人のマネをすること
普段の生活の中で、誰かの言動や思考方法が合理的であればそれをマネするのは、無意識的に誰もが行っていることだろう。
今回語りたいのはそういったことではない。
私は意識して人のマネをするときがある。特定の条件になったらマネをする。
それは、好意的な感情を持っていた人と別れた時だ。この時の別れは、死別や離別などは問わない。簡単に言うと「その人ともう二度と会うことがない」と私が感じたことがトリガーとなるようだ。
「ようだ」としたのは、確信がないからであり「トリガー」としたのは、コントロールが効かないからだ。
心理学的にこれは同一化と呼ばれる心の防衛機能によるもので、私のこれも分類するならそう呼ばれるものだろう。が、少し違うような気もする。
離別前であれば、相手の行動や思考をうかがい知る機会がまだあり、同一化する相手の存在を確定させることができないと思うので、意識的にはマネしない(無意識にマネすることはある)。
日々、相手方の思考や価値観は変化する。ある時点での情報をもとに言動をマネしても、それも必ず変化する。これを良いように言い換えるならば、偏見や思い込みを持たずにフラットに接しようと思っているからだ。相手方の変化を受け容れる気持ちがあるからだ。
しかし、離別してしまえば相手方の情報の更新が無くなる。最後の時点で確定される。同一化する土台が整う。
マネをするというのは、彼我の違いを理解してその差を埋めるような言動をする事とも言える。その相手方を、自分がどのように理解していたかを表現する事とも言える。
しかし、相手方がいなければ、そのマネがどの程度合っているかを判定できるのは自分しかいない。つまり私のマネは、どこまでいっても自分のためにしかならない。
私のマネは手向けだ。
相手方が残していったものから像を象り、それを表現する事。これは、生まれ変わったり新しい道へゆく人が置いていったものを確かに受け取ったという意思表示であり決意表明だ。
自分を守るための心の働きによる行動ではなく、感謝の想いだ。
手向ける事はとてもしんどい。だがこれこそが生きていくという事だと思う。人と関わっていく事だと思う。生を受けた意味だと思う。
私は私をマネてくれる人を求めているのかも知れない。