【T〜バイト先の奇人〜前編】R5.8.9

 僕が立体駐車場でアルバイトをはじめてから1年と3ヶ月の歳月が過ぎた。これまで僕は、優に10を超えるアルバイト先に勤めてきたが、不本意にもキャバクラのボーイに次いで2番目に長い勤め先ということになる。
 これは、あくまで個人的な見解だが、駐車場バイトとは「出来るだけ楽に金を稼ぎたい」という浅ましい考えの終着点だと思う。かくいう僕もそんな浅ましい考えを持つ一人で、だからこそ、こうして1年以上も「オーライ」の発声を恥ずかしげもなく続けられている。
 『水は低きに流れ、人は易きに流れる』と、中国の思想家は、人の心を自然の摂理として説いた。その言葉を裏打ちするかのように、現在、駐車場バイトには僕と同様の邪念をもつ同志たちが集結している。そんなアルバイトの終着点で出会った、一人の男の話をしよう。(その男を、ここでは便宜上”T”と呼ぶことにする。)

 Tの年齢は30代後半、身長は170cmほどだが、筋肉がかなり発達しているので、実寸よりも大きく見える。さらに顔は小さく、歌舞伎役者のような淡麗な顔立ちをしているので、スペックはそれなりに良いほうだと思う。だからこそ、坊主頭を1ヶ月間放置したような無造作な髪形が余計に悔やまれるところである。
 その性格は、表向きには快活な人柄で、目下の人間に対しても謙虚に接し、常に敬語を欠かさない。のちに僕は、この「表向き」の部分を看破できなかったことを酷く後悔する羽目になる。
 Tと出会ったのは、僕が駐車場で働くようになって間もない頃だった。5日間の研修のうち、2日を彼が担当することになったからである。社員が研修を担当するわけではなく、アルバイトがアルバイトにレクチャーを行うため、アルバイトの質は逆・雪だるま式に低下の一途を辿っている。うちの駐車場では、ワンオペ(1人ですべての業務をこなす状況)で勤務することがほとんどなのだが、この研修期間中だけは2人で勤務する。したがって僕はこの2日間、15時間もの時間をTと2人きりで過ごしていたことになる。
 幸か不幸か、Tはかなりのお笑い好きだった。僕が芸人をしていると知ったTは、気が狂ったように次々とiPodでお気に入りのネタ動画を見せてきた。どうしてiPodなのかという疑問はさておいて、お笑いの話で会話も弾み、この段階までの僕のTに対する印象は「気の良い兄貴分」といったものだった。
 そして2日目の研修を終え、僕たちはかなり親密な間柄になっていた。Tは自身の生い立ちこそ頑なに明かしてくれなかったが、僕は彼から、あのムーミンを彷彿とさせるアンダーグラウンドの香りを感じていた。時刻は23時を過ぎ、僕が帰りの身支度をしていると、Tが今から飲みに行かないかと誘ってきた。僕は金銭的に余裕がなかったので、はじめは丁重にお断りしたのだが、代金を出してくれると言うので、Tの生い立ちに興味もあった僕は、彼の意向に甘えることにした。
 はじめにTが向かったのはファミリーマートだった。お笑い好きを豪語するだけのこともあって、Tはそれを「グリーンバー」と呼んでいた。グリーンバーで購入した500mlの缶チューハイを片手間に、我々はTの行きつけの店があるという、アメ村へと足を運んだ。その道中、Tがカバン代わりに使っているABCマートの袋から、ちらりとタッパーらしき直方体の影が見えた。僕が中身はなにかと訊ねると、Tは汚い笑顔を浮かべながら「ホワイトバー寄りませんか」と、少し離れたローソンを指差した。そのあまりに強引な話の濁し方に、これは踏み込んではいけない領域だ、と僕は直感した。なので「いや、ローソンはブルーバーでしょ(笑)」と僕もまた汚い笑顔を浮かべながら、咄嗟に話を合わせた。
 ホワイトバーを出て10分ほど歩いただろうか、Tの行きつけという例のお店へと到着した。はじめはバーだと聞いていたが、その店はバーというよりは居酒屋に近い内装だった。手前にカウンター席が数席あり、奥にはボックス席が8つ並んでいる。閉店時間間際ということもあり、店内にはマスターと呼ばれる中年の男と、カウンター席に常連客らしき若い男が1人いるだけだった。マスターはTに気づくと、「お久しぶりです」と声をかけたあと、ほんの一瞬だけ、苦虫を噛み潰したような顔をしたようにみえた。
 Tの異変に気づいたのは、彼が3杯目の烏龍ハイを注文したあとのことだった。Tは突如、カウンター席から離れ、店頭に飾ってあるバスケットボールでドリブルをつき始めた。ドリブルをしながら店内を徘徊するという、XEBIOでもあまり見かけない光景だ。すると、見かねたマスターが諭すような口調で、「他のお客さんもいるのでやめてください」と言った。さすがの僕も同伴者として責任を感じたので、Tからボールを没収し、元の場所に戻した。それからマスターは怪訝な面持ちのTに、こういうことはあんまり言いたくないですけど、と前置きをしたあと「うちもそろそろ出禁にしますよ」と続けた。あまり聞き慣れない「出禁」という言葉に僕は肝を冷やしたが、やはりそれはTに対しても効果的面であったようで、彼は逃げるようにお手洗いへ向かった。
 ここで僕が最も気になったのは、マスターの言った「うちも」という部分だった。思えばこれまでの道中で、僕が「あの店良さそうですね」と言うと、Tは少し寂しそうなトーンで「その店出禁なんですよ」と言っていた。僕はそれを冗談として笑い飛ばしていたが、どうやら冗談ではないらしい。やがて、脳内で点と点が繋がっていくのと同時に、背筋が凍るほどの恐怖を覚えた。
 すぐに僕は、身を守るためにマスターを通して情報を集めた。しかし、マスターもそこまでTを知っているというわけではないようで、曰く、かなり酒癖が悪いということだった。ひとえに酒癖が悪いといっても、他のお客に絡んだり、落ち着きがなくなったりというだけのもので、暴力的になることはないらしい。それを聞いて僕は少し安堵した。どうやら、暴力を振るわれるという心配はしなくても良いようだ。僕は常連客に絡んでいるTを引き剥がしたのち、たらふく水を飲ませてから、そろそろ閉店時間だということを伝えた。少し酔いが醒めたのか、落ち着きを取り戻したTはいつもの口調で、もう一軒だけ付き合ってほしいと僕に頭を下げた。さすがにひと回り歳上の人間に頭を下げられては僕もバツが悪いので、ご馳走になったお礼もかねて、僕はもう一軒だけTに付き合うことにした。

 思えばこれがTの理性が残る最後の地点であったのだが、この選択がのちに大きな後悔を生むことを、当時の僕はまだ知る由もなかった。

To be continued…

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