機会平等・能力主義は理不尽な制度である
今回はImaginist(Imagineギルドメンバー)であるRentaが資本主義のアマチュア化の前提にある問題、機会平等と能力主義について書いたnoteです。
資本主義のアマチュア化について先に知りたい!という方はこちらのnoteをぜひご覧ください!
はじめに
機会平等・能力主義とは理不尽な制度です。
なぜなら、一見個人の自由を守る(つまり心身の拘束をなくす)
制度に見えるのに個人を縛っているからです。
例えば、「実力も運のうち」という本を出版し、
現在の能力主義のあり方を批判しているマイケルサンデル教授は
ハフポストでの対談で以下のように述べています。
能力主義は勝者に、ある種の傲慢さ、謙虚さの欠如、そして自分の力で
すべてを達成したという考えを生み出すともに、取り残された人々の間に
屈辱感を生んでしまうのです。
そしてこの勝者と敗者の間の溝、つまり誰が成功し、誰が苦労しているかについての厳しい評価が、社会を苦しめ、社会の構造を破壊しているのだと
私は考えます。
つまり、能力主義という考え方は「世間は機会平等で回っているのだから、成功も失敗も自己責任である」という態度を生み、
本人の責任以上の問題で成功できなかった人々を苦しめている。
また、そうならないように夢ややりたいことはひとまず棚上げにして、
なるべく社会的地位のある学歴や職を得ようと競争が起こっています。
繰り返しになりますが、一見個人の自由を守る制度に見える
機会平等・能力主義が個人の心を拘束し、社会的な選択を
縛っているということが理不尽なのです。
個人が縛られている状態をより解像度高く理解すると、個人と社会の相互作用によって個人が縛られていることがわかるというメリットがあります。
なので、このnoteでは個人が縛られているとはどんな状態なのか
より定義し、その原因を資本主義の構造に求めます。
以下が本noteの主張です。
この主張を簡単な表にすると以下のような形になります。
機会平等・能力主義は個人を縛る理不尽な制度である
機会平等と能力主義とは何かそれぞれ確認しておきましょう。
コトバンクでは機会平等とは、
競争の出発点の条件を等しくすること。一般に平等には機会、
資格、権利など形式的処遇における等しい取扱いを求めること。
と定義されています。
つまりすべての個人は同様に機会を得ることができるということです。
例えば貴族だから、平民、または異民族だからという理由で、
特定の職種につけないということがない状態が機会平等です。
補足:
機会にリソースとポジションという2つの要素があります
リソース:個人がやりたいことを達成するのに必要な
社会的支援のこと。
ポジション:個人がやりたいことを達成するのに必要な
社会的環境のこと。
iPS細胞を作りたいとして、大学や政府から得られる研究費が
リソースでそもそも自分が研究員のポストを得ていることが
ポジションです。
能力主義もコトバンクで確認しましょう。
人事管理の基本原則の一種で、各人の職務遂行能力を基礎にして、採用、配置、昇進、考課、給与、教育訓練を行うことをいう
もう少し広げると、個人の評価をその人の能力に基づいて行うことです。
能力とはものごと成し遂げる力、という意味です。
能力主義では、身分や性別は関係なくその人がどれだけのことが
できるかで評価が決まります。
機会平等と能力主義は補完的です。
なぜなら、機会平等において誰が機会(リソースもポジションも)を得るかを決める基準が能力主義だからです。
ここまで見ると、機会平等・能力主義は自由を守る制度のように
見えます。
なぜなら、原則身分や人種などで選択が制限されることはないからです。
しかし、機会平等・能力主義は与えられた機会に合った能力がないと個人は成功を約束されない点で理不尽なのです。
なぜなら、機会平等というのはそもそも機会にありつける定員が
限られているからです。
では、機会平等・能力主義の社会はどんな風に個人を縛るのか、
以下の例から見てみましょう。
例1:アーティストになりたいのだが、オーディションの枠が
限られている中、自分の実力に自信がない。
結果、挑戦もできなかった。
例2:大企業に就職したいが、高学歴ではないため難しい。
この2つの例はどんな状態なのかヤング・アイリス・マオン著の
「正義と差異の政治」を使って考えてみます。
「正義と差異の政治」では、個人と社会の相互作用に着目します。
「正義と差異の政治」では「社会→個人」への作用を支配、
「個人→社会」への作用を抑圧という尺度で測ります。
個人は必ずしも置かれた場所で咲くわけではなく、より自分に
合った社会を選択することが考えられます。
この選択ができない状態を支配と言います。
また個人は社会からリソース(例えば人脈、スキル、知識)を
引き出し、活躍します。
このリソースが制限されている状態を抑圧と言います。
例1は支配の事例です。
なぜなら、自身の能力に自信がないためオーディションという自分の目標に近づく機会を選択することができていないからです。
例2は抑圧の事例です。
なぜなら、学歴が就活に使えるリソースを制限しているからです。
ここまでをまとめると
ということであり、
個人にやりたいことがあってもポジションを得られる社会を
選択できなかったらそもそも挑戦できない(支配)、ポジションがあっても実現に十分なリソースが得られないと
徒労に終わる(抑圧)
という形で個人を縛るのが機会平等・能力主義の理不尽な点です。
つまり
ということです。
となると、こんな疑問が湧いてきます。
1.支配と抑圧の原因は何なのか?
2.支配と抑圧はなくせるのか?
支配は社会的に選択が制限されているから、抑圧は社会から
引き出せるリソースが限られているから起こるのでした。
となると、私たちの生きる社会に支配及び抑圧の原因を求められそうです。
どんな社会かというと
文化の境界をある程度超えている(マイケルサンデル教授はアメリカの話をしているが、日本人も共感できる内容を述べている)
機会平等・能力主義が導入されている
この2点を満たしそうな社会の括り方は資本主義だと思います。
資本主義は近代ヨーロッパに始まり世界中に広まったため、文化の壁を
越えています。
また、資本主義では利益やパフォーマンスを最大化するために
機会平等・能力主義を取り入れられています。
資本主義がどのように支配や抑圧を生んでいるかは
こちらのnoteで詳細を書いているのでぜひご覧ください!
使用文献
アイリス・マオン・ヤング『正義と差異の政治』、法政大学出版局、2020年
HUFFPOST「能力主義」はなぜしんどい? マイケル・サンデル教授と平野啓一郎さんが語る日本社会の問題
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