【読んだ】『お菓子とビール』

『お菓子とビール』モーム、行方昭夫訳、岩波文庫. 原書 1930年発表

やほ

これから、読書の記録をわりとまじめに取っていこうと思っており、これは最初のエントリになるので少し緊張しています。

あと、これは読書会でも読んだ本なので、ここに書かれることは純粋な私の意見でなく、様々な読書家さんたちの意見を聞いたうえで私なりに咀嚼したうえで再構成されたものだというのはあらためてお断りしておきたい部分です。あるいは、わざわざ断らなくても、「現実の世界に生きている私たちだもの、日々色んな人から影響をうけているから、本当にオーセンティックで自分の物でしかない意見なんて、そんなもの持ちようがあるのかしら」、なんていう訳知り顔な意見で済ましちゃってもいいのかもしれない。

さて、本題。
この本は再読で、前に読んだのは21才のころだったと思う。お恥ずかしい話だが、私はちょうどそのころ、年上のお姉さんにべったり惚れていたので、この本に出てくるローズの素敵な魅力を、そのお姉さんに重ねたりなんかもしながら、何度も現れる「誠実」というキーワードについて、悩ましく考えを重ねていた、のである。21才、考える事も青臭かったのだ。(今読み返すと、ローズにとって女性であるってことはどのようなことだったのかな?とか、ドリッフィールドの2度の結婚生活はそれぞれ、彼にとってどのような意味を持っていたのだろうか?とかそういう事を考えた、やっぱり同じような点について考えていると言えなくもない)

4年も前の事なのに、何故そんなことが分かるかというと、そのころ書き残していた読書日記があるからである。

記録ってすごいわね、当時の自分と向かい合って対話できるのだもの。

というわけで、今回の物語を読む際、ずっと21才のころの僕がそばに居て、「そういえば、あの時はこのシーンで心動かされたのだった」「でも、このシーンは見逃してたなぁ、でもなんかめちゃめちゃドキドキする」なんて事を横から口出してきたのであった。

例えば、
14章の後半に描かれる、画家のヒリヤーがロウジー(=ローズ)の肖像画を描くシーンなんか、当時の私には全然記憶に残っていないようなのだ(その代わり、そのすぐ後の16章、ロウジーと語り手アシェンデンの最初の逢瀬、というシーンはしっかりと記憶されていた。若いとは難儀なものである)が、いま読んでみると非常におもしろい。もちろん、ここは語り手がはじめてローズの肉体魅力に気づき、恋に落ちるシーンでもある(今の私だってまだ十分若いので、こういうシーンは見逃せないのである。若いとは難儀なものなので)のだが。

肖像画を描くことは、対象となる人物を描き手なりに解釈し、それをキャンバスに表現するということである。つまり、ローズが自身のことをどのように思っているかに関わらず、数ある彼女の様々な側面から、描き手が選んだ一面が肖像画に表現されるという事である。

この場面で、語り手アシェンデンは「…今僕が覚えているのは、生身のロウジーなのか、絵のロウジーなのか区別がつかない。彼女を思い出すと頭に浮かぶのは、最初に会ったときの麦わら帽とブラウスの姿でも、そのときもそののちにも見た別の服装の姿でもなく、ヒリヤーが描いた白絹の夜会服を着て、髪に黒いベルベットのリボンを結び、彼に言われたポーズをした姿なのだ」(p.204)と語っている。

画家のヒリヤーは、ローズをキャンバスに表現することで、語り手アシェンデンにとってのロウジーの解釈について、それ以降の一切を変えてしまった。

私たちは恋愛の場面でときたま、自分の理想を相手に押し付けたり、相手のプライベートを勝手に解釈したりしてしまう。(私は思い込みが激しい方なので、結構そういう経験があるのですが、たぶんみなさん多かれ少なかれあるのではないでしょうか)そして、そういう「解釈の押しつけ」は恋愛だけでなくて様々な人間関係において起こりうる。

例えば、中心人物である老作家ドリッフィールドは、若い時分はローズのような奔放な女性と付き合ったり、自由な暮らしをしていたのに、老作家となった今では周りの人々に、巨匠として祭り上げられてしまい、若い時分のような自由な暮らしを失っている。

本書のサブストーリーである、「作家のロイ・キアが、巨匠ドリッフィールドの伝記を書こうとしている」ということだって、ドリッフィールドの人生を再構成して提示するという点では同じだ。

『お菓子とビール』では、ドリッフィールドとロウジーの、今では"誰も知らない"昔の話が語られるわけだが、誰も知らないのは、つまり、そういう"話"を作家のロイ・キアをはじめとした取り巻きたちがひた隠しにしてきたからであり、そうやって、或る巨匠の人生だって、簡単に印象を変えられてしまう。

ローズも、肖像画に描かれてしまった時点で本来の彼女の複雑性や力強さを失い、アシェンデン及びその他大勢の印象に残るのは、先ほどの引用の少しあとに、文学家のミセス・バートン・トラフォードがロウジーの肖像画をみて評した言葉を借りれば、「生けにえの祭壇に捧げる、仔を生んだことのない牝牛」(p.206)としてのローズなのであった。

絵画も小説も他の表現もそうなのだけど、表現物というものは非常に大きな力を持っているため、モデルが持っていた本来の複雑な多面性を、一面化して表現し、受け手へ広めてしまう危険性というものを秘めている。ローズやドリッフィールドはその犠牲者である。そして、彼らの隠された歴史を追憶する『お菓子とビール』はその犠牲者たちに捧げるエレジーではなかろうか。

と、
ここまでは現時点での私の感想なので、あと数年してまた読み返す時(あるような気もするし、ないような気もする)が来ればまた違った感想になるかもしれないし、その時はこれを読みながら、「25才、まだまだ青くせえなな」なんて言っているかもしれない。

そうやって振り返られるのも、記録にのこすことで、今の自分と向き合ったためだと思うので。今のうちにちゃんと記録に残してみたいと思うでした。
ではまた。

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