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■【より道‐19】八つ墓村

父とメールのやりとりを続けてると自分たちのご先祖さまに関わる知らない言葉や情報が入ってくる。その内容をネットで調べると、なんだかそれらしい情報が収集され、あらたな謎が生まれる。この作業を繰り返すことが「歴史ロマン」というものかもしれないが、事実と逸話が交じり合い、なんだか推理・推測が溢れ出てしまうのだ。まるで、完成していない実体験版の推理小説にのめりこんでいるみたいだ。

例えば、父の随筆「尼子の落人」や「辰五郎と方谷」でも紹介されている横溝正史さんの有名な推理小説「八つ墓村」。昔から、父の故郷である、岡山県新見市阿哲郡神郷町高瀬あたりにある山奥の一寒村がモデルだと聞いていたのだが、タイトルからして恐いイメージだったので、小説を読んだこともドラマをみたこともなかった。

しかし、今回は、ファミリーヒストリーを研究するうえで調べる必要があると思い、初めて金田一耕助シリーズのドラマをAmazonPraimeでみたり周辺情報調べてみた。すると、高瀬や日野周辺の史実を参考にした小説だということがよくわかってくる。まさに「歴史ロマン」だ。


【八つ墓村】
我が家のご先祖さまは「尼子の落人」と家訓のような云い伝えがあるが、「八つ墓村」の物語にも八人の尼子の落武者たちが登場する。

永禄九年(1566年)月山富田城で毛利元就との戦いに敗れた、尼子の落武者八人が伯耆、備中の境にある山々に囲まれた一寒村に落ちのびてくる。彼らは尼子家再興のために3000両を持っていたが、それを知った村人たちに殺され黄金は奪われてしまう。「八つ墓村」の物語は、その怨念がなんと400年先の現代にも続き、連続殺人事件が起こるという物語だ。

この話だけみると、ひとつのフィクション小説ににみえるが、実はいくつかの史実と実話のエピソードをもとに物語が構成されていそうだ。


・津山事件
昭和十三年(1938年)に岡山県苫田郡西加茂村(現津山市)内の住人を約2時間で改造猟銃と日本刀で、幼児、老婆含めて死者30名、重軽傷者3名の被害者が出た実際に起きた連続殺人事件。この事件を「八つ墓村」ではモチーフにしており、小説では尼子の落人の怨霊により気が狂った豪家の田治見氏が村人を次々と殺害したことにしている。

ちなみに、父の実家神郷町高瀬から津山事件が起きた西加茂村までは100キロほど離れている。1938年というと日中戦争が勃発して丸一年経った頃。まだ、父は生まれておらず、祖父の輿一さんと祖母の貴美子さんが満州、哈爾濱で仲睦まじく新婚生活を過ごしていたと想像する。津山事件のことは、二人の両親の勝次郎さん、津弥さんとの手紙や新聞などで知ることになっただろう。


・九牛士
伯耆日野(現日南町)に「九牛士きゅうぎゅうしの伝説」というものがある。これは、毛利氏が尼子氏を滅ぼしたのち、尼子の残党が伯耆日野で食料を略奪をしていたところ、小早川隆景が尼子残党を生け捕りにしたという話。隆景は生け捕りにした尼子残党を翌日、打ち首にする予定だったが、そこの住職が命を助けるようお告げの夢をみて、小早川隆景に懇願し助けたという伝説。すくなくとも、この地に尼子の残党がいたのだろうと思えるエピソードだ。

※参考資料「九牛士(きゅうぎゅうし)の伝説【福塚】」


・八人塚
「八つ墓村」の題名だが、こちらも伯耆日野に備後、備中、出雲へ至る峠で馬子八人が遭難したといわれる場所に、「八人塚」という八人の霊を弔うための塚があり、亡くなった八人を供養したという場所があるという。「八人塚」から「八つ墓村」という名をインスピレーションしたのではないだろうか。

※参考資料「八人塚【湯河(ゆかわ)】」


・明智峠
1977年に製作された松竹映画『八つ墓村』では、山陰地方にある明地峠がロケーションの地となった。原作となった横溝正史の推理小説『八つ墓村』では、「八つ墓村というのは、鳥取県と岡山県の県境にある一寒村である」という書き出しで始まっている。疎開していた横溝正史も、明地峠の雲海をみたのだろうか。明智峠は日南町(日野)にあり、神郷町高瀬からわずか20キロほどの場所にある。

※参考資料「ミステリアス山陰・おすすめスポット明智峠の雲海」


・田治見氏、亀井氏
小説「八つ墓村」では、連続殺人の謎を解くために、金田一耕助が事件関係者の家系図を調べる。すると、尼子の落武者たちを皆殺しにした際の首謀者・田治見庄左衛門の子孫が、田治見要蔵だということが判明した。400年後の現代、尼子の落武者の怨霊により田治見要蔵が、村人を32人殺害するという話なのだが、この田治見氏は、戦国期に、備中(現岡山県新見市あたり)の代官であった「多治部氏」と「新見氏」の名前からとったのだろうと推測される。このあたりの史実は、父の随筆「新見太平記」に記載がされている。



また、小説だと田治見要蔵の息子だと思っていた辰弥だが、実は、母、鶴子が昔深くお付き合いしていた亀井洋一の子だと判明する。この亀井氏は、戦国期の尼子家臣で、尼子再興軍結成時に羽柴秀吉と同行していた「亀井茲矩」から名をとったと思われる。


・横溝正史
横溝正史は、昭和20年(1945年)43歳のときに親戚である原田光枝の世話で岡山県吉備郡岡田村字桜に疎開をする。農作業などしながら疎開生活を送っているときに岡山地方の伝説・習俗などを学ぶ機会を得る。これがのちに岡山を舞台にしたたくさんの作品を書く土壌となったと言われている。

当時、中国地方に住む、老人から聞いた言い伝えや語り継がれてきたことを推理小説に反映したのだろう。このような事柄も、「ご先祖様は尼子の落人」と云い伝えられている身としては参考にしてしまう。

横溝正史クロニクル  - 年譜&年代順作品リスト -


・大庭葉蔵
これは、まったくもってトンチンカンな予測かもしれないが、今回、父とメールを始めたことによって、著名な本くらいを読もうと思い太宰治の「人間失格」を読んだことがある。それとなく選んだ本だったが、「人間失格」にでてくる主人公の名前、大庭葉蔵から、「八つ墓村」にでてくる「生まれてスミマセン」と思わせる人物、田治見要蔵の「要蔵」の文字は、「葉蔵」から転用し命名したのではないかと最近、思っている。横溝正史さんは、太宰治さんのことをリスペクトしていたのではないだろうか。


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