『国家』について

別に哲学者になりたいわけでもない自分にとっては洞窟の比喩だけ読んでおけば充分な内容だったなと
田辺元氏が最低限読むことを勧めている書籍でもなければ上巻で読むのを辞めているだろう
後書きにある様にプラトンにとって国家の善し悪しは大問題であったのでそこに重点が起きすぎてあると言うくらいに置かれておりその時点で置いてけぼりにされるしレスバにも辟易とさせられる
ホワイトヘッドが西洋哲学の歴史はプラトンの多大なる解説にすぎないと言う様に西洋文明においては宝物の様な存在なのだろうが
しかし善のイデアのいう観念についても結局のところそんなものあるのか?という印象は拭えない
結局神(禁止カード的なもの)対思考の戦いにおいて超越者の御心は人の理解を超えるという暴力によって敗北し続けるのである
とはいえ洞窟の比喩によって示唆される見ている世界とその背後にある本当の世界の両者がぶつかり合う様にしてあるのは確かにわたしという存在であるという事がこの時代からかなり長くにわたって無視され続ける
わたしとは特異な存在なのである
実在論と観念論の対立が止揚するとしてそれは間違いなくわたしという存在が鍵を握っている
わたしの尊さは神に似せられて造られたからでも脈々とご先祖さまの得難いご縁によって得られたのでもない
全ての人間は自らの認識について特権を持っているからである
そしてその点において人は神なのである
その特権があるからこそ神や先祖を敬うという選択も可能であり逆に敬わないという選択も可能なのである
したがってわたしとは誰なのか?を問う事とあなたとは誰なのか?を問う事が重要なのではないだろうか
神と人の対立構造ではなく(神である)わたしと(神である)あなたとの対立構造を分析すると言うことの重要性を気付かせる装置として解釈する事も許されるだろう(洞窟内ではわたしとモノではあるが)
いづれにしても善のイデアがあるとしても人が考える様なものなどではないと言うイメージがある
おそらくそれは考える間もなくそれだと直観する様なもので正体不明の感動をもたらす様なものなのではないだろうか
当然逆の観念の正体不明の絶望もあるのだろう
つまりプラトンのイデア論は結局理解したところでこの両者を止揚しなくてはならないのではないだろうか
ただ、それは概念的な超越などではなく具体的にこの世界に現れる様にして起こらなければならないしそれは体現する事と分離できないだろう
そう言うわけで最近私は何かモノを作り出したいという欲求が生まれてきたのだ

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