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超巨大地震と城柵官衙時代(上)


はじめに

 戦後三四半世紀以上経つにもかかわらず、日本の古代史研究は未だに皇国史観を払拭しきれていないから、科学的に研究を進めようとするのは容易なことではない。後進性故に、幾人かの英雄伝説や夢物語のおとぎ話などの奇想天外な歴史劇場でお茶を濁しているケースが多い。空想と科学との折り合いをつけることができない古代史研究の現状は、古代史ばかりでなく中世史、近現代史にとっても不毛な結果を量産している。人間の精神的で観念的なものは、尽きることのない泉のように自然に溢れ出すものではなく、曲がりくねった長い道のりを歩む中、刻々と変化する外的要因によって入力された情報を頭脳の中で処理した結果に過ぎない。そしてまた、その精神的な生活が逆に人間的な実践的営みに変化を引き起こす。こうして振り返ると後ろには道がつくられている。だから、「人間はつねに、自分が解決しうる課題だけを自分に提起する」とか逆説的に、「問題が何であるか見つかるまでは解決はできない」などと言う。
 だが、科学が際限なく細分化された結果、本来、複雑に相互作用する総体としての自然・経済・社会システムの運動である歴史が、偏狭な領域での安定解を求めがちになる。古代史研究でも余裕がないというか、『古事記』、『日本書紀』に感ける一方で、『続日本紀』を軽く見る向きが散見される。「歴史地震研究」という分野でも残念ながら、『古事記』、『日本書紀』への盲信と偏重によるミスリードが見られた。しかし幸いにも、誤認のお陰で重大な発見に結果したのだから、古代に生きた人々とともに感謝申し上げたいくらいである。

瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ

『続日本紀』の記述検索結果

【第1表】 「知識」関連記述


『又大伴佐伯宿祢波 常母 云如久 天皇朝守仕奉事、顧奈 人等尓阿礼波 汝多知乃 祖止母乃 云来久  海行波美豆久屍 山行波草牟須屍 王乃幣尓去曾死米 能杼尓波不死(ウミユカバミヅクカバネ、ヤマユカバクサムスカバネ、オホキミノヘニコソシナメ、ノドニハシナジ ) 止 云来流 人等 止奈母 聞召須』   
《*1》能杼尓波不死止(のどには死なじ)以下、『万葉集』と『続日本紀』の異なる語句 。万葉集巻十八:4094 大伴家持『万葉集』第十八天平感宝元年五月越中守大伴家持陸奥国より黄金の出でしを賀して詠みし長歌の一節、
「大伴能遠都祖神乃(オホトモノトホツカムオヤノ)、其名乎婆大来目主登(ソノナヲバオホクメヌシト)、於比母知弖都加倍之官(オヒモチテツカヘシツカサ)、海行者美都久屍(ウミユカバミヅクカバネ)、山行者草牟須屍(ヤマユカバクサムスカバネ)、大皇乃敝爾許曽死米(オホキミノヘニコソシナメ)、可弊里見波勢自止許等太弖(カヘリミハセジトコトダチテ)、丈夫乃伎欲吉彼名乎(マスラヲノキヨキソノナヲ)、伊爾之敝欲伊麻乃乎追通爾(イニシヘヨイマノヲヅヅニ)、奈我佐敝流於夜能子等毛曽(ナガサヘルオヤノコドモゾ)」
大伴家持の手による『万葉集』、特に巻第十七、十八、十九、二十は『続日本紀』の編纂と表裏一体をなすことがこの表から汲み取ることもできるでしょう。従来収録された後方のこの分冊はほとんど検討されてこなかった部分。家持の真骨頂は「巻第十八」4094の「陸奥の国に金を出だす詔書を賀く歌」を中心に、巻第十七、十八、十九、二十として編纂されていることにこそ見出されるものでしょう。

《注1》『海行波 美豆久屍、山行波 草牟須屍、王乃幣尓去曾死米、能杼尓波不死止 云来流人等止奈母 聞召須。』
(ウミユカバミヅクカバネ、ヤマユカバクサムスカバネ、オホキミノヘニコソシナメ ノドニハシナジ )
1. 能杼尓波不死止(のどには死なじ)以下⇐『万葉集』と『続日本紀』の異なるのは大伴家持の長歌の要約なのでしょう。意味は通じている。
2.万葉集巻十八:4094 大伴家持
『万葉集』第十八天平感宝元年五月越中守大伴家持陸奥国より黄金の出でしを賀して詠みし長歌の一節、
「大伴能遠都祖神乃(オホトモノトホツカムオヤノ)、
其名乎婆大来目主登(ソノナヲバオホクメヌシト)、
於比母知弖都加倍之官(オヒモチテツカヘシツカサ)、
海行者美都久屍(ウミユカバミヅクカバネ)、
山行者草牟須屍(ヤマユカバクサムスカバネ)、
大皇乃敝爾許曽死米(オホキミノヘニコソシナメ)、
可弊里見波勢自止許等太弖(カヘリミハセジトコトダチテ)、
丈夫乃伎欲吉彼名乎(マスラヲノキヨキソノナヲ)、
伊爾之敝欲伊麻乃乎追通爾(イニシヘヨイマノヲヅヅニ)、
奈我佐敝流於夜能子等毛曽(ナガサヘルオヤノコドモゾ)」

【第2表】 「柵」関連 記述


1 霊亀元年超巨大地震

「元正超巨大地震」と中央構造線
和銅七年(714)、和銅八年(霊亀元年)(715)の東国での災禍とその対策は『続日本紀』に記録されている。この災害記録と深く関係すると考えられるのが、中央構造線連動型の巨大地震である。国土地理院のシームレス地質図と大鹿村中央構造線博物館の資料と解説を以下に引用する。

(1)    伊勢湾・赤石山脈の中央構造線】

伊勢湾・赤石山脈の中央構造線
(国土地理院のシームレス地質図)
日本列島縦断する中央構造線略図
(大鹿村中央構造線博物館の資料)

 『愛知県では、中央構造線の谷は三河湾になっています。今から二万年前の氷河が広がった時代には海面は120m低く、伊勢湾や三河湾の底より海面が低く、豊川の河口は伊勢湾口よりも外にありました。中央構造線を掘り下げて流れた豊川の谷は三河湾内まで続いていたと考えられます。一万一千年前に氷期が終わり、海面が上昇して豊川の谷は水没して三河湾になりました。谷の南側の水没を免れた高まりが渥美半島です。氷期には瀬戸内海の底よりも海面が下がっていて、四国の佐田岬半島の地形も渥美半島と同じです。ただし佐田岬半島の岩石は三波川変成帯の変成岩ですが、三河湾では三波川変成帯の部分はほとんど三河湾の下に水没していて、伊良湖岬などの渥美半島に露出している古い岩石は三波川変成帯の南側に並走している秩父帯の岩石です。ただしボーリングにより、渥美半島の北方に砂州が伸びた立馬崎の下を中央構造線が通っていることが分かっています。

(2)  大鹿村中央構造線博物館

中央構造線博物館と岩石園

 大鹿村中央構造線博物館は、長野県と静岡県の県境、南アルプスの主峰赤石岳の山麓にあります関東から九州へ日本列島を縦断する大断層「中央構造線」のほぼ真上に建っています。そのために、建物の外に走っている「中央構造線」上の「内帯」と「外体」の岩石標本が見学できます。休館日でも庭の岩石園は見られますので必見です。   

(3)中央構造線周辺の国土地理院のシームレス地質図

(着色部が付加体)

