人生考察系YouTuberを目指したい

 昨日TBSドラマ「VIVANT」が最終回を迎えた。

 俺も毎週欠かさず視聴し、巧みに張り巡らされた伏線や壮大なモンゴルの映像、役者陣の渾身の演技に夢中になっていた。

 最近の連続ドラマの中には、ドラマファンの中で「考察ドラマ」と呼ばれるジャンルがあるらしい。
「真犯人フラグ」「マイファミリー」あたりがそうらしい。「あなたの番です」なんかが火付け役なんだろう。

「VIVAN」製作者は「VIVANT」は考察ドラマではないと明言しているが、巧みに張り巡らされた伏線や役者の言外の意図を示唆させるような演技がゆえにこのドラマもある種考察
ドラマとして位置付けられていたのではないか。

 その証拠に、YouTube上で「VIVANT 考察」と検索をかければ、同種の動画が何本も表示される。チャンネルによっては独自性のある考察を披露し、再生回数も数万回を超えるものもある一方で、ほとんどのチャンネルが同じような考察を羅列しているだけである(と俺は思う)。

 なぜそのような考察動画が溢れているかというと、「考察」がコンテンツ化され、娯楽の1つになっているからだ。

 元々小説や映画などを見た後に、自分なりに物語を解釈し自己に還元させていく作業は誰しも行っているものだろう。読書感想文なんかはその作業を文章に起こすものだ。
 歴史を遡れば「古事記伝」なんかも考察本の1種だろうし、「風姿花伝」もその一つかもしれない。
 すなわち、考察は人間に備えられた欲求の一つだと言える。

 では、我々は小説や映画以外に対しても考察をするのだろうか。

 音楽、スポーツ、政治、経済、科学…おおよそほとんどものに対して、我々は考察をしているのではないか。

 では、我々は我々自身を、我々の人生を考察することはあるのだろうか。

 デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言う。

 デカルトに言わせれば、自分自身を考察することが、自分の存在証明なんだろうか。

 俺たちは、自分が過去に言った発言を振り返り、その発言に意味を持たせているだろうか。
 俺たちは、自分の現在の状況を俯瞰し、そこに意義や役割を与えられているのだろうか。

 俺は、死亡という人生の結末に向け、自己の人生に意味を与えられているのだろうか。

 そういう意味では自分の人生というものは、
最も考察しがいのあるコンテンツなのかもしれない。

 なぜなら、自分の考察次第で、暗い過去も色付き、
それは未来に向けた伏線なのだと思えるからである。

 あの失言もあの失敗も、すべて将来のある時のための伏線だと考察してやろうじゃないか。

 だから人生考察系YouTuberになってやりてえなあ。

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