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【200日目】過去帳の情報

ご隠居からのメール:【過去帳の情報】

>>過去帳の件、よかったね。広島のおじさんもちゃんと約束を守ってくれ
>>ている。ありがたいね。

ーーうん、過去帳の情報があるのと、ないとでは、後日譚の内容ががらりと変わる。ずいぶん時間がかかったし、弥左衛門さんの別名とか友次郎さん六代目の謎とか、こまかなことも全容解明とまではいかないが、ある程度は推察がつく。礼状を送っておくよ。

過去帳でいちばん古いのは、享保十九年寅七月二十八日に逝去した「金妙露信女」だが、それ以後の家督相続者と思われる人物の戒名は次の通りとなっている。

【江戸中期以後】

一.帰心道入禅定門(享保二十年卯三月二十日)
二.一通休心信士(安永年末 八月十四日)
三.随園独照禅定門(寛政三年亥)
四.本戒恵明信士_喜右エ門(文政四年巳四月六日)
五.白翁道雪信士_菊右エ門(文政十年亥十一月二十一日)
六.徹山有隣居士_与左衛門(天保十四年卯十月五日)
七.総命院大賢達道居士_與左衞門(明治五年一月十三日)
八.長抽院篤仙恭翁居士_彌左衛門(大正四年旧三月一日)
九.準徳院喜岩良冶居士_喜代三郎(明治二十四年三月十五日)
十.松寿院智達入玄道居士_友次郎(昭和十二年四月二十六日)
十一.勝寿院自疆廉潔居士_勝治郎(昭和十九年六月十四日)
十二.永祥院一乗義寛居士_與一(平成元年十一月十日)
十三.その他多数。

>>しかし、一番古いご先祖さまは、やはり、1700年頃に西谷村から高瀬村
>>へ越した可能性が高くなってきたんじゃないかね。

ーーいや、やはり1577年ー1600年頃だと思う。それから墓碑銘のない、苔むす石の墓の御先祖が五代くらい続き、六代目が帰心道入禅定門(享保二十年卯三月二十日没)だろう。

戒名の最後は、禅定門、信士、居士がついているが、いずれも庶民にしては格の高い(お布施の金額も高い)戒名であることを示している。いわゆる差別的な戒名だね。現在の相場は五十万円とか百万円とか聞いたことがあるが、オレの死後、浦安市からリースする墓の碑銘は「おもいで」だから戒名はいらない。位牌は浅草寺にある。

返信:【Re_過去帳の情報】

「過去帳」スゴイね。写真撮りたいから、近いうち、浦安へ行くよ。

墓碑銘のない、苔むす石の墓の御先祖たちが五代くらい続き、六代目が帰心道入禅定門(享保二十年卯三月二十日没)ということは、確かに、戦国期末もしくは江戸幕府初期には、長谷部が住み着いていたことになる。

次に、考えられるのは、長牛之助の一族が高瀬大原の土地を手に入れたというところかな。

牛之助は鉄の採掘で多くの富を蓄えたのであれば、阿哲郡と名の付く、高瀬の地を得て弟か息子を住まわせることも考えられるだろう。やはり、長谷部(長)の名前を捨てるということは、考えにくい。一族の血と名を残すためには考えられないかね。

面白いのは、「衛門」を通名として使用しているということ。右か左かはおいておいて、ご先祖様が朝廷で働いていたことを誇りに思い残していたのだろう。「菊」「輿」という名も通名と考えてよさそうだ。しかし、信連の「信」や「連」の字を遠慮して(?)使わないところに、尼子の落人だということを感じる。

最近、江戸時代のことを少しずつ学んでいるが、「島原の乱」で天草四郎軍が籠城している原城に幕府軍が最初に送り出したのは譜代大名の板倉重昌しげまさだった。板倉勝静かつしげもそうだが、備中松山藩は徳川幕府に相当信頼されていたようだね。


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