 『中央構造線は伊勢市付近からしだいに北東方向へ向きを変えていきます。新城市の長篠城付近から豊橋までは、ほぼ豊川沿いになります。豊橋は中央構造線が侵食された谷を川の堆積物や縄文時代に海面が上昇して湾になったときの堆積物が埋めてできた平野の上にあります。豊川の河床では新城市内の桜淵まで行くと古い岩石が露出しています。桜淵に見えているのは三波川変成帯の変成岩で、新城市役所との間に中央構造線が通っています。長篠城が豊川(寒狭川)に面した崖に地質境界としての中央構造線が露出しています。新城市鳳来町大野からは宇連(うれ)川沿いの湯谷温泉は通らず、阿寺七滝南方の小さな谷に沿って、浜松市佐久間町川上へ出ます。そこから相川と大千瀬川に沿って中部天竜へ。中部天竜と佐久間の間だけ天竜川が中央構造線沿いを流れています。中央構造線は佐久間から北条(ほうじ)峠を通って水窪(みさくぼ)へ続きます。
中央構造線は、このあたりで南北方向へ向きを変え、水窪~天竜二俣~天竜河口から南海トラフへ続く赤石構造線と一体になります。赤石構造線は伊豆‐小笠原列島の衝突を受けて、おそらく千五百年万年前ごろに誕生した中央構造線よりずっと新しい断層です。伊豆‐小笠原列島の衝突により、中部地方の古い地質帯は北方へ曲げられて行きましたが、同時に水窪以北の中央構造線は再活動して外帯側が北方へずれ動かされていきました。その南方の延長上に赤石構造線が外帯を切って生じました。
また赤石構造線と平行に、少し東側の和田~森に光明断層も生じました。赤石構造線と光明断層に挟まれた地帯を「赤石構造帯」と言います。これらの断層の横ずれによって、東側が60km北方にずり上がりました。断層をはさんだ相手側が左へ動くようにずれるので、このずれ方を「左横ずれ」と言います。
このころの四国では中央構造線の内帯側が外帯側へ押し被さる逆断層の再活動をしていました。したがってこの1500万年前以降は、中央構造線は切れ切れになり1本の断層ではなくなります。中央構造線に注目する場合、この茅野市~水窪の赤石構造帯と一体の左横ずれの活動期を「赤石時階」といいます。一方、赤石構造帯と一体となってしまったこの地域の中央構造線を「赤石構造帯の一部としての中央構造線」と呼ぶ人もいます。
天竜川は、佐久間から南では、この比較的新しい時代に大きくずれた赤石構造線を掘り下げて流れています。では上流ではどうでしょうか。じつは現在の地殻変動で地形的な大きな変動ブロックの境界になっているのは、中央構造線ではなく伊那谷(活)断層帯です。そこでは地形的な南アルプスのブロック(赤石傾動地塊)の西縁に、中央アルプスのブロックが押し被さるように上昇しています。その境界に生じているのが逆断層の伊那谷(活)断層帯です。中央構造線は隆起している南アルプスブロックの中の古傷になっています。南アルプスの区間の中央構造線も活断層になっていますが、伊那谷断層の方が活動度が一桁速い活断層です。この伊那谷断層がつくっている相対的な低地帯を天竜川が流れています。
したがって天竜川の本流は、上流では伊那谷断層帯が造っている低地帯を流れ、下流では隆起している赤石山地南部を赤石構造線沿いに下刻して流れています。赤石山地では上昇中の主稜線から伊那谷へ向かって三峰川、小渋川、遠山川が流れていますが、それらのさらに支流が中央構造線を下刻して、茅野から水窪に至り、さらに赤石構造線沿いの天竜川本流の谷に連続する南北方向の一直線の谷が刻まれています。
水系の境界には全体としては大きな谷の中ですが、侵食され残った「谷中分水界(こくちゅうぶんすいかい)の峠があります。それをたどると、静岡県水窪から青崩(あおくずれ)峠を越えて長野県に入り、飯田市遠山~地蔵峠~大鹿村~分杭(ぶんくい)峠~伊那市長谷(はせ)・高遠(たかとお)町東方~杖突(つえつき)峠~茅野(ちの)市の諏訪大社前宮付近へ続きます。これが中央構造線の位置になります。この区間の遠山の程野、大鹿の安康(あんこう)と北川、長谷の溝口、高遠の板山などで、地質境界としての中央構造線が露出しています。遠山の程野では、活断層としての地形のくいちがいも見られます。」(以上は、大鹿村中央構造線博物館ホームページから引用)

2  霊亀元年超巨大地震の記録

和銅七年~霊亀元年の主な災害記録を下表にまとめた。 


『続日本紀』によれば。和銅八年五月廿五・廿六日に遠江国と駿河国で巨大地震が発生している。いわゆる霊亀元年「超巨大地震」の記録は、以下の通り。
 ①    「続日本紀」和銅八年五月二十五日の記述
「遠江国地震・山崩壅麁玉河・水為之不流・経数十日・潰沒敷智・長下・石田三郡民家百七十余區・并損苗。」(麁玉河(あらたまがわ:天竜川の昔の名前)を塞(ふさ)ぎ、数十日後に決壊、氾濫して、民家百七十余区が水没した)。
 ②    「続日本紀」和銅八年五月二十六日の記述
「参河国地震。壞正倉■七。又百姓廬舍往々陷沒」 この前年秋には大きな台風の被害が記録されている。前年旧暦十月初旬(十月下旬)に大きな台風が列島を縦断し、美濃・武蔵・下野・伯耆・播磨・伊予の六国が甚大な被害が発生し税の免除措置を実施している。翌日には台風のコースから逸れた地域から二百戸の民を出羽柵へ配置することを決めている。一万人前後に達する移動であろうか。ところが、半年を過ぎた翌年の和銅八年五月五月には飢饉が発生、追い打ちをかけるように①二十五日、②二十六日と連続して超巨大地震に襲われた。二十五日の①遠江地震では大規模な山塊崩壊により天竜川が堰き止められ突然天然ダム湖が出来てしまった。梅雨時期と重なり数十日後に満杯に水をためたダム湖が決壊、濁流となって下流全域を襲った。追い打ちをかけるように翌日に想定外の②三河地震が発災する。「陷沒」の記録は一連の地震での液状化による地盤沈下と推定される。洪積層台地と沖積層低地が広がる伊勢湾・三河湾周辺の平野部一帯は早くから稲作が進んだが、軟弱地盤であり地盤沈下や液状化し易いという問題を抱えている。巨大地震により被害は、『続日本紀』に記録されている。なお、「廬」とは、いおり、草木を結びなどして作った小さく粗末な家のこと、なおさら被害は甚大であったと考えられる。近年の近畿・東海・太平洋沿岸地域の地学的調査によって明らかになったのは、大規模な地殻変動と広範囲の液状化現象の発生痕である。千三百年前に起きたこの地震は、記録として史上最大規模と言えるものであるが、なぜか顕彰されているとは言えず、むしろ軽視されてきた。しかし、日本列島の中部・東海で起きた大規模誓い変動で「超巨大地震」と呼ぶべきものであった。今回は、これを真正面から取り上げて「霊亀元年超巨大地震」と呼称し顕彰した。

