『その粒があなただよって』後書き

切り分けられた機能や役割のそれぞれを愛おしく思うことは許されないことだろうか。


この小説の後書きを書こうと思っていたら、全く違うものになってしまいました。まあいいか。




推しは推せる時に推せ。

ガチ恋勢と呼ばれる人たちのそのモチベーションはどこから湧いてくるのだろう。推し対象からリアクションがある場合にはまだ分かる。でもそうでない場合には、その想いの行き着く先はどこになるのだろう。自分の想いが狙った通り相手に届いたかどうかも分からないままで、何を思って推すのだろう。もしかしたら推しているだけで幸せを感じられるのかもしれない。相手のことを好きだと想う気持ちだけで自分さえも満たせれば、それは誰も不幸にならない。


好きなだけ推しを推す。

そうしていた時に、それまでは何も思わなかったのに、ある時――リアクションが返ってきたり、存在を認識してもらったりすると――急変するのだろうか。

「もしかしたら……」「そうだとしたら……」

そんな思いが押し寄せてきて、「もしも」を期待せずにはいられなくなってしまうのか。目を閉じて祈るように相手を思っていた状態から、目を見開いて暗闇を覗き込むような感覚。その暗闇の奥底には相手が両手を広げて待っていて、飛び込んでしまえば後は自分の好きにして構わない。漆黒の闇の中では誰に咎められることもなく、自分さえも見なくていい。妄執に溺れるなら盲目のほうが都合がいい。

「そうだとしても……!!」

たとえそうだとしても、その堕ちた先でも瞳を閉じて自分を見失わず、変わらぬ祈りを捧げることが出来るなら、堕ちきったその座標から祈ればいい。祈る時に下を向く者はいない。わずかな角度で構わないから上を向こう。それだけでその祈りは、いつか必ず暗闇を抜ける。そのベクトルの向かう先に何があるかなんて今は考えなくてもいい。

確かな光が、輝きがあることを信じていれば。


書き上げたのは今朝(2/18の午前中)です。
ここ最近は「光」のイメージが強くあったのでそれはまあ、あるでしょう。しかし、ほかの言葉やイメージまでもとなると……ほら、なんだかね?(なんだよ。)

ああ、なんて素敵な日々だ!

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