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Stand by meの流れる車の中で、これからも友を大事にしたいと願った 田中 慧日記 #11

僕は茨城県の坂東市というところで生まれ育った。人口規模は現在で5万3000人程度で農業が盛んであるのと工場団地があり中小企業が多くあったりする。ただネックなのは駅がないので、半ガラパゴス状態であるし、半鎖国状態なわけだ。

ふと、坂東市はどれくらいの人口推移があるのだろうと疑問に思った。
年間で800人単位で人口が社会減・自然減している。0~14歳の人口推移でいうと1995年の約1万人を境に、2010年で約7,500人まで減少している。現在はというと、約5,600人だ。一方で、65歳以上の人口でいうと1995年に約1万人であるの対して、2010年には約1万3,000人。現在は約1万6,000人。典型的な少子高齢化減少だ。

そんな坂東市には僕は未だ愛着はそこまでないし、この街で何かをしようというような確固たる意思は正直存在しない。僕が実家を離れていた時に、なぜ坂東市に帰るかといえば、親の存在二人の親友の存在があるからだ。

そんな小さな社会で物事を見据えている。が、それらの家族の在り方や友との在り方を真剣に考えたい。それが結果的に、僕は大きな社会に繋がっているとおもうから。今日は親友とは何かを考えてみた。

友達はつくるものではなく、なっていくものだ

僕には親友と呼べる、親友と呼びたい二人の存在がいる。その二人とは小学校からの付き合いだ。

ふと三人で話すことが良くあるのだが、「僕たちはいつから仲良くなったんだろうね」というやつだ。これは他の友人とも良く喋る話だ。ただ確固たる「点」、つまり「この時から友達になりましたよね」のような分岐点は明確にはわからないのだ。

仲良くなるきっかけのようなものは何となくではあるけどある。

例えば、僕ら三人の場合は、あの「キセキ」などで有名な4名のボーカルユニットのGReeeeNがきっかけだ。

当時ルーキーズなどが流行っていたこともあったし、僕たちの世代はドンピシャだ。「いつ」という日付までは忘れたが、僕らは「あ、どうもはじめまして」のアルバムからGReeeeNを聴いていた。ただいつGReeeeNが好きなことをお互いが知ったのかは分からない。が、確かに僕らはある音楽をきっかけに仲良くになったのだ。また、僕らポップカルチャーである少年ジャンプなどの漫画やアニメ・ゲームが好きだったのも後押ししたのだろう。

不思議なのだ。
僕は根っからのサッカー少年だった一方で、彼ら二人は野球部だ。サッカー部はサッカー部でつるみ、野球部は野球部でつるむようなことが多かっと思っているのだけど、僕たちは定期的に会っていた。部活以外で、好きなタイプなどの話をしたりだとか、カラオケで熱唱したりだとか、一緒にランニングをしたりとか、中学時代までの青春を過ごした。ただ僕が中学生の時はメンズエッグなどを好きな影響であるとか、ちょっと悪い感じがかっこいいと思っていた時期で大分痛い奴だったのに分け隔てなく付き合ってくれたのが今となっては本当に有り難いと思っている。書いてるうちに思い出したのだけど、お互いが好きな人が被っていたりしていた。淡い青春の1コマだなあなんて思ったりもする。

そして高校は三人とも別々の道を歩むことになる。
だけど、会う回数が減ったものの定期的に僕らは会っていた。自分の部活の話や今後の進路の話、家族や恋の話など時間を過ごせば過ごすほど話す内容が尽きなかった。

そして僕らは、話さなくても、ただ居ていいという安心感を共有していたように思う。お互いが集まって、好きなアニメをただ見たり。会話もあまりせずに漫画を呼んでいるだけの日とかもあった。ただそれでもいいのだ。それが僕たちを緩やかに繋ぎ合わせていく為の秘訣だったのかもしれない。

僕は浪人をした。本当にきつかった。何度も弱音を吐いていた。本当は出してはいけないと思っていたから歯を食いしばった。だが母とその二人には弱音を吐けた。そこで勇気づけてもらった。二人は就職という選択を取ったので、時間は貴重だ。そんな中で僕に時間を使ってくれた。しまいには、片方の親友に良く駅まで車で迎えに来てもらったりしていたのだ(これは上京してからも続くことになるのだが)。

親の存在や他の人の存在も勿論そうなのだけど、僕はそんな二人の存在が確かに力に変わっていたし、だから予備校での勉強と戦うことができたのだ。本当に有難う、と今は心の底から思っている。

三人は環境が変わり、住む場所も変わり、付き合う人も以前とはガラッと変わった。

絶対にタバコとか吸わないと思っていた奴がタバコを吸い出すし、女性関係が義務教育時代ではあまりなかったはずの奴がめちゃくちゃ経験豊富になっていたり、バット職人になると言い出して修行しようとし出す奴までいる。何と子持ちの女性と今お付き合いしているような奴もいるのだ!

