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■【より道‐15】山室軍平

我々に命があるのには、松田伝蔵さんの生き方が関係していたが、もう一人、影響のあった方がいる。それは、日本人初の救世軍士官で、日本人初の日本軍国司令官になった山室軍平さんの存在だ。

はじめて松田伝蔵さんや山室軍平さんの話を聞いたとき、二人とも宗教家のため、正直胡散臭いと思ってしまった。「宗教」=「胡散臭い」と思ってしまうのは、自分のなかで何かの防衛本能が知らずに働いてしまっているのかもしれない。

しかし、明治から昭和までのあいだは、貧しい人や男女間の差別等も当たり前のようにあり、人間としての倫理観を訴え続けてきた人なのだろうなと思っている。

念のため、先にお伝えしておくが、自分は『金光教』でも『救世軍』の信者でもない。ファミリーヒストリーを紡ぐうえで、神仏含め、ご先祖さまがどのようなことを信じ人生を全うしたのか知りたいと思っている。


【救世軍:山室軍平】

救世軍は、1865年(慶応元年)江戸時代末期にイギリスで発祥したキリスト教を布教する団体。「軍」を名乗っているのは、組織的な統制(階級、制服、記章、指針、規律、用語)を図るためと言われている。日本には1895年(明治28年)に12名の伝道者が横浜港に到着し布教活動を始めた。

1895年(明治28年)といえば、日清戦争が終わり下関条約が調印された年。近代国家、富国強兵を推し進める一方、鎖国から脱却してまもない封建主義が色濃く残っている時代のため、貧困や男女差別など横行していたそうだ。

山室軍平さんは、1895年(明治28年)に救世軍に入隊し、翌年の1896年(明治29年)には日本人最初の救世軍士官(伝道者)になった。1907年(明治40年)には、東洋人で最初の救世軍将官となり、日本軍国司令官を務めた。

終生に渡り社会福祉事業、公娼廃止運動(廃娼運動)、純潔運動に身を捧げ、1915年(大正4年)11月9日に藍綬褒章、1924年(大正13年)に勲六等瑞宝章を受章。1937年(昭和12年)には救世軍大将より「創立者章」を受章した。

1902年(明治35年)の日英同盟は、救世軍の存在も寄与し日露戦争の勝利に大きく関わっているという。また、渋沢栄一など経済の重鎮と山室軍平さんは繋がっており、当時、多額の支援をうけたという。


【長谷部家との関わり】

我が長谷部家は、長谷部信連の子孫として岡山県新見市高瀬村にひっそりと住みながら、「尼子の落人」を誇りに生きてきた。百姓だが、ご先祖さまから続く武家のしきたりを大切にしているため、当然、婚姻関係を結ぶには、「家」と「家」の格や血筋を重んじており、調査の結果、山を越えた隣村、伯耆日野出身(鳥取県日南町)から妻を娶っている様子が伺えた。伯耆日野というのは、鎌倉御家人の長谷部信連が流浪の身となって、7年間住んだ場所といわれている。

そのような、家の伝統を破った人がいる。それが、自分の祖父長谷部与一(輿一)さんだ。そのお相手は、鳥取藩主に仕えたという岡村家の長女、自分の祖母である岡村貴美子さん。この二人のご縁が結ばれたのは、救世軍、山室軍平さんが仲をとりもっている。

山室軍平さんは、岡山県新見市哲多郡則安村に生まれ、則安村は、長谷部家の土地、高瀬村に近く、救世軍には貴美子さんの父、岡村素(はじめ)さん、自分の曾祖父が入隊していた。山室軍平さんから「長谷部の家柄であれば問題ない」とお墨付きをもらったという。

山室軍平さんがいなければ、自分の命は紡がれていないことになる。

山室軍平


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