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30代の始まりにエヴァンゲリオンを観て感じたこと(シン・エヴァンゲリオンのネタバレ含む)

一生に一度のイベントだろう。小学校の頃、母親のレンタルするヤクザ映画に忍ばせてコツコツ観ていた作品の完結なんて、そうそう無いと思うので感想を一晩でなんとか勢いのままに書き殴りたいと思う。アベフトシが死んだ日だって、ゆらゆら帝国が解散した日だってこんな衝動は無かった。(ガラスの仮面とベルセルクとハンターハンターも続きを待ってる)
この話の結末を見届けて、まず自分がすることと言えば、大学1回生の時に「破」を新京極のMOVIXまで一緒に観に行った、いまや疎遠となった古い友人たちに連絡を取ってみるのも素直な行動な気もするけど。。明日以降考えます。

鑑賞前にはここまで感情が揺さぶられるとは思っていなかった。2時間半の大作を前に、ちゃんと考察して来た人にはわかるんだろうなって種明かしと、「勝ったぞ!」みたいな単純なカタルシスが待っている程度の期待しかなかった。
それ位「Q」は意味がわからなかった。公開当時、あの理不尽な程難解な謎解きで盛り上がれるほど生活にも余裕がなかったと思う、なけなしの金であんなものを観せられて、シンジ君と同じく「わからないよ!」となっていた気もする。1年後に続きが公開されていたって、即観にいくようなこともしなかったろう。
そんな自分もiPadでこんな駄文を書くくらいには生活に余裕が出た。大人になったのだ。

観る前の気持ちをちょろっと

今回の新作「シン・エヴァンゲリオン」も友人とたまたま会う用事が立たなければ、DVDになってからでいいや。。位に思っていた。が、せっかく封切り直後に観にいくのならと「序〜Q」を見返してみた。
まずい。やはり話がわからない、特にQ。13号機にセントラルドグマに潜ってからはカオル君がなんかワーワー言いながら死んでいった。なんか世界がヤバそうだったけど、マリがなんか防いでくれた。。それくらいしかわからない。(最後のワールドエンドでボーイミツガールみたいな始まりっぽい締めのシーンはそれだけで大好物でした)

これはいかんとなった。ループものなんだろうし、旧アニメ・劇場版もおさらいして、新劇場版との差異を確認しつつ、最終作まで積み残しされてる謎とその証明のための分岐箇所を洗い出さないと。。と、思った。そうでなきゃ20数年間引っ張り続けた物語を最大限楽しめないはずである。2から観て良いのはホーム・アローンくらいだ。そのホーム・アローンは最後まで観なくても良いとも教えてくれた。この20数年で僕は大人になったのだ。

だが、結局今回の鑑賞でそれらエヴァンゲリオンにまつわる話の筋だとか謎だとかの話を理解することは諦めた。単純に時間も無いし、難解な作品を鑑賞するにあたっての浅知恵も付いていた。
それは、作品には(ほぼ)必ず作者の意思の元に主題があって、そこを見抜ければ作品を楽しむには大体オッケーなこと。それは死生観、恋愛観、人生観、、いずれも普遍的なものが多いこと。
今まで誰も考えつかなかった殺人トリックでも、遥か未来のAIロボットでも、独創的なディストピアや日本人に全く馴染みのない宗教映画ではなく、きっとシンジ君が大人になるまでのシンプルな筋が根底にはあるに違いない。そこさえ拾えればまあ楽しめるでしょ。。と気楽な気持ちで行きました。きっとハルヒを読んで「信頼できない語り手」を初めて知った時のような感動はもう来ないよ。大人になったのだ。

そして観た

結果的にゲンドウの言う「大人になったなシンジ」のセリフがあった通り、そこの見立ては間違っていないと思う。まあ、人のそれぞれの解釈なんで間違い解かないんですけど。

グッと来たポイントとして、大人になるまでのきっかけ、描写が丁寧なこと。
村に連れて行かれてからの色んな出来事、それは旧アニメ〜劇場版でもあったが当時のシンジ君には理解出来なかったことや、14年経った世界であるが故に経験出来たこと。

