 

(1)万葉集巻第17【3890~4031】

天平二年庚午の冬の十一月に、大宰師大伴卿が大納言に任けらえて京に上る時に、僚従等、別に海路を取りて京に入る。ここに覇旅を悲傷(かな)しび、おのもおのも所心を陳べて作る歌十首 3890~3897
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・天平十年の七月の七日の夜に、独り天漢を仰ぎて、いささかに懐を述ぶる歌一首、大伴宿禰家持 3900
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・天平十二年の十二月の九日に、大宰の時の一梅花に追ひて和ふる新しき歌六首.大伴宿禰家持 3901~3906
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・天平十三年の二月に、三香の原の新都を讃むる歌一首井せて短歌境部宿禰老麻呂 3907~3908  反歌 3908
・四月の二日霍公鳥を詠む歌二首、大伴家持 3909~3910
・四月の三日、鬱結の緒を散らす歌三首 大伴宿禰家持 3911~3913
租公鳥を思ふ歌一首田口朝臣馬長 3914
山部宿禰赤人春鶯(うぐいす)を詠む歌一首 3915
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天平十六年の四月の五日に、独り平城の故宅に居りて作る歌六首 大伴宿禰家持 3916~3921
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天平十八年の正月、雪零る日に、太上天皇の御在所に肆宴(とよのあかり)宴したまふ時の歌五首 
左大臣橘宿禰、詔に応ふる歌一首 3922 
紀朝臣清人、詔に応ふる歌一首 3923 
紀朝臣男梶、詔に応ふる歌一首 3924 
葛井連諸会、詔に応ふる歌一首 3925 
大伴宿禰家持、詔に応ふる歌一首 3926
大伴宿禰家持、天平十八年の閏の七月をもちて、越中の国の守に任けらゆる時に、姑大伴氏坂上郎女、家持に贈る歌二首 3927~3928 
・さらに越中の国に贈る歌二首 3929~3930
・平群氏女郎、越中守大伴宿禰家持に贈る歌十二首 3931~3942
八月七日の夜に、守大伴宿禰家持が館に集ひて宴する歌十三首 3943~3955
大目秦忌寸八千島が館にして宴する歌一首主人八千島 3956
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天平十八年の秋の九月の二十五日に、長逝せる弟を哀傷しぶる歌一首井せて短歌 越中守大伴宿禰家持 3957~3959
十一月に、大帳使、橡大伴宿禰池主が本任に還り至る時に、相歓ぶる歌二首越中守大伴宿禰家持 3960~3961
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天乎十九年の二月の二十日に,たまちに柾疾に沈み、ほとほとに泉路に臨む時に、悲緒を申ぶる歌一首井せて短歌守大伴宿禰家持 3962~3964
・二月の二十九日
に、橡大伴宿禰池主に贈る悲歌二首井せて序大伴宿禰家持 3965~3966
・古洗の二日に
、橡大伴宿禰池主、守大伴宿禰家持に答ふる歌二首井せて序 3967~3968
・三月の三日
に、大伴宿禰家持、さらに橡大伴宿禰池主に贈る歌一首井せて短歌 3969~3972
三月の四日、七言、晩春三日遊覧一首井せて序大伴宿禰池主 
三月の五日に、大伴宿禰池主、守大伴宿禰家持に和ふる歌一首 井せて 序 3973~3975 
三月の五日に、大伴宿禰家持、大伴宿禰池主に贈る七言一首並びに短歌 井せて序 3977
三月の二十日に、恋緒を述ぶる歌一首井せて短歌 大伴宿禰家持 3978~3982
三月の二十九日、立夏を経ぬること累日にして、なほし雀公鳥の喧かぬことを恨むる歌二首大伴宿禰家持 3983~3984
三月の三十日二上山の賦一首井せて短歌 大伴宿禰家持 3985~3987
四月の十六日の夜の裏に、遥かに雀公鳥の喧くを聞きて、懐を述ぶる歌一首 守大伴宿禰家持 3988
四月の二十日に大目秦忌寸八千島が館にして、守大伴宿禰家持を餞する宴の歌二首 守大伴宿禰家持 3989~3990
四月の二十四日に、布勢の水海に遊貌する賦一首井せて短歌守大伴宿禰家持 3991~3992
四月の二十六日に、敬みて布勢の水海に遊覧する賦に和ふる一首井せて一絶橡大伴宿禰池主  3993~3994
四月の二十六日に、橡大伴宿禰池主が館にして、税帳使、守大伴宿禰家持を餞する宴の歌 井せて古歌 四首 3995~3998
四月の二十六日に、守大伴宿禰家持が館に飲宴する歌一首 3999
四月の二十七日立山の賦一首井せて短歌 大伴宿禰家持 4000~4002
四月の二十八日に、敬みて立山の賦に和ふる一首井せて二絶 橡大伴宿禰池主 4003~40005
四月の三十日、京に入ることやくやくに近づき、悲情撥ひかたくして懐を述ぶる首井せて一絶大伴宿禰家持 4016~40007
五月の二日に、大伴宿禰池主、大伴宿禰家持が懐を述ぶる歌に報和ふる歌一首井せて二絶 4008~40010
九月の二十六日に、放逸れたる鷹を思ひて夢見、感悦びて作る歌一首(長歌)井せて短歌 守大伴宿禰家持 
4011~40154011: 大君の遠の朝廷ぞみ雪降る越と名に追へる
4012: 矢形尾の鷹を手に据ゑ三島野に猟らぬ日まねく月ぞ経にける
4013: 二上のをてもこのもに網さして我が待つ鷹を夢に告げつも
4014: 松反りしひにてあれかもさ山田の翁がその日に求めあはずけむ
4015: 心には緩ふことなく須加の山すかなくのみや恋ひわたりなむ,
・高市連黒人が歌一首 三国真人五百国伝誦 4016
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天平二十年の正月、二十九日、大伴宿禰家持が歌四首 4017~4020
大伴宿禰家持、春の出挙によりて諸郡を巡行し、時に当り所に当りて、属目して作る歌九首
礪波の郡雄神の川辺にして作る歌一首 4021
婦負の郡にして鵬坂の川辺を渡る時に作る歌一首 4022
鵜を潜くる人を見て作る歌一首 4023
新川の郡にして延槻川を渡る時に作る歌一首 4024
気太の神宮に赴き参り、海辺を行く時に田辺史福麻呂作る歌一首 4025
能登の郡にして香島の津より舟を発し、熊来の村をさして往く時に作る歌二首 4026~4027 
鳳至(ふげし)の郡にして饒石の川を渡る時に作る歌一首 4028
・珠洲の郡
より舟を発し、太沼の郡に還る時に、長浜の湾に泊り、月の光を仰ぎ見て作る歌一首4029
・鶯の晩く啼くを恨むる歌一首 大伴宿禰家持 4030
造酒みきたてまつる歌一首 大伴宿禰家持 4031