3 霊亀元年「超巨大地震」の痕跡

(1) 遠山川の埋没林と埋没樹

国道152号(旧道)の小道木埋没林包蔵地
国道152号(旧道)の小道木埋没林包蔵地

区 分:長野県天然記念物(令和元年十月廿四日指定)
所在地:飯田市南信濃小道木・大島 ほか
管理者:長野県・飯田市。
『出土したいくつかのヒノキを年輪年代法で分析したところ、西暦七一四年に枯死したことが分かりました。』(飯田市県天然記念物の説明)
 写真は国道一五二号(旧道)の小道木埋没林包蔵地。
この土石流痕の候補として、次の三つが考えられる。いずれにしても、単発の災害ではなく、頻発で複合的な自然災害の可能背がある。中央構造線・フォッサマグナ地域全体の地震痕と合わせて考えなければならない
①    「大型台風と豪雨被害」
元正天皇の和銅七年(七一四) 十月一日に、「美濃・武蔵・下野・伯耆・播磨・伊予六国大風発屋・仍免当年租調」。
②    「元正巨大地震による山塊崩壊」
元正天皇の和銅八年(七一五) 五月廿五日に「遠江国地震・山崩壅麁玉河・水為之不流・経数十日・潰沒敷智・長下・石田三郡民家百七十余區・并損苗。」
③    上記二つの複合型による山塊崩壊・土石流の発生。

(2)    地震痕―液状化現象

 「続日本紀」和銅八年五月二十六日に、「参河国地震。壞正倉■七。又百姓廬舍往々陷沒」と液状化現象の発生を記している。「陷沒」の記録は一連の地震での液状化による地盤沈下と推定される。洪積層台地と沖積層低地が広がる伊勢湾・三河湾周辺の平野部一帯は早くから稲作が進んだが、軟弱地盤であり地盤沈下や液状化し易いという問題を抱えている。巨大地震により被害は、『続日本紀』に記録されている。なお、「廬」とは、いおり、草木を結びなどして作った小さく粗末な家のこと、なおさら被害は甚大であったと考えられる。
・三河湾周辺の地質図(下図)(着色は洪積層台地と沖積層低地、他は岩帯山地)
この着色部の地域が洪積層台地と沖積層低地で、液状化し易い地層である。今でも地盤沈下が著しく、地下水のくみ上げを規制しているほどである。「往々陷沒」の四字が示すように三河湾と沿岸地帯の液状化現象による被害は甚大で、生き残った者は少なかったことを示唆している。被災した高句麗人のケースは注目される。「続日本紀」では、翌年の五月に千七百九十九人の高句麗人を武蔵野国に移す記述。民の配置変更は「戸」単位で発令されるのが殆どであるが、高句麗人被災者の場合は人頭数で千七百九十九人と細かくカウントしている。これは「戸」を形成することが不可能な程に破滅したことを物語っている。三一一東日本大震災を思い起す。高麗郡建郡は、前年の「冨民」の陸奥国への移動とセットの避難民対策であった。「建郡千三百年祭」など、思い違いも甚だしい愚行の極みである。

三河湾周辺の地質図(着色は洪積層台地と沖積層低地、他は岩帯山地)

霊亀元年の巨大地震の地震痕マップ

①    静岡県袋井市坂尻遺跡
「続日本紀」に詳細に記されている超巨大地震の痕跡が、静岡県袋井市で実際に見つかっている。1992年の袋井市のバイパス工事に伴う発掘調査で、奈良時代の超巨大地震の地震痕が坂尻遺跡の地層で見つかっている。詳細な調査報告書『静岡県埋蔵文化財調査研究所調査報告書第29集/247P)(一九九二年)』に報告されている。また、袋井市歴史文化館のパンフレット『遺跡でたどる袋井のあゆみ』に、左のような坂尻遺跡の地層断面ディスプレーの写真と説明が載っている。「(液状化現象が起きた層の境界上部の層)に含まれる土器の大部分が八世紀以降のものである。このため、当遺跡内の液状化をもたらした地震は七世紀中葉より後で八世紀前葉の間に限定されるとしているにもかかわらず、この地震痕を六八四年の「白鳳南海地震」と限定しているのである。しかし、報告書で限定している層は、八世紀以降の物的証拠がある境界層だけである。その下層での「アリバイ」を特定できる証拠は無い。袋井市の「白鳳南海地震」説は憶測であり思い込みと勘違いだ。もう一度、推論を排除して作図し直す必要がある。
ここで確実な証拠は、調査報告書に記載されているように「七世紀中葉より後で八世紀前葉の間に巨大地震が起きた」ということだけである。この見解に依拠するしかない。

『遺跡でたどる袋井のあゆみ』 第3弾2016年2月23日 袋井市教育委員会

『遺跡でたどる袋井のあゆみ』第3弾2016年2月23日袋井市教育委員会ミスの例は、『寒川旭:“古地震データと活断層。一九九五年十二月公開シンポジウム「人文科学とデータベース」』中の左の▲印図で「砂脈は、すべて、八世紀に入って建てられた建物跡に削られており、七世紀後半に大きな地震が生じた」と断定してしまった。改めて袋井市の報告書に立脚して図面化すると、左図のような「正しい地層断面図」になる。「液状化をもたらした地震は七世紀中葉より後で八世紀前葉の間に限定される」とした袋井市の調査報告書の巨大地震の最有力候補は、霊亀元年(七一五年)の超巨大地震だけにある。白鳳地震では根拠が希薄で、アリバイの偽装工作の疑いが濃厚である。

【静岡県袋井市坂尻遺跡の地層断面図】左図が正しい断面図

◎左図が正しい地層断面図  
▲右図が寒川旭氏の地層断面図 (“古地震データと活断層”1995年⒓月 公開シンポジウム「人文科学とデータベースJ)

②    愛知県一宮市の田所遺跡

愛知県一宮市の田所遺跡

 隣の濃尾平野の愛知県一宮市の田所遺跡でも(愛知県埋蔵文化財研究センター)、同じような液状化遺構が見つかっている。「(噴砂が)古墳時代の水田を突き破りその畦(けい)畔(はん)を覆っている。さらに奈良・平安時代の遺構に掘り込まれている。」、(左図。)。このケースも、意外な事に記録が無いと考えられてきたので、白鳳地震に連動する東海地震の痕跡の可能性としてきた。しかし、「続日本紀」霊亀元年(七一五年)の中部・東海巨大地震の記録が、ピンポイントで地震痕と一致することを余すことなく示している。 

③静岡市川合遺跡

   静岡市川合遺跡同じく、静岡市川合遺跡(静岡県埋蔵文化財調査研究所発行)でも七世紀中頃の建物の柱穴とその埋土が砂脈に引裂かれていた。其の上の地層には砂脈を削り込んで八世紀の郡衙が建てられるが、この郡衙遺構はすべての砂脈を覆っていた。七世紀中頃から八世紀の間に砂脈が生成したと考えられる。川合遺跡の場所は、中央構造線系ではなく糸魚川―静岡構造線系である。ということは、続日本紀の既述よりももっと広範囲の地域で、この内陸型巨大地震の被害を受けたことが考えられる。中央構造線から少し離れた一宮市田所遺跡の場合でも、軟弱地盤なので液状化現象が広範囲に起きている。東南海を中心に太平洋側の広い範囲に被害が及んだものと考えられる。   

