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池田町暮らしの七か条:世界はこう見る。

 私はテレビはないのでその話題がテレビにはどう扱われたのかは久々にテレビに興味しました。
 ネットには批判が擁護の論が(これも。)そこそこ多く出ていますがテレビ的には「んー、マンダム。」とやり過ごすしかないような雰囲気だったのではないかと想うのですが或いはそうでもなくテレビも結構論議になったのかな?
 何れにせよ、その手の出来事につきどの媒体にもありがちな論議は田舎は不自由で不寛容、都会は自由で寛容という現実離れな見方で、当の池田町も自らを不自由で不寛容な田舎と自認しています。田舎が田舎をそう定義づけるということは云っている自らが都会風を吹かせていることに他ならない自家撞着ですね。特に役人と市民(町民)の一種の階級格差が著しいのではないかと読めます。普通の田舎の人ならそんなことは言わない。

 で、『池田町暮らしの七か条』とその話題を俯瞰すると、女性週刊誌の定番『残忍!子供を洗濯機に入れて洗う馬鹿っ母』の類にとてもよく似ていると思います。
 身も蓋もない洗濯機のようなことからいうと、珍しい出来事が話題になることは古今東西同じということです。
 極少数のことは多数とは異質なので全体がそうなってしまうことはあり得ませんし広汎の社会病理でもありません。社会病理とはいえども極一部の病理です。
 しかし何が少数の特異な現象になるかは全体社会の特色との相対なので、それが話題になることはその全体社会に特有のことではあります。
 池田町が何故子供を洗濯機に入れて洗わなければならなかったのかといえば、それは日本は田舎も都会もなべて自由で寛容というか、管理や干渉を嫌う文化であり、世界をしても田舎はなべて自由で寛容なものだからです。歴史的に不自由や不寛容は都会ほど多いものです。
 田舎と都会の違いとは資源、人物金の絶対量が少ないことと共同体の利益構造の変更の可能性が低いことです。それは共同体の自由や寛容とは無関係です。
 都会は資源の絶対量が多くまたは共同体の利益構造の変更の可能性が高いことで、俗にいう都会の自由とはそのことです。それが共同体の自由や寛容を増す訳ではありません。
 故に田舎も都会も本質的違いはありません。

 田舎も都会も、日本は管理や干渉を嫌う国柄です。
 個人番号カードの批判が何故然程にも強いかというと、政府が個人に番号を賦してその情報を管理することが日本には前代未聞の珍しいこと(企業なら幾らでもありますが、)だからで、日本が歴史的に不当な管理や干渉と対峙し若しくは戦って来たので今度もまた戦うということではないのです。
 私はそういうことは全然OKと思うので個人番号カードを嬉々として取りました。そういう私は日本人的ではないとよくいわれます。

 田舎も都会も、日本ほど同調圧力のない国はありません。
 同調圧力がということでよく言及されるのはマスクのことです。
 日本人はマスクを同調圧力でしているのではありません。役に立つと思うからしているのです。外人はマスクが役に立たないと思う人や国が多いからしないことにしたのです。
 役に立つか立たないかは評価の要点や程度に由ります。何れにせよ何らかの役には立ちます。日本はマスクが役立ち易い環境なことは人口や建築の密度からも明らかです。
 逆にどう見てもアメリカの大草原の大きな家に暮らす人々がマスクをする必要はあまりありません。そのくらい分からないですかね?
 都会にしても、人に平気で近寄るようなキモい人はロンドンにもパリにもいません。
 しかし、極一部には他者にマスクを強要するような人々がいました。珍しいから話題になるのです。子供を洗濯機に入れて洗うような人です。
 逆に、極一部には他者にマスクをやめるように強要している人々がいます。それはアメリカには話題になる、子供が洗濯機に入って気づかないような人です。アメリカ人は大人はともかく子供は管理して干渉することが当然という通念があり、ビルゲーツやスティーブジョブスが子供に携帯電話を持たせないことが能く理解されたりします。故にそういうことになるような自由放任主義は珍しいので話題になるのです。
 分別のある大人ならマスクをすることもしないことも自由なのですし、「マスクを外そう。」、「日本だけが未だ皆マスクをしている、おかしい、」というのはそういう彼がおかしい。日本人を子供扱いして不管理不干渉で好き勝手にさせようとしているということで、そうしている内にスシロー事件とかになった。
 そこでは、云う側も云われる側も干渉されたくない、云う側はマスクなどでの体の管理もしたくないということで、管理や干渉を根から嫌う日本に特有の現象です。同調圧力ではなく解放圧力とでもいうか、故にウクライナの戦争にも熱狂したりする。ウクライナもその点は日本とよく似ていますし解放の神学などの出て来る南アメリカとも似ています。日本人のいうラテン的というのは南アメリカ的ということです。敵を挑発してやられたり、凶悪犯罪や無敵のおっさんが多かったりと、故に同じメンタリティーで渉り合える円としてTPPが至上命題になったりする。経済界がそれに固執していたのはアルゼンチン人とかみたいな無敵のおっさんがサラリーマン界に増えているからでしょう。しかしアメリカが加盟を渋ることの意味が彼等には分からないか分かっても何も言えない。日本に言われたら言い返すという訳にもゆかないので察するしかない。
 解放圧力が強くて同調圧力を作ることが下手なことが日本などの枢軸国の世界大戦の問題で、同調圧力があって敗けて罪に問われたのではない。先ずはそこを根底から改めなくては歴史は読めません。
 ナチスドイツも当初は独裁を志向していたのではなく、ホロコーストによる解放圧力とそのための反人道的行為が問題なのです。そのような解放圧力を至上価値とするファシズムとは必ずしも独裁体制と結びつくものではない。多分ヒトラーは独裁者になろうと思ってはいなかったでしょうし、自由で政権交代のあるファシズムというものも平気であり得る。アメリカの人種差別はその典型です。