中臣の 太祝詞言 言ひ祓へ 贖ふ命も 誰がために汝れ」
(なかとみの ふとのりとごと いひはらへ あかふいのちも たがためになれ)
右、大伴宿禰家持がよめる。


(2)万葉集巻第18【4032~4115】

天平二十年の春の三月の二十三日に、左大臣橘家の使者、造酒司令史田辺史福麻呂に、守大伴宿禰家持が館にして宴す。ここに新しき歌を作り、併せてすなわち古き詠をうたひ、おのもおのも心緒を述ぶ。4032~4035 
4032: 奈呉の海に舟しまし貸せ沖に出でて波立ち来やと見て帰り来む
4033: 波立てば奈呉の浦廻に寄る貝の間なき恋にぞ年は経にける
4034: 奈呉の海に潮の早干ばあさりしに出でむと鶴は今ぞ鳴くなる
4035: 霍公鳥いとふ時なしあやめぐさかづらにせむ日こゆ鳴き渡れ
・時に、明日に布勢の水海に遊覧せむことを期ひ、、よりて、懐を述べておのもおのも作る作る歌十首 二十四日 4036~4043
三月の二十五日に、布勢の水海に往くに、
4036: いかにある布勢の浦ぞもここだくに君が見せむと我れを留むる
4037: 乎布の崎漕ぎた廻りひねもすに見とも飽くべき浦にあらなくに
4038: 玉櫛笥いつしか明けむ布勢の海の浦を行きつつ玉も拾はむ
4039: 音のみに聞きて目に見ぬ布勢の浦を見ずは上らじ年は経ぬとも
4040: 布勢の浦を行きてし見てばももしきの大宮人に語り継ぎてむ
4041: 梅の花咲き散る園に我れ行かむ君が使を片待ちがてら
4042: 藤波の咲き行く見れば霍公鳥鳴くべき時に近づきにけり
天平二十年三月二十五日 、布勢の水海に往くに、道中、馬上にて口号ぶ二首
4043: 明日の日の布勢の浦廻の藤波にけだし来鳴かず散らしてむかも
4044: 浜辺より我が打ち行かば海辺より迎へも来ぬか海人の釣舟
4045: 沖辺より満ち来る潮のいや増しに我が思ふ君が御船かもかれ
三月の二十五日に、水海に至りて遊覧する時に、おのもおのも懐を述べて作る歌十
五首 4046~4051・三月の二十六日に、橡久米朝臣広縄が館にして、田辺史福麻呂に饗する宴の歌四首 4052~4055
・太上皇、難波の宮に御在す時の歌七首
・左大臣橘宿禰が歌一首 4056
・御製歌一首 4057
右の二首の件の歌は、御船江(かわ)を泝(さかのぼ)り遊宴する日に、左大臣が奉、併せて御製。
・御製歌一首 4058
・河内女王が歌一首 4059
・粟田女王が歌一首 4060
右の件の歌は、左大臣橘卿が宅に在して肆宴したまふ時の御歌、併せて奏歌。注「右件歌者、在於左大臣橘卿之宅肆宴御歌并奏歌也」
・御船綱手をもちて江を泝り、遊宴する日に作る。 4061~4062
・後に橘の歌に追ひて和ふる歌二首 大伴宿禰家持 4063~4064 
・射水の郡の駅の館の屋の柱に顕著す歌一首 山上臣 4065 
四月の一日に、橡久米朝臣広縄が館にして宴する歌四首 4066~4069
天平二十一年の三月、先の国師の従僧清見(せいけん)、京師に入らむとするによりて、饗宴する時に、主人大伴宿禰家持が歌三首  4070~4072
三月の十五日に、越前の国の橡大伴宿禰池主が来贈(おこ)する歌三首  4073~4075 
三月の十六日に、越中の国の守大伴家持が報へ贈る歌四首  4076~4079 
・姑大伴氏坂上郎女、越中の守大伴宿禰家持に来贈する歌二首  4080~4081
・四日に、越中の守大伴宿禰家持が報ふる歌井せて所心三首  4082~4083
・報ふる歌二首
・別に所心一首 4084
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天平感宝元年の五月の五日に、東大寺の占墾地使の僧平栄等に饗す。時に、守大伴宿禰家持、酒を僧に送る歌一首 4085
五月の九日に、諸僚、少目秦伊美吉石竹が館に会ひて飲宴する時に、主人、百合の花蔓三枚を造りて賓客に捧げ贈るに、おのもおのも蔓を賦して作る三首 4086~4088「同月(天平感寶元年五月:西暦749年)九日、諸僚(しょりょう:役人らを指す)少目(しょうさかん:役職のひとつ)秦伊美吉石竹(はたのいみきいはたけ)の舘に會(あ)ひて飲宴す。ここに主人(あるじ)白合の花縵(はなかづら)三枚を造り、豆器(とうき:食器の一種)に疊(かさ)ね置き賓客(ひんきゃく)に捧(ささ)げ贈る。各(おのおの)この縵を賦(ふ)して作る三首」
五月の十日に、独りとばりの幄に居り、遥かに霧公鳥の喧くを聞きて作る歌一首井せて短歌 4089~4092
反歌 
英遠の浦に行く日に作る歌一首 大伴宿禰家持 4093
天平感宝元年の五月の十二日に、陸奥の国に金を出だす詔書を賀く歌一首 井せて短歌 大伴宿禰家持 4094~4097
反歌 
五月の十四日応、吉野の離宮に幸行す時のために、儲けて作る歌一首井せて短歌 大伴宿禰家持 4098~4100
反歌
五月の十四日に、京の家に贈るために、真珠を願ふ歌一首井せて短歌 大伴宿禰家  4101~4105
五月の十五日に、史生尾張少咋を教へ喩す歌一首井せて短歌守大伴宿禰家持  4106~4109
反歌三首 
五月の十七日に、先妻、夫君の喚ぶ使を待たずして自ら来る時に、作る歌一首 大伴宿禰家持  4100
・閏の五月の二十三日、橘の歌一首井せて短歌 大伴宿禰家持  4111~4112 反歌一首 
・閏の五月の二十六日に、庭中の花を見て作る歌一首井せて短歌 大伴宿禰家持  4113~4115

万葉集巻第19・巻第20巻‥‥抜粋‥‥

「万葉集巻第20」は他の巻と大きく異なる構成となっている。そのため、家持以外の人物による編集とする「学者」もいる。しかし、今回、産金事業の事始めという経済的社会的ファクターを取り入れて再考することで、特異な巻ではなく、家持らの明確な「編集意図」が読み取れる。
 
天平十八年(746)六月、宮内少輔より越中国守に遷され、同国に赴任した。越中では下僚の大伴池主とさかんに歌を贈答し、また異郷の風土に接した新鮮な感動を伝える歌を詠む。
天平二十年(748)四月、元正上皇が崩御すると作歌はしばらく途絶えるが、
天平二十年(749)四月、聖武天皇の東大寺行幸における詔を機に再び創作は活発化し、「陸奥国より黄金出せる詔書を賀す歌」など多くの力作を矢継ぎ早に作った。
天平勝宝二年(750)春には「春苑桃李の歌」など、越中時代の秀作を次々に生み出す。
天平勝宝三年(751)七月、少納言に遷任され、まもなく帰京。当時、政治の実権は光明皇太后と藤原仲麻呂によってほぼ掌握されていたが、家持は左大臣橘諸兄や右大弁藤原八束らのグループに近く、政治的にはやや不遇な立場に身を置いたと言える。
天平勝宝五年(753)二月の所謂「春愁三首」(万葉集巻十九巻末)に唄われた孤独感は、当時の家持の境涯と無関係ではないと思われる。
天平勝宝六年(754)四月には兵部少輔に転任し、翌年防人閲兵のため難波に赴き、防人の歌を蒐集、自らは「防人の悲別の心を痛む歌」などを作った。
天平勝宝八年(756)二月、橘諸兄は聖武上皇誹謗の責により左大臣を辞任。
天平勝宝八年(756)五月には永年主君と仰いだ聖武太上天皇が崩じた。
天平勝宝八年(756)六月、出雲守大伴古慈悲が讒言により解任された事件に際し、「族を喩す歌」を作り、同族に対し自重と名誉の保守を呼びかけた。
天平勝宝九年(757)正月、橘諸兄が薨去。同年六月、兵部大輔に昇進。