    田所遺跡            板尻遺跡            川合遺跡(写真) 
愛知県・静岡県内の液状化遺跡のまとめ

④    和歌山市の川辺遺跡
さらに駄目押し。和歌山市の川辺遺跡で,決定的な中央構造線活断層系の活動にともなう地震痕の報告が以下の論文に記載されている。
「中央構造線周辺の遣跡で認められた地震跡」寒川 旭,1992,地質学論集,No.40,171―175
 「これらの砂脈は ,六世紀末から七世紀前半までの生活面(この時期の多 くの建物跡を検出している )を引き裂き,その直上の粘土層に覆われてい る .ま た,砂脈の末端で七世紀前半の 建物の柱穴の堀形(柱を支えるためにつめた土)を引き裂いている .
このため,川辺遺跡の液状化をもたらした最新の地震の時期は七世紀後半又はその少し後(少なくとも平安時代に至る前 )に生じたと考えられる。
下図 は(中略)、液状化跡の断面形で 、砂脈の最上端から約1.6m の深さある砂礫層が液状化している .」

「中央構造線周辺の遣跡で認められた地震跡」寒川 旭,1992,地質学論集,No.40,171―175
和歌山市の川辺遺跡

以上の結果をまとめると、「霊亀元年超巨大地震」の地震痕は左のマップになる。全体を眺めると、①静岡県袋井市、④和歌山市は、中央構造線直下である。②と③ は離れているが液状化が起きている。また、遺跡の状況から津波被害は考えなくていいだろう。つまり、南海トラフ巨大地震ではなく、内陸型の中央構造線・活断層地震 と考えられる。

  ④ 和歌山市川辺遺跡    ②一宮市田所遺跡   ①袋井市坂尻遺跡   ③ 静岡市川合遺

2 陸奥城柵官衙

(1)   陸奥城柵政策の変遷

【第1図】陸奥の城柵官衙マップ

【第1図】陸奥の城柵官衙マップ

 陸奥における城柵官衙の変遷は、図1に示すように大きく二期に分かれている。前期は渟(ぬ)足(たり)柵→ 岩舟柵→出羽柵までの日本海側ルート。後期は、養老二年五月二日(718年)の能登国・安房国・岩城(いわき)国・石(いわ)背(しろ)国の設置から始まる多賀城柵、色麻柵、玉造柵、牡鹿柵、新田柵の設置から延暦二十四年(805年)の政策転換までと便宜上分ける。延暦二十四年、この年で陸奥の陸奥城柵政策は終焉する。前期と後期に分かれた最大の要因は、霊亀元年5月の中部・東海での超巨大地震による発災である。第1表に『続日本紀』の発災前後の記述をまとめた。幸いにも震災対策は、政策の大転換を余儀なくされているが、総じて、迅速で的確に行われている様子が読み取れる。また、遺跡調査でも『続日本紀』の記述と符合する遺構が発見され、当時の営みが実感を持って迫ってくる。また、第2表には陸奥経営の前段の年表をまとめた。前後が逆になるが、「知識結」運動という当時の「精神生活」と関連して展開される。

(2)  石背官衙「石瀬郡、上人壇廃寺跡」福島県須賀川市

上人壇廃寺跡と石背国国衙関連遺跡群(福島県須賀川駅周辺)
① 石背国衙遺跡 ② うまや遺跡 ③ 上人壇廃寺遺跡

上人壇廃寺跡と石背国国衙関連遺跡群(福島県須賀川駅周辺)
①    石背国衙遺跡
②    うまや遺跡
③    上人壇廃寺遺跡

割越前国之羽咋。能登。鳳至。珠洲四郡。始置能登国。割上総国之平群。安房。朝夷。長狭四郡。置安房国。割陸奥国之石城。標葉。行方。宇太。曰理。常陸国之菊多六郡。置石城国。割白河。石背。会津。安積。信夫五郡。置石背国。割常陸国多珂郡之郷二百一十煙。名曰菊多郡。属石城国焉』

福島県須賀川市の説明は以下の通り。
「上人壇寺跡の所在する須賀川市は、福島県のほぼ中央に位置します。市内の中央部を、那須火山群に端を発する東北地方で有数の大河である阿武隈川が北に流れ、それに合流する釈迦堂川や滑川などの河川が東西方向に流れています。 須賀川市が属する「岩瀬」郡は、古代は「石背」・「石瀬」・「磐瀬」と表記されていました。特に、奈良時代の養老二(718)年に現在の東北地方南部にあった陸奥国から石背国・石城国が分置され、石背国の中心が石背郡にあったと考えられています。 上人壇廃寺跡は、この石背国が置かれた時期に創建された寺院跡です。これまでの発掘調査で、古代石背郡・石背国と関わりのある寺院跡と判明し、一辺約八十メートルの区画に、南門、金堂、講堂が一列に並ぶ特異な伽藍配置であることが明らかにされています。また、上人壇廃寺跡の東側を古代の官道である東山道が南北に縦断していたと推定され、その周辺には郡衙の栄町遺跡や米山寺跡、官人集落や駅家の可能性を有するうまや遺跡などの石背郡衙関連遺跡群がこれまで確認されています。」(須賀川市)
『続日本紀』養老二年五月二日には、能登国・安房国・岩城(いわき)国・石(いわ)背(しろ)国の設置の記事が記されている。阿武隈川と釈迦堂川が合流するこの地点は人馬が徒渉するのに最適な場所である。短い期間ではあったが、石城国とともに対陸奥への橋頭保として、陸奥への民族大移動の玄関口の役割を果たした。後の南北朝時代の終わりころまで北朝方の篠河殿(足利満直)の城郭があり、陸奥管領として常在していた。
『《養老二年(718)五月乙未【二】》。

「石瀬郡、上人壇廃寺跡」(福島県須賀川市)

【篠川御所跡】福島県郡山市安積町笹川東舘(下図)

【篠川御所跡】福島県郡山市安積町笹川東舘

 奥州の玄関口として重要拠点であった石背郡衙は、東西のふたつの川筋が合流し阿武隈川は北に向かって流れる。合流地点は広い川原を形成し徒渉に適するとともに人馬を休める馬場を提供している。少し下流には中世史に登場する篠川御所跡がある。奥州街道に沿って流れる阿武隈川の断崖に建つ水際の城館。鎌倉公方の命により陸奥管領として派遣され応永六年(1199年)から駐留在城し、永享一二年(1440年)の結城合戦で篠川公方は滅亡する。阿武隈川のこの場所が、観応の擾乱以降でも中央政府及び鎌倉府による陸奥統治で、最高統治府であり続けたことが「鎌倉大草紙」にも記録されている。
資料1【鎌倉大草紙〔内閣文庫蔵〕】応永二十三年丙申(1416)八月
「秋のはしめより禅秀病気のよし披露して引寵謀反を起す、犬懸の郎郎等国々より兵具を俵に入、兵糧のやうにみせて、人馬に負せて上りあつまりけれハ、人更に志る事なし、新御堂殿の御内書に禅秀副状にて廻文を遣はし、京都よりの仰にて持氏公憲基 を可被追罰由、頼ミ被仰けれバ、御話中人々にハ、(中略)常陸にハ名越一党・佐竹上総介・小田太郎治朝・府中大掾・行方・小栗、下野に那須越後入道資之・宇都宮左衛門佐、
陸奥にハ篠河殿(足利満直)へ頼申間、葦名盛久・白川結城・石河・南部・葛西・海東四郡の者ともみな同心す」

資料2【神護景雲三年(七六九)陸奥での部曲の表彰記録】

 能登国・岩城(いわき)国・石(いわ)背(しろ)国の設置から半世紀が過ぎ、陸奥での部曲(かきべ)の表彰記録にも注目。地方氏姓官司制がシームレスに坂東から東北にまで及んでいる。そして、霊亀元年(718)の超巨大地震の難民対策と陸奥経営の兵站としての役割が一段落したことを意味し、時代の画期と見ていいだろう。
部民とも書く。大和時代 (大化前代) の豪族の私有民。中国で奴婢を意味する。彼らは令制の家人,奴婢とは異なり一定の職業をもち,だいたい村落を単位として 豪族に仕える。
部曲(かきべ)とは。「かき」は限られた区画の意味で、律令制以前における豪族の私有民。それぞれ職業を持ち、蘇我部・大伴部のように主家の名を上に付けてよばれる。以下『続日本紀』の記述。

