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3年間続けた移動生活をお休みして、鎌倉で定住生活をはじめた話

2019年の9月に日本を出国し、スペイン・テネリフェ島で移動生活を開始してから早3年。

奇しくも最後の滞在都市は同じスペインのバルセロナを後にして、2022年の10月末に日本に帰国して、実に8年振りに日本での定住生活をはじめました(2015-2019間は留学他)。

移動生活の全旅程

3年の移動生活の間に訪れた街を振り返ってみる。

2019年
テネリフェ島→ラスパルマス島→グラナダ→コルドバ→セビリア→バルセロナ→マジョルカ島→ケルン(ドイツ)→バルセロナ→メキシコシティ

2020年
メキシコシティ→アティトラン湖(グアテマラ)→サンクリストバルデラスカサス(メキシコ)→オアハカ→メキシコシティ→東京→博多→下関→萩→出雲→松江→広島→松山→高松→京都→メキシコシティ→プラヤデルカルメン(メキシコ)→トゥルム→メリダ→サンクリストバルデラスカサス

2021年
サンクリストバルデラスカサス→メキシコシティ→クエルナバカ→プエブラ→ケレタロ→グアナファト→オアハカ→メキシコシティ→アティトラン湖→アンティグア(グアテマラ)→メデジン(コロンビア)→サンアンドレス諸島(コロンビア)→カルタヘナ→サンタマルタ→ボゴタ→東京→札幌→富良野→知床→東京→宮古島→沖縄本島→東京→伊豆→筑波→東京→バンコク

2022年
バンコク→チェンマイ→パーイ→メーホーソン→チェンマイ→東京→和歌山→美馬(徳島)→京都→東京→金沢→北杜(山梨)→バルセロナ→サラエボ(ボスニア)→ベオグラード(セルビア)→プリシュティナ(コソボ)→コトル(モンテネグロ)→ドゥブロブニク(クロアチア)→フヴァル島→スプリット→バルセロナ

我ながら色んなところに行ったものだと感心する。

移動生活を営んでみて手に入れたもの

1.どこでも生活できるという感覚

基本的にどこに移動するにもやることは同じ。
・Airbnbでアパートを探し、リモートワークの生命線であるwifiを確保
・毎日自炊をするので、アパートに近くのスーパーマーケットを探す
・リモートワーカーフレンドリーなカフェを見つける
・運動のしやすい公園を探す
・現地で人と出会うには、出会い系アプリやMeet up、Facebook グループで探す

当方は、英語とスペイン語を日常会話レベルで話すこともできるので、現地の人や外国人との会話も困らない。
所持品もバックパック一つに収まるように調整しているので、仮に明日どこか外国の街に行って生活をはじめなさいと言われても全く苦にならない。

こうした感覚を得られたのは、ますます混迷を極める世界情勢を鑑みても非常に有益であったと思います。

2.どんなことにも柔軟に対応できる感覚

当然のことながら、滞在先の国によって文化も習慣も大きく異なるわけであり、外国人としてその国に滞在させていただく筆者も「郷に入っては郷に従え」という諺の通りに、現地の人へのリスペクトを持って現地のやり方に適合させていく必要があった。

それは例えば、
・ラテンの人と会うときは、ハグをして両頬にキスをするという仕草に関するもの
・旧ユーゴスラビア滞在時の各国の歴史的な背景を理解(クロアチア・ムスリム・セルビアの民族間で戦いあった戦争の歴史)して現地の人と会話をする必要があるようなもの
・ローコンテクスト文化の北米や西欧では、コミュニケーションが価値観、感覚といったコンテクストに大きく依存する日本のような「空気を読む」コミュニケーションを期待できないので、自分の意見を言葉を通じてはっきりと繰り返し主張しないと何も始まらないというコミュニケーション方法に関するもの

移動生活を続けていくうちに、こうしたその国のやり方や考え方を自然とインストールして実践できる感覚を得ることができたのも大きな収穫です。

3.ものごとに執着しないという感覚

1週間から3ヶ月程度のスパンで、バックパック一つで移動する生活を続けていると、「物理的なもの」や「カタチのないもの・こと」への執着がどんどんとなくなっていくのを感じます。

具体的には、
・バックパックに収まる範囲でしか物を持てないため、本当に生活に必要なもの以外の贅沢品や嗜好品などに興味がなくなる
・住む場所や仕事を選択する自由がある(当時筆者はフリーランス)ので、不健全な人間関係に執着する必要がなくなる
・移動生活をしていると、異なる場所で「日常生活を送ること」そのものがエンタメとなり、普通に仕事をして自炊をして散歩をすること自体を楽しむことができるので、出世欲や承認欲求といったものに囚われにくくなる

また、ここ数年仏教について学んでおり、実際にタイ・チェンマイの寺院にて一週間程度の瞑想の修行を行った経験からも、ものごとは儚く移ろいやすいものであり、それに執着しても仕方がないという感覚(無常感)が強くなりました。

移動生活を営んで失った(と感じる)もの

共同体感覚

短期間で次から次へと滞在先を変えていく生活を続けていると、自分の足が地に着いていない根無草のような感覚を覚えてきます。

滞在先で、現地の人や同じような移動生活を営んでいる人と交流する機会はありますが、所詮それは刹那的なもの。

人間は社会的な動物であると定義したのは、アリストテレスと言われていますが、他者と繋がっている感覚(ここでいう「繋がる」とは、SNSでのつながりのような表面的なものではない)を持てない時間が長くなると地味に辛いとここ半年ほど感じてきました。

移動生活を営んだこの3年間は、(自分の)好きな場所に、(自分の)好きなタイミングで移動して、(自分の)好きなように生活するという、いわば非常に「独りよがり」な(そしてとても贅沢な)時間を過ごしてきたと今振り返ると思います。
一方で、家庭、地域、職場などの共同体の中で人と繋がるという感覚を放棄した結果、なんとなく社会と接続していない疎外感を感じることになってしまった。

そして、この半年間自問自答を繰り返した結果、「移動生活を一旦休止して、定住生活をはじめる」という結論に至ります。

鎌倉で定住生活をはじめる

10月末に帰国して、鎌倉での定住生活をはじめています。

縁もゆかりもない鎌倉を定住先に選んだ理由は次の通り。
・豊かな歴史と文化を持ち、海と山を両方楽しめる贅沢な環境から、多様な人を全国から惹きつける点
・都市生活と田舎暮らしのちょうど中間的な生活ができる点
・面白法人カヤック柳澤さんの鎌倉資本主義のように、地域コミュニティを盛り上げようとする機運のある点

これからどんどん、鎌倉の地域コミュニティに顔を出して行きたいと思います。

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