天平勝宝九年(757)二月に「橘奈良麻呂の変」があり、大伴・佐伯氏の多くが連座したが、家持は咎めを受けた形跡がない。この頃、大原今城・三形王・大中臣清麻呂らと交流、多くの宴歌を残している。20巻4476~4480と続く。この間、「歌を作り詩を賦す」と記す。とりあえず、この間の歌詠みをたどってみよう。(勝宝九年(757)六月二三日 大監物三形王宅にて宴する。家持は仲麻呂の歌の3つ前に次の歌を配置している。驚くことに、この日時というが、橘奈良麻呂の変の発覚の五日前である。)

・20巻4483「移り行く時見るごとに心痛く昔の人し思ほゆるかも」
20巻4484「咲く花は うつろふ時あり あしひきの 山管の根し 長くありけり」
【通釈】はなやかに咲く花はいつか色褪せて散り過ぎる時がある。しかし、目に見えぬ山菅の根こそは、ずっと変わらず長く続いているものなのであった。
*山菅とは、カヤツリグサ科スゲ属で地味ながら細く長く続く茎の植物
・20巻4485「時の花いやめずらしもかくしこそ見し明らめめ秋立つごとに」
【通釈】季節の花、この花は見れば見るほど心引かれる。今ここに見られるままにずっとご覧になって私どもの願いどおりに御心を晴らされることであろう。秋が来るたびごとに、ずっと。
 天平勝宝九年(757)1月、橘奈良麻呂の父、橘諸兄が失意のうちに七十四歳で死去する。
この歌のあとには、非業の死をとげた大津皇子の辞世の歌が続く。
・万葉集巻3-416  大津皇子
「ももづたふ 盤余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」

【通釈】長年、盤余の池で鳴いている鴨を見てきたが、今日限りで私はあの世に行ってしまうのだろうかさらに家持の歌がずらりと続く。
そのなかには、ときの皇太子が亡くなったことを嘆く長歌もある。この皇太子の死を境に、大伴一門をはじめ産金事業関係者は弾圧される。それに反して藤原家出身の仲麻呂をはじめ、藤原氏の勢力は増大していく。それに同期するように冷めた構成の歌詠み集になってゆく。出来すぎた編集と言えるのではないだろうか?
 天平宝字二年(758)六月、右中弁より因幡守に遷任される。同年八月、恵美押勝(藤原仲麻呂)の後援のもと、淳仁天皇が即位。

・万葉集巻20【4506~4516】
二年前に崩じた聖武天皇に向け、永遠の思慕を詠う
標訓 興に依りて各 高円の離宮処(とつみやところ)を思(しの)ひて作れる歌五首

・4506 「高円の野の上の宮は荒れにけり立たしし君の御代遠そけば」
私訳 高円の野の高台にある宮の屋敷は荒れてしまったようだ。屋敷を建てられた皇子の生前の時代は遠くなったので。
右一首、右中辨大伴宿祢家持
・4507 「高円の野の上の宮は荒れにけり立たしし君の御代遠そけば」
訓読 高円(たかまと)の峰の上の宮は荒れぬとも立たしし君の御名忘れめや
私訳 高円の高台にある宮の屋敷は荒れ果てたとしても皇子のお名前は忘れるでしょうか。
右一首、治部少輔大原今城真人
・4508「高円の野辺延ふ葛の末つひに千代に忘れむ我が王(おおきみ)かも」
私訳 高円の野辺に生える葛の蔓が長く延びるように千代の後に忘れられるような我が王の御名でしょうか。
右一首、主人中臣清麿朝臣
・4509「延ふ葛の絶えず偲はむ王の見しし野辺には標結ふべしも」
私訳 野辺に延びる葛の蔓が絶えないように御偲びする王が眺められた高円の野辺に農民に荒らされないように禁制の標を結ぶべきでしょう。
右一首、右中辨大伴宿祢家持
・4510「王の継ぎて見すらし高円の野辺見るごとに哭(ね)のみし泣かゆ」
私訳 葬られた場所から王が今も見ていられるでしょう。高円の野辺を見るたびに亡くなられたことを怨みながら泣けてしまう。
右一首、大蔵大輔甘南備伊香真人

【山齊(しま)を属目(しょくもく)して作る歌三首】
(次に、馬酔木(あしび)の歌が三首)
・4511「鴛鴦の住む 君がこの山斎今日見れば あしびの花も咲きにけるかも」
(オシドリが来て棲みついているあなたの家のこの庭に 今日来て見ると
なんとアシビの花まで咲いておりました)
*この一首は、大監物御方王
・4512「池水に影さへ見えて 咲きにほふあしびの花を袖に扱入れな」
(池の水面に影まで映し とてもみごとに咲いている アシビの花を袖いっぱいに しごいて取って入れたいなあ)
* この一首は、右中弁大伴宿祢家持
4513「磯影の見ゆる池水照るまでに咲けるあしびの散らまく惜しも」
(岸辺の影が映って見える 池の水面も照るほどに みごとに咲いたアシビの花が散るのは惜しいことだなあ)
* この一首は、大蔵大輔 甘南備伊香真人

【収録最後尾の三首】
・5514「青海原風波なびき行くさ来さ つつむことなく船は早けむ」

(青々とした大海原に風は穏やか波静か 行きも帰りも事故に遭わずに 船ははやく進むでしょう)
※ この一首は、右中弁大伴宿祢家持。 詠み上げていない〉
二月十日、内相の家で、渤海大使小野田守朝臣らの送別の宴を開いたときの歌一首
 ※「内相」とは皇后宮職を紫微中台に改称した行政機関 長官はあの藤原仲麻呂〉
 ・4515「秋風の末吹きなびく萩の花ともにかざさず相(あい)か別れむ」
(秋の風吹いて葉先のなびく 萩の花を折り取って ともにかざして楽しむことも ないままお別れするのだね)
七月五日、治部少輔大原今城真人の家で、因幡守大伴宿祢家持の送別の宴を開いたときの歌一首 
※「因幡守」 因幡:鳥取県東部の旧国名。
 ・4516「新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事(よごと)」
翌宝字三年(759)正月、因幡の国の庁にして、饗(きょう)を国郡の司等に賜ふ宴の歌一首。
万葉集の巻末歌(制作年の明記された最後の歌)、この時、家持四十二歳
 
