ある歌の鑑賞文006(荒地識さん)
209/04/25うたの日、お題「芝」にて非常に味わい深い歌に出会ってしまった。
身投げしたおれの財布は拾われて噺家の手でおれより生きる/荒地識
……。お題とのつながりにピンとくる方はどれほどいるだろうか?
題詠み込み必須ではないとはいえ、「芝」からこの発想が生まれることにまず驚いた。噺家ということは落語かな、落語ふむふむ、「芝居」というテーマで詠んだのかな、と思う人が多いだろうか。
古典落語「芝浜」の芝である。(←リンクのあらすじを読んでからこの鑑賞文を読むとわかりやすいのでおすすめです)
私は寄席は一度しか経験がないしこの演目をナマで体験したことはないが、大人気漫画「昭和元禄落語心中」がアニメ化されたときにたまたま見て声優の山寺宏一さんの「芝浜」を見た。本来は50分ほどかかる演目を8分に凝縮したあのアニメはすごかった。リンクはアレなのでさすがに貼れない、YouTubeで検索すれば見つかる。(ドラマでの山崎育三郎さんも大層お上手という噂、見逃した……)
芝浜は江戸時代に生まれたお話。
腕は悪くないのに酒に溺れてカツカツの暮らしをする魚屋の勝五郎は、このままじゃ年も越せないよ!と女房にたたき起こされてかったるそうに市場へ向かう。ところが閉まっている。これじゃあ商売になんねぇってんでふらふらと芝浜へ出る。芝浜というのは現在の港区芝浦あたり。
芝浜という演目で芝浜が出てくるのはこの場面だけ。ここの芝浜の景色描写に歴代の噺家たちは個性を出すべく試行錯誤を重ねたという。(あとはすべて町内で話がすすむ)
この美しい浜辺で勝五郎は小汚い財布を拾うのである。どうせたいしたものなど入っていないだろうと開けてみたらたまげた。五十両もあるじゃないか。こうなったらもう仕事なんてほっぽって一生呑んで暮らせるウエーイと家に帰ってしまう。そして知り合いを大勢あつめてのどんちゃん騒ぎ。
翌朝「魚の仕入れにいってきな」と再び女房にたたき起こされた勝五郎。もう働く必要などないのに。よくよく聞いてみると財布など拾っていないというではないか。はて、あれは夢だったのか。
夢を鵜呑みにして昨夜は大盤振る舞いをしてしまったので家計はカツカツを通り越して絶体絶命。さすがの勝五郎も改心し向こう三年は酒を断って仕事ひとすじに生きると誓う。
~三年後の大晦日~
かつての裏長屋住まいから出世し、表通りに店を構えるほどの魚屋になった勝五郎がしみじみと女房にお礼を言う。そしたら女房ったら泣き出すではないか。おもむろに差し出されるあのときの小汚い財布。中身もそのままぎっちり。
女房は三年間嘘をついていたのだ。亭主がこれ以上ダメな奴にならないように、財布など拾っていないという嘘を仕掛けていたわけ。勝五郎はひととおり話を聞いたうえで、女房にしみじみと感謝をする。
女房も涙を拭いて三年ぶりの酒でも、と勝五郎に差し出す。
お猪口を手に持って、戻す。勝五郎の名台詞で幕を閉じる。
「よそう。また夢になるといけねえ。」
以上が「芝浜」のあらすじである。これをふまえた上で短歌をもう一度読んでみる。
身投げしたおれの財布は拾われて噺家の手でおれより生きる
ここの「おれ」は勝五郎ではなく、財布の持ち主だ。話の中では最後まで落とし主は現れない。影のうすい「おれ」の財布だけがこの物語の鍵となって光る。おれ自身はこの世界には必要ないのだ。
実際に拾ったのは勝五郎なのだけど、財布に生き生きとスポットライトを浴びさせてやるのは噺家だ。
この鑑賞文を書くにあたり、複数の噺家による「芝浜」を見た。ちょっとした言葉の練り方ひとつでその噺家がどこに光をあてたいのかが全く変わってくる面白い演目だった。勝五郎の改心ぶりを魅せたい人、女房に日の目を見させたい人、風景描写に力を入れる人、さまざまである。
噺家というのは声が一番の武器なのは間違いない。
だがそれと同じくらい視線の動かし方、腕の振り方等全身をフルに使うパフォーマンスなのだと思った。そういう噺家の渾身の仕事ぶりを作者は下の句に込めている。
噺家の「手」でおれより生きる。声じゃない。手なのだ。
財布によって人生を翻弄される人間たちの三年間をあらゆる手を尽くして伝える噺家。か、かっこいい……。
この一首は江戸っ子のべらんめえ口調で音読するととても気持ちが良い。なめらかな抑揚がある。
そして視覚的にも楽しい一首だ。
「身と財」
「手と生」
の見た目が……似ている。
完璧な文字配列。
この一首を手放しで絶賛する言葉は私の胸にまだまだある。
でも。
よそう。また夢になるといけねえ。
ありがとうございました。
荒地識さん、鑑賞文執筆にあたり諸々ご快諾くださりましてありがとうございました。お題「芝」に対してこの一首をぶっこんだ勇気に感動しました。これからもうたの日でご一緒できるのを楽しみにしています。ますますのご活躍を!