《『続日本紀』《神護景雲三年(七六九)三月辛巳【十三】〉
陸奥国白河郡人外正七位上丈部(はせつかべ)子老。
賀美郡人丈部国益。
標葉郡人正六位上丈部賀例努等十人。賜姓阿倍陸奥臣。
安積郡人外従七位下丈部直継足阿倍安積臣。
信夫郡人外正六位上丈部大庭等阿倍信夫臣。
柴田郡人外正六位上丈部嶋足安倍柴田臣。
会津郡人外正八位下丈部庭虫等二人阿倍会津臣。
磐城郡人外正六位上丈部山際於保磐城臣。
牡鹿郡人外正八位下春日部奥麻呂等三人武射臣。
曰理郡人外従七位上宗何部池守等三人湯坐曰理連。
白河郡人外正七位下靭大伴部継人。
黒川郡人外従六位下靭大伴部弟虫等八人。靭大伴連。
行方郡人外正六位下大伴部三田等P4187四人大伴行方連。
苅田郡人外正六位上大伴部人足大伴苅田臣。
柴田郡人外従八位下大伴部福麻呂大伴柴田臣。
磐瀬郡人外正六位上吉弥侯部(きみこべ)人上磐瀬朝臣。
宇多郡人外正六位下吉弥侯部文知上毛野陸奥公。
名取郡人外正七位下吉弥侯部老人。
賀美郡人外正七位下吉弥侯部大成等九人上毛野名取朝臣。
信夫郡人外従八位下吉弥侯部足山守等七人上毛野鍬山公。
新田郡人外大初位上吉弥侯部豊庭上毛野中村公。
信夫郡人外少初位上吉弥侯部広国下毛野静戸公。
玉造郡人外正七位上吉弥侯部念丸等七人下毛野俯見公。
並是大国造道嶋宿禰嶋足之所請也。

(3)  坂東の終末期古墳群

 坂東では、七世紀中葉から八世紀初頭までの終末期古墳群がいくつか見つかっている。埼玉県深谷市の「鹿島古墳群」、群馬県前橋市惣社町の「総社古墳群」と吉岡町の「南下古墳群」が注目される。これらの古墳群の築造年代を便宜的に次のように前期と後期に分けることが出来る。前期も後期も大陸からの渡来人の足跡が明瞭である。また、期せずして八世紀初頭、715年の大震災の頃には終焉している。
・【前期】五世紀後半~七世紀代前半。
大型古墳がみられる古墳時代。
・【後期】七世紀後半~八世紀初頭。
時に、終末期古墳では、円墳(上円下方墳)が無数に出現する。
次に、坂東の終末期古墳群跡をいくつか取り上げる。
 
群馬県の古墳群
【総社古墳群】
「利根川流路の西側に点在する総社古墳群は大型前方後円墳の築造が全盛期時代の古墳群と巨大古墳時代末期の古墳群との二つの時期の古墳で構成されています、前方後円墳である、遠見山古墳、二子山古墳、王山古墳などが築造された五世紀後半~六世紀代はまさに地方豪族達が競って大型の古墳を造りあげた時代で同時期の古墳としては太田市の東国最大の天神山古墳、同前橋市の大室古墳群などが築造されていました、逆に愛国山古墳、宝塔山古墳、蛇穴山古墳などは7世紀代から八世紀初頭にかけて造られた方墳で関東では大型の墳丘が築造されなくなった時代であり(中略)それら3基の方墳が群馬県内では最後の大型古墳と言えるでしょう、総社古墳群はその2期の大きな時代の流れを物語る古墳群です」
【南下古墳群】『ウィキペディア(Wikipedia)』
「群馬県中部、榛名山東麓において、利根川に注ぐ小河川(駒寄川・午王頭川)が入り組んで発達した小丘陵(大林山)の南斜面に営造された古墳群である。一帯にはかつて百基以上の古墳が存在したというが、現在は9基が遺存する。(中略)この南下古墳群は、古墳時代後期-終末期の六世紀中葉~七世紀末葉頃の営造と推定される。(中略)総社古墳群よりも畿内的要素が強く、また南東には畿内色の極めて強い正八角形墳の三津屋古墳(吉岡町大久保)も存在することから、総社古墳群を支える南下古墳群勢力と畿内ヤマト王権による上毛野地域の中央集権化との関係を考察するうえで重要視される古墳群になる。」

埼玉県深谷市の「鹿島古墳群」の案内板
所在地 深谷市(旧大里郡川本町)鹿島
『荒川中流域における古墳群で、分布は川本町鹿島、本田、江南町押切の範囲に及び河岸段丘上約二キロメートルにわたっている。現存する古墳五十六基は、小円墳がほとんどで荒川に近い古墳には埴輪を持っているものがある。昭和四十五年に圃場整備事業に伴い県教育委員会により二十七基の古墳が発掘調査されている。主体部は荒川系の河原石を用いた若干胴の張る横穴式石室で玄室には棺座を設けたものも見られた。天井、奥壁は緑泥片岩を使用していた。玄室と羨道の比は、二対一となり三十センチメートル(唐尺)の定尺となるものが 認められている。出土遺物には、玉類が少なく、鉄鏃(てつぞく)、直刀(ちょくとう)、刀子(とうす)、耳環(じかん)などが多く出土している。古墳の年代は奈良時代初期の住居跡の上に古墳が構築されているものがあり、七世紀初頭から八世紀初頭にかけてつくられたものと推定される。』

(4)   上野三碑・多胡碑

 平城京遷都の翌年から郡区の再編成を行っている。『続日本紀』巻五和銅四年(711)三月六日の記録に、周辺六郷から割って新たに多胡郡を設置している。(割上野国甘良郡織裳。韓級。矢田。大家。緑野郡武美。片岡郡山等六郷。別置多胡郡)。 
多胡郡の設置の翌年秋に出羽国を補強すると同時に、西国でも再編が行われているところをみると、本格的に陸奥経営に乗り出したということだろう。多胡郡は陸奥への橋頭保として藤原不比等が重要視していたということを示している。

上野三碑・多胡碑

弁官局命令。上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の内から三百戸で郡と成し、羊も給し、多胡郡と成す。和銅四年(711)三月九日甲寅。左中弁正五位下多治比真人。太政官二品穂積親王、左太臣正二位石上尊、右太臣二位藤原尊。
 
 次に、霊亀元年の超巨大地震の発災前後の『続日本紀』の記録をリストアップした。五月二十六日の発災から一週間足らずの三十日には相摸、上総、常陸、上野、武蔵、下野六国の『冨民千戸』に陸奥への移動を発令している。陸奥政策を前倒しで加速させていることを示している。遷都直後から陸奥経営を開始したことが幸いしていたともいえる。そういう意味でも、多胡碑は平城京遷都の激動の時代を象徴する記録として貴重なものとなっている。