家持は、万葉集巻二十に特別の構成を取り、存念を込めたものだった。その背景は、産金事業の覇権争いで冤罪を仕掛けられた者たちの静かな怒りが感じられるものに仕上がっている。橘奈良麻呂の変から藤原仲麻呂の乱までの人間模様が生き生きと浮かび上がる巻二十である。

∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴その後の大伴家持の動静∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴
なお、「産金賛歌」以降「天平勝宝6年(754年) 4月5日」からの家持の動静を簡略して下記に示す。対岸の大陸の唐の政治的動乱による影響で内外とも目まぐるしく活動する大伴家持の姿が浮かぶ。万葉集という暗号による通信手段は最早必要は無くなっていただろうと推察する。

天平勝宝6年(754年) 4月5日:兵部少輔。11月1日:山陰道巡察使
天平勝宝9年(757年) 6月16日:兵部大輔。日付不詳:見右中弁[10]
天平宝字2年(758年) 6月16日:因幡守天平宝字6年(762年) 正月9日:信部大輔
天平宝字8年(764年) 正月21日:薩摩守
神護景雲元年(767年) 8月29日:大宰少弐に転じ、称徳朝では主に九州地方の地方官を務めている
神護景雲4年(770年) 6月16日:民部少輔。
神護景雲4年(770年)9月16日:左中弁兼中務大輔。
神護景雲4年(770年)10月1日:正五位下
宝亀2年(771年) 11月25日:従四位下
宝亀3年(772年) 2月16日:式部員外大輔
宝亀5年(774年) 3月5日:相模守、止左中弁。9月4日:左京大夫兼上総守
宝亀6年(775年) 11月27日:衛門督
宝亀7年(776年) 3月6日:兼伊勢守
宝亀8年(777年) 正月7日:従四位上
宝亀9年(778年) 正月16日:正四位下
宝亀11年(780年) 2月1日:参議。
宝亀11年(780年)2月9日:右大弁
天応元年(781)4月、光仁天皇病気のため譲位、桓武天皇が践祚
天応元年(781年) 4月14日:同母弟早良親王が立太子すると、春宮大夫を兼ねた
天応元年(781年)4月15日:正四位上。
天応元年(781年)5月7日:兼左大弁、春宮大夫如元。
天応元年(781年)8月8日:復任(母服喪)。
天応元年(781年)11月15日:従三位。
天応元年(781)12月、光仁太上天皇没(73)
12月23日:山作司(光仁上皇崩御)
天応2年(782年) 正月19日:解官(氷上川継の乱連座)。
天応2年(782年)4月:宥罪、復任
天応2年(782年)5月17日:兼春宮大夫。
天応2年(782年)6月17日:兼陸奥按察使鎮守将軍
延暦2年(783年) 7月19日:中納言
延暦3年(784年) 2月:持節征東将軍
延暦4年(785年) 8月28日:薨去(中納言従三位兼行春宮大夫陸奥按察使鎮守府将軍)。薨年は68歳?
延暦4年(785年)9月24日:除名(藤原種継暗殺事件)
延暦25年(806年) 3月17日:復位(従三位)

附録3「霍公鳥」関連の元歌リスト

 霍公鳥(ほととぎす)を詠んだ歌 は153首のリスト(橘の花と一緒に詠まれている)。万葉集 巻第16【3786~3889】からは詠まれた年月日が明記されている。下記に霍公鳥を詠んだ歌 153首を掲載する。∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴
万葉集 巻第8

夏雑歌
1465: 霍公鳥いたくな鳴きそ汝が声を五月の玉にあへ貫くまでに
1466: 神奈備の石瀬の社の霍公鳥毛無の岡にいつか来鳴かむ
1467: 霍公鳥なかる国にも行きてしかその鳴く声を聞けば苦しも
1468: 霍公鳥声聞く小野の秋風に萩咲きぬれや声の乏しき
1469: あしひきの山霍公鳥汝が鳴けば家なる妹し常に偲はゆ
1470: もののふの石瀬の社の霍公鳥今も鳴かぬか山の常蔭に
1472: 霍公鳥来鳴き響もす卯の花の伴にや来しと問はましものを
1473: 橘の花散る里の霍公鳥片恋しつつ鳴く日しぞ多き
1474: 今もかも大城の山に霍公鳥鳴き響むらむ我れなけれども
1475: 何しかもここだく恋ふる霍公鳥鳴く声聞けば恋こそまされ
1476: ひとり居て物思ふ宵に霍公鳥こゆ鳴き渡る心しあるらし
1477: 卯の花もいまだ咲かねば霍公鳥佐保の山辺に来鳴き響もす
1480: 我が宿に月おし照れり霍公鳥心あれ今夜来鳴き響もせ
1481: 我が宿の花橘に霍公鳥今こそ鳴かめ友に逢へる時
1482: 皆人の待ちし卯の花散りぬとも鳴く霍公鳥我れ忘れめや
1483: 我が背子が宿の橘花をよみ鳴く霍公鳥見にぞ我が来し
1484: 霍公鳥いたくな鳴きそひとり居て寐の寝らえぬに聞けば苦しも
1486: 我が宿の花橘を霍公鳥来鳴かず地に散らしてむとか
1487: 霍公鳥思はずありき木の暗のかくなるまでに何か来鳴かぬ
1488: いづくには鳴きもしにけむ霍公鳥我家の里に今日のみぞ鳴く
1490: 霍公鳥待てど来鳴かず菖蒲草玉に貫く日をいまだ遠みか
1491: 卯の花の過ぎば惜しみか霍公鳥雨間も置かずこゆ鳴き渡る
1493: 我が宿の花橘を霍公鳥来鳴き響めて本に散らしつ
1494: 夏山の木末の茂に霍公鳥鳴き響むなる声の遥けさ
1495: あしひきの木の間立ち潜く霍公鳥かく聞きそめて後恋ひむか
1497: 筑波嶺に我が行けりせば霍公鳥山彦響め鳴かましやそれ
夏相聞
1498: 暇なみ来まさぬ君に霍公鳥我れかく恋ふと行きて告げこそ
1499: 言繁み君は来まさず霍公鳥汝れだに来鳴け朝戸開かむ
1501: 霍公鳥鳴く峰の上の卯の花の憂きことあれや君が来まさぬ
1505: 霍公鳥鳴きしすなはち君が家に行けと追ひしは至りけむかも
1506: 故郷の奈良思の岡の霍公鳥言告げ遣りしいかに告げきや
大伴家持、橘の花を攀(よ)ぢて、坂上大嬢に贈る歌と短歌
1507: いかといかとある我が宿に百枝さし.......(長歌)
1509: 妹が見て後も鳴かなむ霍公鳥花橘を地に散らしつ∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴
万葉集 巻第9
1755: 鴬の卵の中に霍公鳥独り生れて己が父に.......(長歌)>
1756: かき霧らし雨の降る夜を霍公鳥鳴きて行くなりあはれその鳥
∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴
万葉集 巻第10
夏雑貨

