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読書で体力を:新渡戸稲造『武士道』とジョンステュアートミル『功利主義』を読む。

 本稿は読書の奨めではなく読書の奨めです。
 This script is not a recommendation of reading books but a recommendation of reading books.

 :こういう非論理的構文は現実の状況、即ち文脈を勘案すると論理が成り立つ場合があります。
 例えば小泉進次郎構文といわれるものもその一つですね。私は進次郎構文が大好きで、それは今まさに必要とされる知性だと思います。
 進次郎構文の構造は多分、動詞を含む同格の句を動詞で結ぶ構文です。
 同格とは「、」や‘ , ’で連接され得る複数の句です。例えば「日本の総理大臣小泉純一郎の子、小泉進次郎」、‘Koizumi Shin’jiro, a son of the Japanese PM. Koizumi Jun’ichiro’。それに動詞を加えると「扉を閉めると扉が閉まりますよね。」。
 それは言葉と物事を能く理解しているからできる話法です。
 進次郎構文を蔑む人は言葉や物事を碌すぽ理解していない。理解していないからそれは同義反復だ(から意味がない、)とみたいな受売りの付焼き刃の言辞でしか批判ができない。

 扉を閉めると扉が閉まる;扉を開くと扉が開く:そういう単純なことを理性的に言える小泉進次郎は若しや武士なのではないかと思うです。

 しかし武士は大臣にはなれないので小泉氏が大臣になるなら岸田総理のように武士を辞めないとなりませんね、博士は武士でもなれますが。

 私は元々武士には全然興味がなく、尊敬する戦国武将とかもいなく、「座りしままに食ふは徳川。」と詠われる徳川家康のように武士道などどうでもいい、結果を出した者だけが偉いというような感覚。更に古い例は神武天皇。
 それは一種の功利主義(meritocracy or utilitalianism)で、そういう感覚を見直してみるということもあり新渡戸稲造の『武士道』とジョンステュアートミルの『功利主義』を読むことにしました。

 但しその「結果を出した者だけが偉い。」というのは勝ち負けとは必ずしも関係がなく、勝てば官軍ということとは異なります。
 例えば日本は負けても結果を出しました。何のことかは想像に任せます。
 負けは負けなので「負けて勝つ。」というのは如何なものかとは思いますが勝者は常に一名のみなので、その一名の他の全ての者は敗者です。ならば、負けながらにして何らかの結果を出すことが全ての人に必要なことだという思いは変わりません。

 武士にはほとんど何の関心もない私からしても、新渡戸の『武士道』はニトリの商品群に勝るとも劣らない面白さがあります。
 一つは古今東西の古典のカタログとしての効用があります。いわば読書が読書を促すというあれですね。
 しかし私はそういう読書のあり方を奨めません。
 奨めるのは読書よりも学問です。
 勿論、新渡戸がそこに言及する古典を読むことには意義がないとは思いませんが私は拙いながらも従来に学問をして来て『武士道』にも言及されるソクラテスやプラトンには何の意味もないことを知っています。古典なら何でも良いわけではありません。

 しかしまあ、読書には学問ということの他にもう一つの意義があることを『武士道』を読みながら悟りました。
 それは読書は体力に資するということです。
 本を読むと、何だか体調が良くなるのを感じます。そして近頃にする気にならなかったことをする気になれたりします。例えば浴室の掃除など。
 階段を昇ると有酸素運動で階段を降りると無酸素運動といわれますが読書は有酸素と無酸素の運動を同時にできます。読みながら、内臓の気が変化するのを感じます。

 それに何で気づいたかというと、私は長いことあまり本を読まないでいたからです。
 元々読書好きでしたが三十歳の辺りで名古屋暮らしをした頃から本をほとんど読まずに四十歳過ぎまで来ました。
 尤も、本を読まなくてもトヨタという現地現物が多くのことを教えてくれるのでそれはそれで良好で有意義です。
 しかし、私が何で痔になったのかを今考えると、どうも本を読まないことがかなり大きな一因ではないかという推察に達しました。
 痔になり始めた時期と名古屋暮らしの時期がさらーと一致すると気づく。
 因みに当時が歯の最終の生え替わりで、三十歳にして乳歯が抜けて新しい歯が生えたことが記憶に新しいです。
 私が若い頃に曲がりなりにも体調と体力を瑕疵なく保てていたのは読書という有酸素無酸素同時運動のお蔭だったのではないか。
 今も大きな体調の不良や体力の減退はありませんが細かいところにちらほらと綻びのようなものを感じたりします。年齢は工藤公康投手の背番号です。

 今日はそれが主題なので、新渡戸のpragmatismとミルの功利主義、meritocracy or utilitalianismの違いについては後に書けたら書きます。
 因みに日本の思想家やマスコミにはプラグマティズムと功利主義を混同混訳する向が多いようですがそれらは全くの別物です。少なくともミルの著などの岩波文庫を普通にちゃんと読んでいればそれらが別物なことくらいは当然に分かる筈ですし、私は読まなくても分かっていました。

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