郡再編成と715年発災/『続日本紀』の記録は下記のとおりである。
・《和銅四年(711)三月辛亥【六】割上野国甘良郡織裳。韓級。矢田。大家。
緑野郡武美。片岡郡山等六郷。別置多胡郡。
・《和銅五年(712)十月丁酉【初旬】割陸奥国最上・置賜二郡、隷出羽国焉。
・《和銅六年(713)四月乙未【三】割丹波国加佐。与佐。丹波。竹野。・熊野五郡。
始置丹後国。割備前国英多。勝田。苫田。久米。大庭。真嶋六郡。始置美作国。割日向国肝坏。贈於。大隅。姶〓[ネ+羅]四郡。始置大隅国。
・《和銅七年(714)十月丙辰【二】勅、割尾張。上野。信濃。越後等国民二百戸。
配出羽柵戸。
・《霊亀元年(715)五月廿五日。攝津.紀伊.武蔵.越前.志摩五国飢.賑貸之.」遠江国地震.山崩壅麁玉河.水為之不流.経数十日.潰沒敷智.長下.石田三郡民家百七十余區.并損苗
・《霊亀元年(715)五月廿六日。参河国地震。壊正倉〓七。又百姓廬舍、往々陥没。
・《霊亀元年(715)五月庚戌【三十】。移相摸。上総。常陸。上野。武蔵。下野六国富民千戸。配陸奥焉。
・《霊亀二年(716)三月癸卯【廿七】。割河内国和泉・日根両郡。令供珍努宮
・《霊亀二年(716)四月甲子【十九】。割大鳥。和泉。日根三郡。始置和泉監焉。
・《養老二年(716)五月乙未【二】。割越前国之羽咋。能登。鳳至。珠洲四郡。
・《養老五年(721)六月辛丑【廿六】。割信濃国始置諏方国。
・《養老六年(722)二月丁亥【十六】。割遠江国佐益郡八郷。始置山名郡
・《天平宝字三年(759)九月庚寅【廿七】。遷坂東八国。并越前。越中。能登。
越後等四国浮浪人二千人。以為雄勝柵戸。及割留相摸。上総。下総。常陸。上野。武蔵。下野等七国所送軍士器仗。以貯雄勝・桃生二城。
 

(5)    古代色麻郡古墳群と瓦窯跡

【色麻郡古墳群】
東北歴史博物館で次のような説明を見ることが出来る。
「色麻古墳群は古代陸奥国が設置された七 世紀中頃から陸奥国府が多賀城に移される八世紀前半にかけて、鳴瀬川中流域に造られています。直径十メートル前後の小円墳からなる推計500基の大規模な群集墳です。『続日本紀』には、霊亀元年(715)に陸奥国北辺に黒川以北十郡(黒川・志田・賀美・色麻・玉造・長岡・富田・新田・小田・牡鹿郡)が移民によって建郡されたとする記録が残されており、色麻古墳群はおおむねその前後の時期に相当します。(そして、群馬県西南部,埼玉県北部の古墳にも共通する特徴もある)」。
また、考古学的な発掘調査の結果は、昭和60年に宮城県教育委員会が次の報告書に詳細にまとめている。本報告書の総括部分は重要なのでほぼ全文ご紹介する。総括すると、色麻古墳群の終末は八世紀前葉ということである。
 
『宮城県文化財調査報告書第103集「色麻町・香ノ木遺跡・色麻古墳群」
―昭和59年宮城県営圃場整備等関連遺跡詳細分布調査報告書―
・出土土器類から、終末が 八世紀前葉。
「出土土器が断片的で上記の各段階に比定できない古墳も多いが、第 二段階に属す古墳が多いことは明らかであり古墳群形成の最盛期は 七世紀末~八世紀初頭とすることができる。また関東系の土師器が第一 段階に多いという傾向は古墳群形成の初頭に関東地方(北武蔵・上野)の人々がより多く関わりをもったことを示すもので、後に述べる胴張り型横穴式石室の系譜を理解する上で一つの手懸りともなろう。須恵器長頚壺・瓶の多くは特徴的な胎土をもつもので各段階に含まれており、その供給の経路には興味深いものがある。最後に古墳群の造営機関は、その終末が 八世紀前葉に、群形成が七世紀中葉に位置付けられ、大きくみても100年間を越えないものであったと考えられる。」
・古墳の構築年代は七世紀中葉~八世紀前葉に比定される。
「これは横穴式石室墳でも規模の異る古墳が併存することを示すとともに、古墳の規模が相対的に小規模化する傾向を示している。(中略)本古墳群が 100年足らずの期間で 500基もの古墳を用した背景には家族墓のように永続して使用された古墳が少なく、使用期間が限られた単葬墓が大多数を占めていることにもよると考えられる。東北地方では胴張りのある横穴式石室の古墳の分布が福島、宮城県で確認されている(中略)しかし、本古墳群の形成が始まる 七世紀中葉以前にこのような主体部形態の系統性を周辺地域に求めることはできない。本古墳群に類似した胴張りのある横穴式石室墳を主体とする群集墳は埼玉県北西部、群馬県南西部に認められる。供献土器群の中の関東系の土師器坏についてもこれらの地域との関連が認められることからみて本古墳群の胴張り型横穴式石室の系譜はむしろ関東地方北西部に求められるべきであろう。
・古墳群と被葬者の性格
「本古墳群は直径 十メートル 前後の小円墳からなる推計約 500 基の大規模な群集墳である。副葬品の内容は極めて簡素であるが各古墳の規模・構造の差異には規則性が認められ、そこには時期的な変遷とともに被葬者の社会的地位・身分秩序・年齢などの相違が反映されているものと考えられる。その要因を特定できる資料はないが、このような階層性をもつ被葬者集団の性格を周辺地域の歴史的環境と併せて考察したい。本古墳群で古墳の築造が行われた七世紀中葉~八世紀前葉の時期からその直後の時期には周辺地域に名生館遺跡、城生遺跡、色麻一の関遺跡などの城柵官衙関連施設が配備され日の出山窯跡群では多賀城創建瓦が焼成されるなど律令制的な体制がいちはやく整えられている。このような社会的動向に本古墳群の被葬者たちも直接関わりをもったものと考えられる。ここで注目されるのは本古墳群の供献土器群の中に関東系の土師器が含まれ、それに関連して胴張り型の横穴式石室の系譜が関東地方に求められることである。これら二つの要素は古墳群形成の契機に関東地方の人々が関与した可能性を示している。本古墳群で100年足らずの間に 500基もの古墳が築造される背景には外的な要因を含む社会的在変動があったものと理解されるのである。(中略)。本古墳群の位置する色麻町周辺は『続日本紀』天平 六年(737 年)四月戍午条に初見の色麻柵が設置された地域とされ、上記の記事から本地域が賀美郡に属すと理解されている。本遺跡の南東約一キロメートル には色麻柵もしくはこれに関連した官衙寺院跡と考えられる一の関遺跡が位置し、雷文縁四葉複弁蓮華文軒丸瓦を創建期に採用している。この軒丸瓦は同町内の土器坂窯跡から供給されたもので、その年代は多賀城創建前と考えられている。したがって色麻柵は本古墳群の形成期間中に極めて近い地域に設置されたものと考えられる。一方本遺跡の位置する宮城県北部地域には、関東地方と同じ郡名が多くみられるが、その要因として多賀城創建期前後の移民が想定されている。本古130墳群の位置する賀美郡は、前項の関東系の土器・石室の系譜で関連性が認められた埼玉県北西部の本庄市、大里郡上里町周辺地域に旧賀美郡が存在したことから、より具体的に移住による同一郡名の採用を指摘することができ、城柵の設置・移住・建郡の過程と本古墳群の形成が一連の律令制の整備過程の中で理解できるのである。これらのことから本古墳群の被葬者集団は律令制もしくはその整備段階に関わっており公民として編戸の対象となった可能性が高い。田尻町木戸瓦窯跡出土の文字瓦には「□□郡中村郷他辺里長二百長丈部呰人」とあり、八世紀における令制、軍制の秩序が具体的に確認できる。本古墳群にみられる階層性はこのような身分秩序の一端も含んでいるものと考えられる。」