1937: 大夫の出で立ち向ふ故郷の神なび山に.......(長歌)
1938: 旅にして妻恋すらし霍公鳥神なび山にさ夜更けて鳴く
1939: 霍公鳥汝が初声は我れにもが五月の玉に交へて貫かむ
1940: 朝霞たなびく野辺にあしひきの山霍公鳥いつか来鳴かむ
1942: 霍公鳥鳴く声聞くや卯の花の咲き散る岡に葛引く娘女1943: 月夜よみ鳴く霍公鳥見まく欲り我れ草取れり見む人もがも
1944: 藤波の散らまく惜しみ霍公鳥今城の岡を鳴きて越ゆなり
1945: 朝霧の八重山越えて霍公鳥卯の花辺から鳴きて越え来ぬ
1946: 木高くはかつて木植ゑじ霍公鳥来鳴き響めて恋まさらしむ
1947: 逢ひかたき君に逢へる夜霍公鳥他時よりは今こそ鳴かめ
1948: 木の暗の夕闇なるに霍公鳥いづくを家と鳴き渡るらむ>
1949: 霍公鳥今朝の朝明に鳴きつるは君聞きけむか朝寐か寝けむ
1950: 霍公鳥花橘の枝に居て鳴き響もせば花は散りつつ
1951: うれたきや醜霍公鳥今こそば声の嗄るがに来鳴き響めめ
1952: 今夜のおほつかなきに霍公鳥鳴くなる声の音の遥けさ
1953: 五月山卯の花月夜霍公鳥聞けども飽かずまた鳴かぬかも
1954: 霍公鳥来居も鳴かぬか我がやどの花橘の地に落ちむ見む
1955: 霍公鳥いとふ時なしあやめぐさかづらにせむ日こゆ鳴き渡れ
1956: 大和には鳴きてか来らむ霍公鳥汝が鳴くごとになき人思ほゆ
1957: 卯の花の散らまく惜しみ霍公鳥野に出で山に入り来鳴き響もす
1958: 橘の林を植ゑむ霍公鳥常に冬まで棲みわたるがね
1959: 雨晴れの雲にたぐひて霍公鳥春日をさしてこゆ鳴き渡る
1960: 物思ふと寐ねぬ朝明に霍公鳥鳴きてさ渡るすべなきまでに
1961: 我が衣を君に着せよと霍公鳥我れをうながす袖に来居つつ
1962: 本つ人霍公鳥をやめづらしく今か汝が来る恋ひつつ居れば
1963: かくばかり雨の降らくに霍公鳥卯の花山になほか鳴くらむ
1968: 霍公鳥来鳴き響もす橘の花散る庭を見む人や誰れ
1976: 卯の花の咲き散る岡ゆ霍公鳥鳴きてさ渡る君は聞きつや
1977: 聞きつやと君が問はせる霍公鳥しののに濡れてこゆ鳴き渡る
1978: 橘の花散る里に通ひなば山霍公鳥響もさむかも
1979: 春さればすがるなす野の霍公鳥ほとほと妹に逢はず来にけり
1980: 五月山花橘に霍公鳥隠らふ時に逢へる君かも
1981: 霍公鳥来鳴く五月の短夜もひとりし寝れば明かしかねつも
1991: 霍公鳥来鳴き響もす岡辺なる藤波見には君は来じとや∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴
万葉集 巻第12

3165: 霍公鳥飛幡の浦にしく波のしくしく君を見むよしもがも∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴
万葉集 巻第13

3352: 信濃なる須我の荒野に霍公鳥鳴く声聞けば時過ぎにけり
∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴
万葉集 巻第15【3578~3785】

3754: 過所なしに関飛び越ゆる霍公鳥多我子尓毛止まず通はむ
3780: 恋ひ死なば恋ひも死ねとや霍公鳥物思ふ時に来鳴き響むる
3781: 旅にして物思ふ時に霍公鳥もとなな鳴きそ我が恋まさる
3782: 雨隠り物思ふ時に霍公鳥我が住む里に来鳴き響もす
3783: 旅にして妹に恋ふれば霍公鳥我が住む里にこよ鳴き渡る
3784: 心なき鳥にぞありける霍公鳥物思ふ時に鳴くべきものか
3785: 霍公鳥間しまし置け汝が鳴けば我が思ふ心いたもすべなし∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴
万葉集 巻第16【3786~3889

天平13年4月2日
3909: 橘は常花にもが霍公鳥住むと来鳴かば聞かぬ日なけむ
3910: 玉に貫く楝を家に植ゑたらば山霍公鳥離れず来むかも
天平13年4月3日
3911: あしひきの山辺に居れば霍公鳥木の間立ち潜き鳴かぬ日はなし
3912: 霍公鳥何の心ぞ橘の玉貫く月し来鳴き響むる
3913: 霍公鳥楝の枝に行きて居ば花は散らむな玉と見るまで
3914: 霍公鳥今し来鳴かば万代に語り継ぐべく思ほゆるかも天平16年4月5日
3916: 橘のにほへる香かも霍公鳥鳴く夜の雨にうつろひぬらむ
3917: 霍公鳥夜声なつかし網ささば花は過ぐとも離れずか鳴かむ
3918: 橘のにほへる園に霍公鳥鳴くと人告ぐ網ささましを
3919: あをによし奈良の都は古りぬれどもと霍公鳥鳴かずあらなくに
∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴
天平16年8月7日
3946: 霍公鳥鳴きて過ぎにし岡びから秋風吹きぬよしもあらなくに
∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴
天平19年3月20日
3978: 妹も我れも心は同じたぐへれどいやなつかしく相見れば.......(長歌)
天平19年3月29日
3983: あしひきの山も近きを霍公鳥月立つまでに何か来鳴かぬ
3984: 玉に貫く花橘をともしみしこの我が里に来鳴かずあるらし
天平19年4月16日
3988: ぬばたまの月に向ひて霍公鳥鳴く音遥けし里遠みかも
天平19年4月26日
3993: 藤波は咲きて散りにき卯の花は.......(長歌)
3996: 我が背子が国へましなば霍公鳥鳴かむ五月は寂しけむかも
3997: 我れなしとなわび我が背子霍公鳥鳴かむ五月は玉を貫かさね
天平19年4月30日
4006: かき数ふ二上山に神さびて立てる栂の木.......(長歌)
4007: 我が背子は玉にもがもな霍公鳥声にあへ貫き手に巻きて行かむ
天平19年5月20日
4008: あをによし奈良を来離れ天離る鄙にはあれど.......(長歌)
∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴
【万葉集 巻第18】

