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駒場巡り③―日本近代文学館―

駒場公園のはずれにある。ちょうど川端康成展が開催されていた。川端の幼少期から文壇で活躍していく過程で生み出された原稿や文人たちとの書簡が多く展示されていた。

川端康成の著作は『伊豆の踊子』と『名人』くらいしか読んだことがない。同行してくれた友人も『伊豆の踊子』くらいしか読んだことがないらしい。しかも学校の授業で。そんな"初心者"ではあったが、そこにある資料はものすごく興味深いものだらけであった。断片的とはいえ、どのような人たちと交流があり、そして、その中でどのような影響を受けたのか、出会いや別れの中から、川端がどのように変化していったのか、見て取れる。

残された原稿は「きれい」な使い方をしていない。推敲の過程で文章を削ったり、追加したりした痕跡が数多く残っている。1枚の原稿だけ読もうとしても、消されたものばかりで本文を辿るのも容易ではない。この時代の編集者の方々には感服しかない。現代を生きる私たちにとっては、彼らの原稿は読めたものではない。時の上手下手ではない。繰り返された推敲の跡が読み手を邪魔するのだ。だが同時にそれだけ1つの言葉や表現にこだわり、より良い形を求めていった跡が見て取れる。現代ではクラウドへの自動保存機能がそれにあたるだろうが、あの原稿ほどに1つの表現にこだわりを持って書けている人はほとんどいないのではないかと思わされる。当然私の文章も。

川端の原稿や書簡は彼らの研究をする人たちや著作に親しむ私たちにとっては非常に参考になる資料だ。だが、そこには彼らのプライベート、本人たちが知られたくない部分もあるだろう。現代で言えば、LINEやメールでのやり取りがのちに公開されるようなものだろうか。デジタルタトゥーの問題だけでなく、アナログな記録の残し方そのものも、ある程度のポジションになると考えなければならないのだろうか、そんなことさえ考えさせられる。なんとも、現代とは面倒な世の中になったものだ。むしろ、プライバシーなんて発想を捨ててしまった方が、楽に生きられるのではないか、それすら思ってしまう。一昔前まではごく僅かなプライベート以外はプライバシーが存在しないに等しいものだったはずだ。

文学館でありながらも、こういうことを考えてしまう。一種の職業病だな、なんて思いながら駒場の地を発った。次にいつ訪れるかはわからない。もう来ないかもしれない。だが、この日に考えたことはこんなブログの形でデジタルタトゥーとして残される。記憶からは消えるかもしれないが。

様々な立場で生きた人々の営みが見られる駒場の街、学生街や閑静な住宅街としての魅力以外のものを見つけられた良い経験であった。

これまで、駒場で訪ねた施設を1回ずつ、計3回に分けて紹介した。駒場を辿った当日の出来事を振り返ってみると、それぞれの施設が個性豊かであったのを改めて感じさせられる。特に華族として、贅を尽くしつつも、日本の和の要素をふんだんに盛り込み、賓客をもてなした前田侯爵邸。また、そこで使われていたであろう品々ではなく、かつて一般市民がふだん使いしていた民器を「民藝」とし、その中にある「美しさ」を追求した柳の日本民藝館。この対極をなすかのような2つの施設が間近にあるのだ。そこに加えて、近代文学館では川端康成が見てきた世界、その中での交流や試行錯誤の歴史を見て取ることができた。

たった1日、それも行った場所は駒場の中でもかなり狭い範囲だ。だが、これだけいろいろなものを見られたのは良かったように思う。今回は柳の本がきっかけとなったが、本をきっかけにして、実際に現地を訪れてみる。ある種の聖地巡礼。こういう日もたまにはいいものだ。

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