長くなるので一番好きな大人への階段を抜粋すると「アスカに初恋を告げたこと」に尽きる。(階段を登った瞬間は、言った時では無く、それを自覚した瞬間なんだろうけど)
旧劇場版でも、シンジが自主的にエヴァに乗る、主体性を持って生きるようになるまで色んなきっかけがあったと思います。が、今思うにそれらは全く響いてなかった。アニメの最初の方でミサトに自分が守った街を見せられても、その後みんなを守るためにゼルエルと戦う。。と繋がってはいってるが、途中で折れてしまう。大人のキスをされて戦場へ送られても、結局は子どものままメソメソ泣いてる。(中学生にキスとかしちゃうヤバい半大人なミサトが、今作では大人(母)としてシンジを奮い立たせる。。という旧劇からのifストーリーも、かなりグッと来た)
そんなシンジ君が、初恋を通して大人になっていくなんて、、王道ジュブナイル映画的な演出を、まさかエヴァンゲリオンで最後にやられるなんて全く予想出来てなかったです。結局右ストレートが一番強い。

対するアスカも、この瞬間にきっと大人になったんですよね。眼帯は半分大人であることの表現だとして、トウジ達同級生は大人になっているのに彼女だけ言動が子供っぽいままなのは、きっとここで止まっていたからのように思います、エヴァの呪縛は関係なく。
アニメ時代から「エヴァに乗る/乗らない」しかシンジとアスカの考え方ってシンプルなんですよね、子どもだから。あまり大人側の事情(人類補完計画とか)わかってない。
シンジは眠っていたから仕方ないとして、アスカは14年間でそこら辺はだいぶわかるようになってました。元々エヴァに乗る理由だった承認欲求は薄れて今では乗るのが当たり前(=仕事と言ってもいい)な印象だったけど、それで大人になれたかというとそうではなくて、シンジに伝えてなかったことがあったから。。なんてどんだけ甘酸っぱいんですかね。本当にQの続編なのかなこれ。

アスカの回想シーンあたりは作画もかなり気合入ってたと思います。赤面するアスカは可愛すぎた。

最後に

人類補完計画という僕らを全員無知な子どもに変えてしまうスパイスを取り除いて味わってみると、父親、母親、大人、子供、男、女、隠居老人まで色々なロールの人が登場して、それぞれが精一杯生きている。。っていう作品だったなって思います。このスパイスはとても美味しいので、それはそれで良いんだけど、色んな撮影セットの中でエヴァが闘うシーンは、スパイスはあくまでスパイスやからな。っていうメッセージなのかなと。
撮影セットで戦わせるような、現実と虚構の境界線をはっきりさせようとするのは旧劇場版も一緒ですね。今回は更に実写の駅の中にキャラクターが居て、より顕著でした。

ただ演出があからさまになったから、今回はハッピーエンドになったから、ではなく、観る側が大人になったのがこの余韻につながっているのだと思います。初めてエヴァを観た時から人には言えないこともやったし、人を困らせても長い目で見れば結果オーライだったことも今だそうじゃないこともあるし、恋だってしてきたし。
そんな10数年間を経てゲンドウの台詞「大人になったなシンジ」はまるで自分に向けられているような言葉でした。ただおめでとう拍手を受けるだけだったシンジ君があそこまで成長したんだから、僕もそれに倣って何か発信しようと試みたくなるわけです。父ちゃん、俺今だからエヴァンゲリオンが理解できた気がする。あれからちゃんと今まで頑張って生きてきた気がする。

と、最後があまりまとまらないので、これで終わりにします!
近いうちにもっかい観に行って、この妄想こじつけがちゃんと納得できる感想か、確かめに行くぞ〜。

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