【色麻郡古墳群】の風景

【日の出窯跡群】日の出窯跡群の創業時期を手掛かりに陸奥国府及び多賀城の創建時期を明かにしようと発掘調査が行われた。「日の出山窯跡群宮城県文化財調査報告書第 22 号」-埋蔵文化財緊急調査概報-(昭和四十五年)。以下にこの調査報告書の要旨を引用する。「従って日の出山窯跡群製作の多くの種類の重弁蓮花丸瓦と重弧文軒平瓦は,様式的に差異があり製作年代の点では若干の幅があり,操業期間もある程度の年数を考え得る可能性があるにもかかわらず,使用年代の点では同時であると考えられる。そして,その時期は,多賀城,玉造柵,新田柵などの諸柵やこれに関連する多賀城廃寺,菜切谷廃寺の営造が行なわれた時期である。(中略)最近の多賀城跡の発掘調査の結果では,内城といわれる中枢部は南面する正殿の左右に脇殿があり,南門から発する築地がこれらを方形にとり囲むという規模は創建以来変っていないことを確認している。又,外城南辺の調査でも外郭は創建以来築地であり,南北中軸線上に外郭南門があり,各地の寺院や国府の外郭と全く同じ構造であることが判明した。これに陸奥国の官寺である多賀城廃寺が附属する。このような多賀城の調査結果を見ると,多賀城は最初から陸奥国の国府であった能性が強い。そうすると,文献上の陸奥鎮所を多賀城の前身と考えて,多賀城の創建を養老六年以前と決めてかかるわけにも行かなくなる。多賀城の文献上の初見は天平九年(737)であり,その創建年代もこれを大幅にさかのぼらない時期と考えるのが妥当であろう。以上を要約すると次の通りである。(1)日の出山窯跡群は木戸窯跡群とともに陸奥国の官窯の遺跡である。(2)日の出山窯跡群の製瓦は,多賀城,玉造柵,色麻柵,などの創建に用いるためのものである。(3)日の出山窯跡群製作の重弁蓮花文軒丸瓦の組み合せは,様式的に古い要素のものまで存在する。(中略),多賀城などでの使用に際しては各種のものが同時に用いられた。(4)その年代は多賀城などの創建期であり天平九年737年を大幅にさかのぼる時期ではない。(5)日の出山窯跡群は,奈良時代の中期に細弁蓮花文軒丸瓦と均整唐草平瓦の組み合せを製作した時期に再び活動している。」(以上)。
日の出山瓦窯跡(宮城県加美郡色麻町)
発見された七基の窯跡と日の出山で生産された軒瓦、八世紀初頭窯跡と重弁蓮華文軒瓦

日の出山で生産された軒瓦
重弁蓮華文軒瓦
日の出山窯跡群跡
多賀城と窯跡群の位置関係仙台市郡山官衙遺跡群・郡山廃寺(宮城県仙台市太白区郡山)

(6)    仙台市郡山官衙遺跡群・郡山廃寺

㈠   仙台市郡山官衙遺跡群・郡山廃寺(宮城県仙台市太白区郡山)

【仙台市の解説より引用】
「 郡山官衙遺跡群は,七 世紀半ば大化の改新のころに成立し,奈良時代前半に造営される多賀城の成立前後まで営まれていた官衙遺跡とそれに伴う寺院跡である。陸奥における初期の城柵で,陸奥地域の統治を行った施設と考えられる。古代国家成立期における東北地方の政治・軍事の拠点施設と国家北辺における地域支配の展開過程の具体的様相を知る上で貴重である。
 遺跡はJR長町駅の東側に広がり,昭和五四年(1979)からの発掘調査により多賀城創建以前の官衙・寺院跡であることが明らかになった。これまでの調査で「Ⅰ期官衙」と「Ⅱ期官衙」の二時期の官衙が重複していることが分かっている。

仙台市郡山官衙遺跡群・郡山廃寺(宮城県仙台市太白区郡山)

  Ⅰ期官衙は七世紀中頃から後半にかけて東北地方に置かれた城柵と考えられる。東西約三〇〇メートル,南北約六〇〇メートルに広がり,掘立柱建物跡や小規模な材木列,板塀跡などが真北より東に三〇~四〇度程振れた方向に造られている。中枢部は東西九〇メートル,南北一二〇メートルの一本柱列と板塀により区画され,建物はこの塀に密着している。この周辺には総柱建物による倉庫群や掘立柱建物と竪穴住居とが共存する雑舎群,竪穴住居が集中する竪穴群などがあり,ブロック(院)を形成していたと見られる。
 Ⅱ期官衙は七世紀末から八世紀初めにかけての多賀城以前の初期陸奥国府(衙)であると考えられ,真北を基準にして造られている。四町四方に直径三〇センチ程のクリ材を立て並べ(材木列),その外側に大溝をめぐらせている。内部には中央やや南寄りに中枢部(政庁)があり,正殿や石敷遺構(広場),石組池がある。この方四町Ⅱ期官衙の南には,南方官衙(西地区,東地区),寺院西方建物群,寺院東方建物群などの関連する施設がある。またそれらの南には郡山廃寺がある。推定される伽藍配置は後の多賀城廃寺と類似し,陸奥国内で最初の寺院であったと見られる。
 出土遺物には暗文の施された畿内地方の土師器坏や「名取」とヘラ書きされた東北地方の土師器坏などがある。また関東地方の特徴を示す土師器なども出土している。郡山廃寺に葺かれた軒丸瓦は文様の特徴から,のちに多賀城や陸奥国分寺などに使用された「重弁蓮華文軒丸瓦」の祖形となったものと考えられる。」

郡山廃寺の「重弁蓮華文軒丸瓦」(多賀城、陸奥国分寺などの祖形)」   

(7)    多賀城跡・多賀城廃寺

・多賀城跡
(案内板から引用)
「神亀元年(724)、大野東人によって創建された奈良・平安時代の陸奥国の国府であり、行政の中心地でした。また、奈良時代には鎮守府も置かれ、軍事の中心でもありました。
 仙台湾や仙台平野を一望できる丘陵上に立地し、一辺が一キロメートル前後のいびつな四角形に塀で囲い、南・東・西に門が開かれていました(北門は未確認)。ほぼ中央に重要な政務や儀式、宴会などが行われた政庁があり、城内の各所に実際の行政事務を行う役所や兵士の住居などが配置されていました。
 政庁は東西一〇三メートル、南北一一六メートルの長方形に築地塀を巡らせ、内部に正殿、脇殿、後殿、楼などを計画的に配置していました。発掘調査の結果、政庁には、大野東人の創建(第Ⅰ期)、天平宝字六年(762)の藤原朝狩による大改修(第Ⅱ期)、宝亀十一年(780)の伊治公呰麻呂の乱による焼き討ちからの復旧(第Ⅲ期)、貞観十一年(869)の陸奥国大地震からの復興(第Ⅳ期)の四時期の変遷があったことがわかりました。第Ⅰ・Ⅱ期は奈良時代、第Ⅲ・Ⅳ期は平安時代で、終末は十一世紀中頃と推定されています。(中略)
多賀城内からは瓦や土器を始め、様々な遺物が発見されています。政庁の建物や門などの重要な建物は瓦葺きで、Ⅰ期の瓦は大崎平野周辺で焼かれ、Ⅱ期以降は多賀城の近くで焼かれています。土器は土師器や須恵器が多く、他に高級品である灰釉陶器、緑釉陶器、中国から輸入された青磁や白磁などがあります。大部分が食器ですが、まじないに使われた土器もありました。
 この他、役人が使った硯、紙(漆紙)、木札(木簡)、ナイフなどの文房具や占いに使った骨、まじないに使ったかたしろなどが発見されています。
 多賀城跡の周辺には、城外の南東の丘陵上に付属寺院である多賀城廃寺があり、南~西の沖積地には道路によって地割りされた市街地が広がっていました。東側の丘陵上の西沢遺跡や多賀城廃寺周辺の高崎遺跡にも多くの人々が暮らしており、多賀城跡を中心とした都市が形成されていました。」