僕に関しては、世界一周に行くとか言い出す。ちなみに彼ら二人に一緒に世界一周に行こうと半分冗談半分本気で誘ったことさえあるのだ。

それでも、僕らは変わらず今もこうして親しい友人としての間柄でいる。熱海旅行へ男三人でも楽しく遊べる間柄だ。僕ら三人の時間に他の人はいなくていいとさえ僕は思っている。巷の、「女の子いないつまんない」的なのはまずない。

ただ僕は今は少しは落ち着いたと思っているが、大分自己中だ。二人には大分迷惑をかけたと思っている。そしてよく意見も変わっていた。数日前に言っていたことが平気で180度変わっているようなこともある。とても信用をおくことができないと一般論ではあるけど、笑い飛ばすか聞いてなかったのどちらかで継続していた。それも僕らの緩やかな関係の秘訣なのかもしれない。

僕らはいつ友達になったのだろうか?

それは分からない。というかもはや僕らにいつ友達になったかなどの話はどうでもいいことなのだと思っている。

だって、僕らは今こうして友達なのだから。
そして、僕の中に確かに彼らを「大切にしたい友だ」という想いが存在しているのだから。僕は仮にどちらかの友人が悪事に手を染めたり、たくさんの人から一時的に非難を受けるようなことがあったとしても、僕は僕を信じることにする。というか、何処の馬の骨かも分からない存在の話など判断の材料であって、信じるか信じないか、大事なのかそうじゃないのか、判断材料には決してならないと僕はここで断言する。

僕は彼らが好きだ。
僕らは友達になろうと打算的に・意図的に友達になろうとおそらくしていない。が、結果的に友達になっていた。

僕らは友達をつくる手続きをしたのではなく、僕らは友達になっていたのだ。


親友ってなんだ

僕は彼らのことを誰かに説明する際に、「親友」とよく言う。
でも親友って今思えば、とても曖昧な言葉だ。

一体親友とはどういう存在なのか?

親友とは
信頼できる親しい友。仲のよい友人。
「無二の―」

確かに僕らは、この定義だとすると「親友」だ。

しかし、「親しい」とは一体なんなのか?

「親」という語源からそれを探ってみた。

「親」の語源
木の上に立って子どもの帰りを見ている様子を表したものではなく、親の左側は「薪(しん)」の原字で、木をナイフで切ったなま木を表したもの。
それに「見」を加えた「親」の漢字は、ナイフで身を切るように身近に接して見ていることで、じかに刺激を受けるような非常に近い間柄を意味している。
語源辞典

上記の定義から読むと僕らは「じかに刺激を受けるような非常に近い間柄」ということだ。

確かにそう思う。僕らは互いが互いに確かに刺激を受けるような存在だ。時には安心感を伝播させたり、何かをやるぞと意欲が伝播したり、不安が不安を伝播させたりする間柄だと思う。

彼らが痛ましい時、僕は分からなさが苦しいし、何だか僕も痛い。決して分からない苦しみとそれでも想像の範囲で「わかる」としか言えない苦しみだと僕は思っている。

僕らは、そんな間柄に違いないと思っている。
それと関連して「親しい」間柄とはなんなのか?

親しいの意味
① お互いの気持ちが理解でき、気兼ねなく付き合える状態。仲がよい。
②いつも触れているために慣れている状態。なじみが深い。
③血のつながりが近い。
国語辞典 ONLINE

まず僕らは、直に刺激を受けるような非常に近い間柄だ。きっと違いない。その前提たった上で考察してみようと思う。

①は上記でつらつらと書いた通り、そうであると思う。

②は「いつも」は触れていないかもしれないけど、僕らは慣れている。そしてその「慣れ」の良さを確かに享受し、「慣れ」の怖さは対話で解決しているつもりだ。ただこればっかりは現時点で僕なは分からない。ただそう信じているに過ぎない。でも僕らは慣れていると思う。そして馴染みは深い。

③については、血のつながりはない。近いかもよく分からない。ただ家族よりは遠いが家族のような愛おしい距離のようなものを感じるのだ。ただこれはなんなのか分からない。

僕は彼らをこれからも親友と呼ぼう

色々考えてみたけど、僕は彼らを「親友」とこれからも呼ぶだろう。

僕は親友とは何かがわからない。
ただ僕にわかっていることは、僕に取って彼らは特別な存在であるということだ。

僕は彼らを本当の意味でわからない。
ただわかっていることは、わからないからわかろうとするし、わからないからこれからも確かめ合っていくんだ。

僕はそんなことを思いながら、Stand By Me を口ずさんだ。

Just as long as you stand, stand by me

いつも有難う。これからもよろしく。
これからの人生で沢山の思い出を作って、泣いて、笑って、楽しんで、一緒に喜びを感じて生きていこう。

そして僕は彼らと一緒にこれからも生き、力を貸せるような、時間を費やせるような生き方を実現する。そのために僕は頭とペンを動かすことに決めた。

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