天平20年3月23日
4035: 霍公鳥いとふ時なしあやめぐさかづらにせむ日こゆ鳴き渡れ
左大臣橘家の使者
4042: 藤波の咲き行く見れば霍公鳥鳴くべき時に近づきにけり
4043: 明日の日の布勢の浦廻の藤波にけだし来鳴かず散らしてむかも
天平20年3月25日
4050: めづらしき君が来まさば鳴けと言ひし山霍公鳥何か来鳴かぬ
4051: 多古の崎木の暗茂に霍公鳥来鳴き響めばはだ恋ひめやも
天平20年3月26日
4052: 霍公鳥今鳴かずして明日越えむ山に鳴くとも験あらめやも
4053: 木の暗になりぬるものを霍公鳥何か来鳴かぬ君に逢へる時
4054: 霍公鳥こよ鳴き渡れ燈火を月夜になそへその影も見む
天平20年4月1日
4066: 卯の花の咲く月立ちぬ霍公鳥来鳴き響めよ含みたりとも
4067: 二上の山に隠れる霍公鳥今も鳴かぬか君に聞かせむ
4068: 居り明かしも今夜は飲まむ霍公鳥明けむ朝は鳴き渡らむぞ
4069: 明日よりは継ぎて聞こえむ霍公鳥一夜のからに恋ひわたるかも
∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴
天平21年4月4日
4084: 暁に名告り鳴くなる霍公鳥いやめづらしく思ほゆるかも
∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴
天平感宝元年年5月5日(天平21年)
4089: 高御倉天の日継とすめろきの神の命の.......(長歌)
4090: ゆくへなくありわたるとも霍公鳥鳴きし渡らばかくや偲はむ
4091: 卯の花のともにし鳴けば霍公鳥いやめづらしも名告り鳴くなへ
4092: 霍公鳥いとねたけくは橘の花散る時に来鳴き響むる
天平感宝元年5月14日
4101: 珠洲の海人の沖つ御神にい渡りて.......(長歌)
天平感宝元年5月23日
4111: かけまくもあやに畏し天皇の.......(長歌)
天平感宝元年5月23日
4116: 大君の任きのまにまに取り持ちて.......(長歌)
天平感宝元年5月27日
4119: いにしへよ偲ひにければ霍公鳥鳴く声聞きて恋しきものを
∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴
【万葉集 巻19】

天平勝宝2年3月20日
4166: 時ごとにいやめづらしく八千種に草木花咲き.......(長歌)
4168: 毎年に来鳴くものゆゑ霍公鳥聞けば偲はく逢はぬ日を多み
4169: 霍公鳥来鳴く五月に咲きにほふ.......(長歌)
天平勝宝2年3月23日
4171: 常人も起きつつ聞くぞ霍公鳥この暁に来鳴く初声
4172: 霍公鳥来鳴き響めば草取らむ花橘を宿には植ゑずて
天平勝宝2年4月3日
4175: 霍公鳥今来鳴きそむあやめぐさかづらくまでに離るる日あらめや
4176: 我が門ゆ鳴き過ぎ渡る霍公鳥いやなつかしく聞けど飽き足らず
4177: 我が背子と手携はりて明けくれば.......(長歌)
4178: 我れのみし聞けば寂しも霍公鳥丹生の山辺にい行き鳴かにも
4179: 霍公鳥夜鳴きをしつつ我が背子を安寐な寝しめゆめ心あれ
4180: 春過ぎて夏来向へばあしひきの.......(長歌)
4181: さ夜更けて暁月に影見えて鳴く霍公鳥聞けばなつかし
4182: 霍公鳥聞けども飽かず網捕りに捕りてなつけな離れず鳴くがね
4183: 霍公鳥飼ひ通せらば今年経て来向ふ夏はまづ鳴きなむを
天平勝宝2年4月3日
4189: 天離る鄙としあればそこここも.......(長歌)
天平勝宝2年4月9日
4192: 桃の花紅色ににほひたる面輪のうちに.......(長歌)
4193: 霍公鳥鳴く羽触れにも散りにけり盛り過ぐらし藤波の花
4194: 霍公鳥鳴き渡りぬと告ぐれども我れ聞き継がず花は過ぎつつ
4195: 我がここだ偲はく知らに霍公鳥いづへの山を鳴きか越ゆらむ
4196: 月立ちし日より招きつつうち偲ひ待てど来鳴かぬ霍公鳥かも
天平勝宝2年4月12日
4203: 家に行きて何を語らむあしひきの山霍公鳥一声も鳴け
天平勝宝2年4月22日
4207: ここにしてそがひに見ゆる我が背子が.......(長歌)
4208: 我がここだ待てど来鳴かぬ霍公鳥ひとり聞きつつ告げぬ君かも
天平勝宝2年4月23日
4209: 谷近く家は居れども木高くて里はあれども.......(長歌)
4210: 藤波の茂りは過ぎぬあしひきの山霍公鳥などか来鳴かぬ
天平勝宝3年4月16日
4239: 二上の峰の上の茂に隠りにしその霍公鳥待てど来鳴かず
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【万葉集 巻第20】

天平勝宝6年4月
4305: 木の暗の茂き峰の上を霍公鳥鳴きて越ゆなり今し来らしも
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天平勝宝7年3月3日
4437: 霍公鳥なほも鳴かなむ本つ人かけつつもとな我を音し泣くも
4438: 霍公鳥ここに近くを来鳴きてよ過ぎなむ後に験あらめやも
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天平勝宝8年3月20日
4463: 霍公鳥まづ鳴く朝明いかにせば我が門過ぎじ語り継ぐまで
4464: 霍公鳥懸けつつ君が松蔭に紐解き放くる月近づきぬ