 ウッドローウィルソン大統領の民族自決の原則は国家の間の過剰な干渉をしないための思想ですがあらゆる干渉を斥けるならばそれはファシズムになります。
 ウィルソンの提唱から百年、国連による基本的人権としての確立から七十年をしてもそれがあくまでも「原則として」のものなことは一目瞭然です。実際に本当に不干渉になったらクイズ世界はファシズムbyファシズムになってしまいます。
 しかし管理や干渉を嫌う日本人は白人達が民族自決とか云っているけれど嘘じゃないか、言ったらちゃんとその通りにしろよなどといいます。
 日本政府は必ずしも日本的ではないのでちゃんとその通りにする訳ではないのですが下々の国民に睨まれると恐いし安倍総理のように殺されたりするので国際政治にはあまり関与しません。それがいわゆる政治家の嘘の原理です。
 故に日本人は子供が洗濯機に入っていて気づかずに回すアメリカの珍しい人、知能指数の低い人を、人のことを言えないな、そういう恐いことはあるものだなと同情します。
 故にアメリカ人は子供を洗濯機に入れて洗う日本の珍しい人を、なかなか面白いことをする人だな、今度やってみようかと皮肉します。
 日本の女性週刊誌は普通の日本人は読んではいけない低級なものとよくいわれますがアメリカ人からすると自分達にはなかなか作れなさそうな高級なものと解されます。

 池田町というのは日本には珍しい、田舎なのに管理や干渉を好む都会的田舎。
 大抵の田舎は都会風を吹かしていてもにこにこと放っておいてくれるものですし田舎者同士も淡々としている人間関係です。
 いわば池田町は貧困なルクセンブルクという感じの所なのでしょう。
 ああいう国も国民が互いにかなり管理や干渉をしないと持たない。しかしルクセンブルクはそれが当たり前と思うので池田町暮らしの七か条のようなお金なさそうなパワポ資料を作ったりはせず、もっと豪華で分厚い市民マニュアルを出すでしょう。
 そのような都会化というものが生じることは共通の資源をめぐる競争、敵対や差別化など他所との利害関係からです。
 自分達の持つ資源と利益構造が安定しておれば都会化は生じず、管理や干渉も最低限になります。
 資源と利益構造の著しい不安定は都会化と戦争を生み易い。
 故に世界大戦後の世界は概ね田舎化を志向することにより相対的平和になっている。それがリベラルであり、その極端なのがグローバリズムと日本ブームです。
 尤もそのために管理や干渉をしない訳にもゆかないのでその権理を国家が独占する中央集権により地域紛争をなくす。そして世界の中央は核兵器ですね。
 日本は中央集権があまり勧まずに昔も今もずっと地方分権なので池田町のような馬鹿っ母地域が偶に出て来たりする。地方に任せているとそういうことになるのです。

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