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【87日目】歴史の空白

ご隠居からのメール:【歴史の空白】

三井財閥の益田孝は佐渡出身で出雲益田藩とは関係がない。では益田氏は消滅したかというと、どっこいDNAはどこかに生きている。成功者の有名人がいないからめだたないだけだ。萩の長谷部氏や出雲松田氏も同様。

高瀬の長谷部氏の古墓地には尼子の落人と呼ばれる大きな岩のような苔むす墓石があった。今は古墓地と新墓地がいっしょになってどの石が誰の墓かもわからなくなっている。

成功者とは何者か。わかりやすいものさしは富と権力だが、そのものさしによれば、次の三つの時代の切れ目には成功者がいたと推察される。

一 尼子の落人という御先祖様の墓といわれる大きな苔むす石を運んだ人
二 頭にかさをかぶせ、横に没年号を記した墓をつくった人(享保年間)
三 古墓地の他に新墓地をつくった人(與左衞門さん?)

もし長谷部氏が新見藩関氏から苗字帯刀を許されたとしたら、それはおそらく與左衞門さんの時代だろう。新見藩に材木で冥加金を納めた見返りか?

原敬は、ヒステリーの妻と離婚した後、文字も書けない芸者と再婚している。この再婚相手は賢妻だったといわれている。豊島陽蔵さんの名前を確認するため司馬遼太郎『坂の上の雲』を読み直すことにした。文庫版で十巻もあるから確認に時間がかかりそうだ。


返信:【Re_歴史の空白】

出雲益田氏は、やはり毛利氏と共に萩へ行き毛利家の永代家老になっているようだ。 豊島氏は幕臣豊島氏と布川豊島氏がいて、江戸幕府の旗本とwikiに記載があった。豊島家を調べるには、情報が少ないかな、、ただ、豊島陽蔵さんと何ら関係があってもおかしくないと思う。

「尼子の落人」といわれている墓が長谷部の家にあるのか、、、「尼子の落人」といわれているのは、津弥さんが松田の分家、大原氏の出身だからかだと思っていたが、それ以前から言われていたんだね。しかも、享保となると関ヶ原の100年後。元信の息子から4代くらいのあいだで「尼子の落人」といわれている人、おそらく松田氏と婚姻関係になったんだろうね。

最近、鎌倉時代も少し勉強しだした。源頼朝が亡くなり家督を継いだ、道楽息子頼家が、母親である北条政子と13人の御家人から政権を追い出されるが、その13人の御家人なかに三浦義澄がいる。三浦義澄は、長谷部の家系図にのっている人だ。また、その父、三浦義明も家系図にのっており、wikiには、義明の子として、長井義李がいると書いてある。

義李は、長谷部信連と家系図にかいてあるので、三浦義澄と長谷部信連は、兄弟だったということになる。総人口750万人の鎌倉時代で、政治の中心にご先祖さまがいたんだね。鎌倉には鶴岡八幡宮があるので、長谷部氏が八幡さまの氏子だといわれる由縁だと思った。


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