附録4 歌詠み場所の時系列集

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【万葉集 巻第17】


【3952】妹が家に伊久里の社の藤の花今来む春も常かくし見む
 この一首は、大目(だいさかん)秦忌寸八千島(はだのいみきやちしま)。
古歌一首〈大原高安真人(たかやすまひと)が作った〉年月は不明。ただ伝え聞いた順序に従ってここに記載する。
①「伊久理(いくり)」:富山県砺波市井栗谷
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【3954】馬並めて いざうち行かな 渋谿の 清き磯廻に 寄する波見に
渋谿を さしてわが行く この浜に 月夜飽きてむ 馬しまし止め
②「渋谿(しぶたに)」:高岡市太田(雨春)の海岸、「渋谿の崎」:富山県高岡市渋谷。この付近の海岸に突出した地形。
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【3955】玉くしげ 二上山に 鳴く鳥の 声の恋しき 時は来にけり
③「二上山」:山富山県高岡市北方にある山。この山の麓、小矢部川の河口近くに越中の国府があった
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【3956】東風 いたく吹くらし 奈呉の海人の 釣する小舟 漕ぎ隠る見ゆ
④「余呉の海」:高岡市から射水にかけての海岸(国府の東)
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二上山の賦一首〈この山は射水郡に有り〉
【3986】射水川 い行き巡れる 玉くしげ 二上山は 春花の 咲ける盛りに 秋の葉の にほへる時に 出で立ちて 振り放け見れば 神からや そこば貴き 山からや 見が欲しからむ 統め神の 裾廻の山の 渋谿の崎の荒磯に 朝なぎに 寄する白波 夕なぎに 満ち来る潮の いや増しに 絶ゆることなく 古ゆ 今の現に かくしこそ 見る人ごとに かけてしのはめ
⑤「射水川」:現在の小矢部川。富山県・石川県・岐阜県の県境付近に発し、小矢部市と高岡市を通過して富山湾にそそぐ。
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布勢の水海に遊覧したときの賦一首と短歌〈この海は射水郡の旧江村にある〉
【3991】もののふの 八十伴の男の 思ふどち 心遣らむと 馬並めて うちくちぶりの 白波の 荒磯に寄する 渋谿の崎たもとほり 松田江の 長浜過ぎて 宇奈比川 清き瀬ごとに 鵜川立ち か行きかく行き 見つれども そこも飽かにと 布勢の海に 船浮け据ゑて 沖辺漕ぎ 辺に漕ぎ見れば 渚には あぢ群騒き 島廻には 木末花咲き ここばくも 見のさやけきか 玉くしげ 二上山に 延ふつたの 行きは別れず あり通ひ いや年のはに 思ふどち かくし遊ばむ 今も見るごと
➅「布勢の水海」富山県氷見市南方にあった湖。
➆「松田江の長浜」:富山県高岡市から氷見市にかけての長い砂浜。
⑧「宇奈比川」:氷見市北方を流れる宇波川
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立山の賦一首と短歌〈この山は新川郡にある〉
【4000】天離る 鄙に名かかす 越の中 国内ことごと 山はしも しじにあれども 川はしも さはに行けども 統め神の 領きいます 新川の その立山に 常夏に 雪降り敷きて 帯ばせる 片貝川の 清き瀬に 朝夕ごとに 立つ霧の 思ひ過ぎめや あり通ひ いや年のはに よそのみも 振り放け見つつ 万代の 語らひぐさと いまだ見ぬ 人にも告げむ 音のみも 名のみも聞きて ともしぶるがね
⑨「新川(にいかわ)」:富山県東部の地 
⑩「片貝川(かたかいがわ)」:富山県の魚津市と黒部市の市境を流れて富山湾にそそぐ川
⑪「立山(たちやま)」:富山県南東部の立山連峰
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思いがけず『京に上ろうとして思いを述べた歌』を拝見し、お別れすることは悲しく耐えがたく、恨めしい気持ちが抑えきれません とりあえず思いを歌にして差し上げる一首と短歌二首
【4008】あをによし 奈良を来離れ 天離る 鄙にはあれど 我が背子を 見つつしをれば 思ひ遣る こともありしを 
 大君の 命恐み 食す国の 事取り持ちて 若草の 足結たづくり 群鳥の 朝立ち去なば 後れたる 我や悲しき 旅に行く 君かも恋ひむ 思ふそら 安くあらねば 嘆かくを 留めもかねて 見渡せば 卯の花山の ほととぎす 音のみし泣かゆ 朝霧の 乱るる心 
 言に出でて 言はばゆゆしみ 礪波山 手向の神に 幣奉り 我が祈ひのまく はしけやし 君がただかを ま幸くも ありたもとほり 月立たば 時もかはさず なでしこが 花の盛りに 相見しめとぞ
⑫「砺波山(となみやま)」富山県小矢部市西方の山
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【4011】矢形尾の鷹を手に据ゑ 三島野に猟らぬ日まねく 月そ経にける
⑬「三島野」:越中国府の南東、高岡市付近から射水市にかけての野
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逃げて行った鷹を恋い慕い、夢に見てうれしくなって作った歌一首と短歌
【4015】 心には緩ふことなく須加の山すかなくのみや恋ひ渡りなむ
⑭「須加(すか)の山」:富山県高岡市にあった山、二上山の西の山か
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高市連黒人の歌一首〈年月は不明〉
【4016】婦負の野のすすき押しなべ降る雪に宿借る今日し悲しく思ほゆ
⑮「婦負(めひ)の野」:富山県射水市付近の野〈かつて富山県婦負郡(ねいぐん)、越中国婦負郡(めひのこおり)の地名があった〉
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【4020】越の国の信濃〈浜の名なり〉の浜を行き暮らし長き春日も忘れて思へや
⑯「信濃の浜」:未詳。富山県射水市放生津潟付近の海岸かといわれる
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礪波の郡の雄神川のほとりで作った歌一首
【4021】雄神川 紅にほふ 娘子らし 葦附取ると 瀬に立たすらし
⑰「礪波郡(となみのこおり)」越中四郡のひとつ。富山県小矢部市・砺波市・南砺市と高岡市の西部。
⑱「雄神川(おかみがわ)」:岐阜県に発し砺波平野を北流して富山湾にそそぐ庄川の古称。
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婦負の郡にして鵜坂の川辺を渡る時に作る歌一首
4022鵜坂川渡る瀬多みこの我が馬の足掻きの水に衣濡れにけりし
⑲「婦負郡(めひのこおり)」:越中四郡のひとつ。およそ、富山県富山市の神通川以西と射水市の一部。
⑳「鵜坂(うさか)」:神通川流域の富山市婦中町に鵜坂という地名がある
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鵜を潜らせて魚をとる人を見て作った歌一首
【4023】婦負川の 速き瀬ごとに 篝さし 八十伴の男は 鵜川立ちけり
㉑「婦負川」:婦負郡を流れる川〈神通川の下流域での名か〉
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【4025】志雄道(しおじ)から直(ただ)越え来れば羽咋(はくい)の海(うみ)朝なぎしたり船楫(ふなかじ)もがも
㉒「氣太の神宮」:石川県羽咋市寺家町の気多大社
㉓「志雄道」:富山県氷見市から石川県羽咋郡志雄町(現在の宝達志水町)へ行く山越えの道。
㉔「羽咋」:能登国羽咋郡(はくいのこおり)。家持のころは越中国に属した。能登半島の西南部。
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能登の郡にして香島の津から船を発し、熊来の村をさして往く時に作った歌二首
【4026】飛総立て船木伐(き)るといふ能登の島山 今日見れば木立(こだち)繁しも幾代神びそ(※「とぶさ」:梢や枝葉の茂った先。きこりが木を伐ったあとに、これを立てて山の神を祀る神事)
【4027】香島より熊来をさして漕(こ)ぐ船の楫(かじ)取る間なく都し思ほゆ
㉕「能登の郡」:能登四郡のひとつ。石川県鹿島郡と七尾市の地。
㉖「香島(かしま)の津」:石川県七尾市の港。
㉗「能登の島山」:七尾湾中央の能登島
㉘「熊来村(くまきのむら)」:石川県七尾市中島町の熊木川下流域一帯。
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鳳至の郡にして饒石の川を渡った時に作った歌一首
【4028】妹に逢はず久しくなりぬ饒石川清き瀬ごとに水占延へてな
㉙「鳳至(ふげし)」:鳳至郡で饒石川を渡ったときに作った歌一首
㉚「鳳至郡」:能登四郡のひとつ。石川県輪島市と鳳珠郡の一部。
饒石川(にぎしがわ)」:現在の仁岸川。石川県輪島市門前町を流れて日本海にそそぐ。
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珠洲郡から船出して太沼郡に帰ったときに、長浜湾に停泊して月の光を仰ぎ見て作った歌一首
【4029】珠洲の海に朝開きして漕ぎ来れば長浜の浦に月照りにけり
㉜「珠洲(すず)郡」:能登四郡のひとつ。能登半島の先端部。石川県珠洲市と珠洲郡の地。
㉝「太沼郡」:未詳、国府付近か 
㉞「長浜の浦」:富山県氷見市から高岡市にかけての「松田江の長浜」
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【4030】「鶯(うぐいす)」鶯の鳴くのが遅いことを恨めしく思って作った歌一首
うぐひすは今は鳴かむと片待てば霞たなびき月は経につつ

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【4031】「酒を造る歌一首」
中臣(なかとみ)の太祝詞言(ふとのりとごと)言ひ祓(はら)へ贖(あか)ふ命(いのち)も誰(た)がために汝(なれ)

