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11話 高校3年就活中、2軒隣に漫画家が引っ越してきたので、とりあえず押しかけて僕が漫画家になるまで

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https://note.com/valensia/n/na07d88059597?magazine_key=mb226382d11c8

さて。ザ・無職。
皆川亮二作品、スプリガン連載のアシスタントを終え、スタッフ業が一時終了するこのタイミングで、務めていた会社も辞めてしまいます。何故だ、なぜ会社を辞めた俺。

恐るべし二十代の心意気。

この時は全く、何にも、不安などなく、普通にニートに突入してしまいます。実家に居て、一応来年にはアシスタント業に復帰するんだろうと、先が見えていたので「じゃあ、自分の漫画を描いて待っていよう」みたいな感じですね。お金はあってもなくてもどうにかなるだろう。ニートだし。

アシスタント業は、連載が終わると解散し、収入がなくなる事が基本なので(僕はちなみに、皆川亮二先生、橋口たかし先生、神崎将臣先生の所に手伝いに行った事があります)別のアシスタント先を探すか、バイトでも始めないと、一人暮らしだと生きていけないわけですが、僕はそもそも実家の2軒隣に漫画家が引っ越してきたわけで、一人暮らしするメリットが一つもないわけです。
お金に困っていなければバイトも別にしなくても良い。

両親が許せば…ですが。幸いにもうちはその辺は放任主義というか、「あれを買ってくれ」というような親に頼る案件については厳格でしたが、僕が勝手に始めた事や選んだ道について多分、「就職を一度はしろ」といった時以外、両親共本当に子供の頃から失敗するまで自由放任主義だったので、大変感謝しています。僕が言われても言うことを聞かないだけだったのかもしれませんが……(汗)基本怪我をするまで、問題を起こすまで、要は自分で反省を始めるまでは放っておいてくれる。大変ありがたい親だと思っています。

それに僕の場合、たまに皆川さんの別件の仕事の手伝いなどもしていたのと、就職+アシスタント時代のいくらかの貯金があり、お金にも余裕があったのでもうダラダラする訳です。

ここぞとばかりにゲーム三昧。
鉄拳2等はps版も基盤も家にあったので、毎週のように家とゲーセンを往復し大会に出たりしてたのです。
今の世界大会や、e-スポーツの流れと比べたらまだまだ街のアウトロー集団の大会でしたが、実績としては鉄拳2全国大会出場、鉄拳3県3位、鉄拳tag東日本大会出場程度、ほかに店舗大会で10回くらい優勝した程度で…
(結果が微妙で自慢話にしようとしたら自慢になってないw)
鉄拳3は全国大会がなかったんですよね。

加えて、そういう所でライター等の話とか、色々あったりするので、ゲームやってるだけでも仕事ってあるのかなあ、みたいな空気感もありました。ただ、プロゲーマーというのはなかったので(高橋名人や、バーチャファイターの鉄人といった、特殊な才能の持ち主は別として)僕の若いころにYouTubeやプロが存在したら、挑戦位したかったですね(笑)

と、それに加えてPSのゲームが大変面白い物が多く、ゲームばっかりやってた訳です。

そんな中、1年で数本どうにか漫画作品を仕上げたのですが、やはり画力もストーリーも力不足で、賞には結びつかず…もっと練習しろという話なんですが。
担当さんも一応賞に出してはくれるのですが、どう考えてもまだ無理だろう、と。まずは沢山出して、力をつけなさい、みたいなところです。

初代担当さんは数年後、移動してしまうのですが、いつ電話で打ち合わせの予約を頼んでも、ほとんど次の日にセッティングしてくれて、僕が初受賞(努力賞ですが)コミック大賞最終選考、その後の最後の月例賞受賞まで担当に付いてくれて、とても良い方でした。喫茶店で物を食べる時以外ほぼ打ち合わせ時間は5分。

ダメな所だけ指定して、あとは自分で考えなさい、というタイプ。一見突っ放し系と思えるのですが、実は人情派で、僕的には驚くエピソードがあるのです。今度描きますが。

で、最初の1~2年、この担当さんに持ち込んでは賞に出し、月例賞を狙うのですが、箸にも棒にもといった具合で。途中投稿ペースアップした時期もあったんですが、するとネームも絵もさらに中途半端になり、担当さんから「多く上げようとするのはいいけど、それでクオリティ下げたら元も子もない、それに今凄い下手なんだから、焦っても意味ないでしょ」と。

仰る通り。

で、年が明けても賞は取れず、今年こそは!と思った矢先に、
ファイナルファンタジーⅦがでるのです。

そしてとうとう、皆川さんから(あ、年末に転送者の読み切りとかありましたね)新連載の打診を受け、このクソ漫画シリーズも、ARMS編を迎えるわけです。


あ…でもですね、この無職の1年は大変その後の人生に影響のある年でした。ゲームの大会でのいろんな人との出会いや、秋葉原での知らない人達との交流に加え、ゲームメーカーの人達とも出会う機会があったり、主にゲーム関係ではあったんですが、人脈って大事だなあと思うきっかけになった年でしょうか。よほどの天才でもない限り、やはりいろんな人に会って、交流を深め、情報交換をするのは大事だと思います。それがのちに仕事につながったり、仕事が無くなったときに声をかけてくれたり、と繋がっていくのは間違いなく。逆に誰かが困っているときにこちらが出版社や企業を紹介できる。飲みに行ったり、同士で集まって交流するのは励みにもなります。

ただ、それは逆に「居心地の良すぎる空間」でもあったりするので、経験浅い段階で例えば、飲み会とか出まくったり、編集さんの苦情の言い合い等をしても不毛オブ不毛なので、信頼できる人脈作りが大事。

ある職業に就くために、それに邁進し、それだけに務めるというのも、悪くはないと思いますが、失敗した時、ほかに道がなくなる場合がある。僕は若いうちは特に、画力もネーム力も大事ですが、色々な事を経験する方がもっと大事だと思います。感性のまま精神的に影響を受ける事が出来る時代を作っておくことが、その後一生付きまとうのだと、思ったり思わなかったり。いえ、大人になってからでもいいんですけど(笑)子供の頃と比べるとやはり、変わっていくことも多いので。

絵は上手いに越したことはないと思いますが、どこかで聞きましたが、やっぱり絵3ネーム7みたいな力の付き方が良いのかもしれませんね。

的確に情報を伝える絵、というのは、絵が達者という事ではなく、

情報を伝えられる説得力がある絵が、上手いという事。

と、説得力のない僕が言ってみる(笑)

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(注)作中スタッフさんが少ないのは既に連絡が取れなかったりで
許可をもらっていない、もしくは諸々の事情からです。
ARMSでも多数のスタッフさんがいたのですが、基本的には許可をとりには
行かない予定なので、出ないです。

あと、kyoの連載はスプリガンと被っていたので端折りました。
あの連載の時は僕は警視庁担当だったので、警視庁ばかり描いてました。
一コマに何日もかけて……

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漫画家っぽい人の漫画講座っぽく思える講座。


まあ…いつも講座と言ってますが、講座でも何でもなく、自分の経験談なんですが(笑)

今回は「描きたいものがない、わからない(わからなくなった)」陥り症候群のお話。

どうでしょう。最初、子供の頃漫画家を志した時は「あの先生のような漫画が描きたい」「人気者になりたい」「金持ちになりたい」とか「とにかく、自分は絵が好き」とか、色々あるのではないでしょうか?

僕は「ただ絵が好きで、漫画家になりたかった」と思っていた時代がありました。子供の頃の初期動機はこれでいい気がするんですが……

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