多賀城模型
多賀城跡
多賀城跡出土の軒丸瓦 重弁蓮華文軒丸瓦

・多賀城廃寺(伽藍配置・創建時期・観世音寺)
多賀城廃寺跡は、多賀城の南東約一キロメートルの大字高崎の低い丘陵上にある。伽藍配置は、左の上空写真と模型に示すように、東に塔、西に東向きの金堂があり、両者の前方中央には門があり、中央後方には諸堂がある。中門の左右からは築地が延び塔、金堂を囲んで講堂の左右にとりついている。講堂の後方には、大小子の僧房があり、大房の東西には倉がある。この配置は、多賀城跡の前身である仙台市郡山遺跡の郡山廃寺や大宰府の観世音寺と似ている。この廃寺跡から出土した瓦の中から、多賀城跡と同范のものがあり、この寺院は多賀城とほぼ同時に建立され、多賀城と同じような終焉した。さらに注目されるのは、 二キロメートルほど西側で、万灯会(まんどうえ)で使われた多量の土器とともに大宰府の観世音寺と同じ「観音寺」と墨書された土器が発掘されていることである。日本列島の両端で「かんのんじ」または「かんぜおんじ」が建立されたことになる。

多賀城廃寺の模型
多賀城廃寺(伽藍配置・創建時期・観世音寺)

(8)    陸奥国分寺跡

 陸奥国分寺跡の解説は、「陸奥国分寺展―発掘黎明期の挑戦者―(展示図録)』(2017年)に詳しい。この企画展の資料から要旨と絵図と写真を紹介する。

「陸奥国分寺跡は,市の中心部に近く,JR仙台駅の南東約二キロメートル,地下鉄薬師堂駅西に隣接する位置にある。広瀬川により形成された段丘の東端に立地しており,標高は十三~十五メートル,面積は約七万六千㎡である。古代律令制下の陸奥国府である多賀城の西南約十キロメートルに位置し,遺跡は国史跡の指定を受けている。」また左図に示すように、塩竃神社とは表裏一体鬼門関係にある。陸と海からの悪霊を守っているわけ。

塩竃神社・陸奥国分寺・多賀城の鬼門関係
多賀城跡の遠景
多賀城跡の全景

・創建時期は天平十三年(741)
「天平十三年(741)聖武天皇の勅願により全国に建立された国分寺のうちで最も北にある。昭和30年から34年にかけて行われた発掘調査で伽藍の概要が明らかになり,昭和47年以降は整備のための調査が行われている。発掘調査の結果,北辺は明らかではないが周囲を築地塀で囲み,内部は南大門,中門,金堂,講堂,僧坊が南北中軸線上に並び,中門と金堂は複廊式の回廊で結ばれ,鐘楼,経楼,七重塔等を配した大規模な伽藍であったことが分かった。遺物は多量の瓦,土師器や須恵器等の土器類,塔の相輪の一部等が出土しており,瓦には文字が記されたものが多く見られる。また,創建期の軒平瓦には赤色顔料が付着しているものが見られることから,創建期の建物は赤彩を施された豪壮なものであったことがうかがえる。」

・多賀城跡出土瓦

重弁蓮華文軒丸瓦・軒平瓦
故大川清氏の労作「古代のかわら」(平成8年、改題した上梓版)より引用。
(左)八葉単弁蓮華文鐙瓦 径20.5㎝   (右)偏行唐草文字瓦 厚5.5㎝

「創建時と考えられる軒瓦の中で、最も数が多いのは重弁蓮華文軒丸瓦と左向きの偏行唐草文軒平瓦でした。ハスの花がつる草でつながれたモチーフが、陸奥国分寺を代表する瓦の文様であった」

偏行唐草文字瓦  厚5.5㎝
八葉単弁蓮華文鐙瓦  径20.5㎝
 「
奈良時代の仙台市付近は、辺彊といわれながらも、開拓の拠点として鎮守府をはじめ多くの城柵、寺院の造立がさかんであった。陸奥の国分寺は奈良東大寺の伽藍を模した規模雄大な寺院であった。
鐙瓦紋様は、小さな中房から花弁がのびやかに展開し、みちのくの開拓期にふさわしい、おおらかな瓦である。
宇瓦の天地は数珠玉状の連鎖珠文を配し、内区は右から左へ転回する簡略唐草草文である(210頁)」

「 創建時と考えられる軒瓦の中で、最も数が多いのは重弁蓮華文軒丸瓦と左向きの偏行唐草文軒平瓦でした。ハスの花がつる草でつながれたモチーフが、陸奥国分寺を代表する瓦の文様であった」。

こーひー・ブレーク

 霊亀元年・西暦七一五年は古代史研究上の大きな謎である。この年に中部地方と東南海地方に超巨大地震が起きた。霊亀元年五月二十五日、二十六日に発災し、同月三十日に陸奥に六国「冨民」を千戸の大所帯を移したとの「続日本紀」の災害対応の記述から目まぐるしい展開が読み取れる。大きな出来事であった。なぜ、無視され続けたか?結論から述べると、「白鳳地震」しか眼中になかったからである。しかし、よくよく調べると、初歩的なミスを冒してしまった模様だ。下図は1993年寒川旭氏の「地震と考古学」の解説である。図中、液状化によってできた噴砂境界が地震当時の地表面ということで、発災の時期を特定可能である、としている。すでに紹介したように、「地震当時の地表面」を基準とするも、なぜか根拠無く、その下層の年代を特定してしまった。それが、684年の「白鳳地震」による液状化痕というミスリードだった。正解は意外なところにあった。他山の石としたい。また陸奥国分寺創建瓦も、古代史探求の際の道標又は基準点(ReferencePoints)として再評価した。これで探求の強弓の矢が現代から古代に放たれた。

寒川旭氏の説明図「地震と考古学」(1993年)


 このシリーズは上・中・下の三部構成になっている。(上)では物的証拠とアリバイ証拠固めが主たる関心である。(中)では(上)で得られた確からしさに依拠し古代武蔵国の諸問題を扱う。(下)は動機について調べる。精神的・心理的にいかなる状態にあったのか、列島を縦横に民族が大移動するわけだが、陸奥への版図拡大が比較的スムーズに進んだのはなぜか?物的証拠からは強権発動での征服戦争という側面だけでは説明し切れない。キーワードは刑事の勘が頼りであるが、統計的手法も役に立つ。「幘溝漊(さくこうろう)」、「宗(そう)廟(びょう)」、「靈(れい)星(せい)社稷」、「椋」、「唐花文」、「知識」・「智者」、「冨民」、「食国天下」・「擬任郡司」等々が候補に上がった。これで動機や背景が解明されるかどうか、、、

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