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【万葉集 巻第18】


掾久米朝臣広縄が館にして、田辺史福麻呂に饗する宴の歌四首
右の二首は大伴宿禰家持  前の件の歌は、二十六日に作る
【4055】可敝流廻の道行かむ日は 五幡の坂に 袖振れ我れをし思はば
㉟「可敝流(かえる)」:福井県南条郡南越前町南今庄にあった帰(かえる)(伊藤脚注)
㊱「五幡(いつはた)」:福井県敦賀市五幡。帰から西へ越えた敦賀湾の岸(伊藤脚注)
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英遠の浦に行った日に作った歌一首
【4093】英遠の浦に寄する白波いや増しに立ちしき寄せ来あゆをいたみかも
㊲「英遠(あお)の浦」富山県氷見市阿尾の海岸。

附録5『前原市文化財調查報告書』

以下、『前原市文化財調查報告書』の概要を紹介する。この報告書は、太平洋戦争末期と戦後の混乱期に、前原市の歴史遺産が致命的なダメージを受けたことを、大正時代に怡土城址の保存に尽力した郷土史家「木下讃太郎氏」に取り上げたことで明らかになったことは、大きな成果である。ダメージを如何に克服するかが課題であろう。この報告書を下記に紹介する。

  • 今日までの発掘調査の経緯

恰土城に関する本格的な発掘調査は、昭和11年(1936) の九州帝国大学(現九州大学)による発掘調査が最初になる。その発掘調査の成果を基に昭和13年8月8日(昭和19年6月5日一部追加)文部大臣より、恰土城の遺構の一部(土塁の一部及び礎石群等)は国指定史跡に指定される。その面積は26.Shaである。
ところが、昭和16年(1941) に太平洋戦争が勃発し、昭和20年(1945) の終戦をむかえるまで恰土城の解明は中断を余儀なくされる。さらに、時期は不明ではあるが、開発が恰土城郭内(指定地外)にも及んでいたようで、恰土城郭内に所在したと想定される礎石群の礎石の一部が恰土城郭外に移築されているのを確認している。
昭和47年(1972) に恰土城郭内(指定地外)に再び開発計画がおこり、文化財保護法に基づき福岡県教育委員会により発掘調査が実施される。その後も国、県の補助を受けて前原市(平成4年10月に市政施行)が発掘調査を実施し、今日にいたるまで恰土城の解明及び史跡保存に努めている。
その結果、一部ではあるものの、徐々に恰土城の構造が解明されている。

  • 木下讃太郎コレクションと大圓寺遺物(古瓦)

「平成11年(1999)11月、前原市教育委員会では伊都歴史資料館(現伊都国歴史博物館)を会場として「怡土城とその時代」展を開催した。その際、各方面から資料に借用などで多大なるご協力を賜ったのであるが、その特別展の終了後、福岡市博物館の林文理氏より貴重な情報を入手した。それは大圓寺(福岡県福岡市中央区唐入町所在)が伊都歴史資料館所蔵の鬼瓦とは異なったデザインの伝怡土城とされる鬼瓦を所蔵しているというものであった。そこで、後日、大圓寺を訪ねて、木下讃太郎氏が生前収集していたという遺物(古瓦)を実見した。(瓜生秀文 前原市教員委員会調査担当主査)』

【木下讃太郎氏について】『木下讃太郎氏は明治8年 (1875)4月l8日、福岡県福岡市で誕生し、昭和37年 (1962) 1月28日に死去するまで多数の実績を遺した福岡市在住の地方史家である。ここでは、木下氏の実績のなかで怡土城に関するものを紹介したしい (『福岡日日新聞』による)
大正6年(1917) 6月 10日に糸島郡恰土村大門の稲戸常吉氏の報告を受けて、当時、糸島史談会会長であった木下氏以下、糸島史談会員が恰土村の東方一帯の丘陵部(詳しい場所につしては不明 )を発掘調査してい る。同年6月2 3日にも糸島史談会員会一行が恰土城址を踏査し、城郭内で警報壺(望楼跡) を発見して いる。同年8月上旬、「恰土城址記念碑」建碑計画が発足。会長に木下氏が就任している。 同年 8月上旬「恰土城址記念碑」建碑計画が決定され、それに伴い同年8月 8日に木下氏は恰土村民一同を高祖金龍寺に集めて恰土城に関する講演会を行っている。 なお、 「恰土城址記念碑」は大正7年(1918)2月上旬に建立の許可が下り てい る。また、 恰土城址保存会においしては恰土城址実測大地図を作成するために、木下氏の指揮の下に測量に着手していしる。写真(下)は、大圓寺に保管されている木下氏の記念写真の一枚で、怡土城の土塁(場所は不明大門地区か)の一部を発掘調査した際のものと思われる。写真の裏に「大正三年 怡土城にて」と裏書があるから、大正3年にも怡土城の土塁の一部を発掘調査しているかもしれない。木下氏は怡土城を精力的に調査しており、大圓寺所蔵の遺物(古瓦)には、大正年間の調査の際に表採もしくは出土したものがふくまれてしいる可能性があると思われる。(瓜生秀文 前原市教員委員会調査担当主査)』

大鳥居口城門北側土塁上部の祠
木下コレクションより
画像処理により鉄格子も確認できる
  • 大圓寺の木下讃太郎コレクション(古瓦)

『大圓寺に所蔵されている怡土城跡出土と伝えられている遺物(古瓦)は、整理・未整理を分を含むとパンコンテナー約3~5箱くらいになり、平瓦の破片が大半を占めている。それらを復元すると、幅約29cm、縦の長さ約41cm、厚さ約4cm、重さ約10kgを測る厚手の平瓦となる。胎土に2mm程の白色砂粒を含み、焼成は良好である。調整は内側に布目が残り、外側は網目状の調整痕を残す。
これらは通常の平瓦よりもかなり厚く、怡土城からも多く出土している。この厚手の平瓦について、栗原和彦氏は「怡土城の新営に採用された瓦は、厚手の網目叩きの平瓦で怡土城に限って用いられたようである」と指摘している。この他に丸瓦・軒丸瓦・鬼瓦を各一点確認しているが、丸瓦と軒丸瓦に関しては他の遺跡からの混入の可能性があるためここでは割愛する。(中略)
以上が現在確認できる大圓寺の木下コレクションであるが、かって木下氏はこの他にも怡土城に関連する造物(古瓦)を所有していたようである。その一部が大圓寺に保管されている木下氏の記録写真としてのこされている。この写真には平瓦が一枚、軒丸瓦が2片収められている。写真の裏には「大正三年 怡土城址 (高祖山)」と裏書があることから、これらも大正年間の調査時に出土したものと推定される。平瓦は厚手で大圓寺所蔵の平瓦と同種のもの。軒瓦は中房に1+8の蓮子を配し、その周辺に複弁7つと単弁lつとからなる「変則的な複弁八弁蓮花文」*をもつタイプとみられる。このタイプの軒丸瓦ば怡土城郭内からの出土が知られており、同じ瓦当文様は筑前国分寺からも出土してしいる。国分寺造営や恰土城の築城期から8世紀中頃に編年されてしいる。』(瓜生秀文 前原市教員委員会調査担当主査)

大圓寺の木下コレクション(写真のみ)
平瓦と軒丸瓦
  • 大圓寺所蔵の鬼瓦

大圓寺所蔵の鬼瓦
  • 怡土城の主要な遺構と概調査地点図

怡土城の主要な遺構と概調査地点図




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