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■【より道‐17】随筆_『辰五郎と方谷』④‐⑥(長谷部さかな)


【短期連載④】

三万両の借用証文をめぐる足守藩との対立は、千屋牛の育成とともに、辰五郎伝の筋立ての大きな柱となっている。

ある日、太田家に賊が入り、三万両の借用証文を盗んだ。賊は足守藩が差し向けたものと見当をつけた辰五郎は、足守藩の領内に菅健作という男を派遣して、いったんは証文奪還に成功した。このとき、旅芝居の美しい女役者、深雪が琴路と名を変えて協力している。しかし、その後、辰五郎は、息子の八次郎を人質にとられて、身代金を支払わざるを得なくなった。身代金は、貸した金の倍額六万両だった。

士農工商の身分格差があった江戸時代には、このような理不尽なことがまかり通る。侍は「斬り捨て御免」といって、庶民を斬り殺しても罪に問われないという特権もあたえられていた。辰五郎や八次郎は、殺されなかっただけでも運が良かったというべきかもしれない。

身代金を支払うという屈辱を吞まされた辰五郎だが、砂鉄採取をめぐる足守藩との訴訟では勝った。

そもそも三万両の貸し金はこの訴訟とからんでいる。太田家では辰五郎の祖父左衛門の代から足守藩に金を用立てていた。いわゆる大名貸であるが、これは、鉄穴堀りで被害を蒙る高梁川下流の住民からの抗議を抑えるためという政略的な配慮がたぶんにあった。

上流で鉄穴堀りをすることによって、高梁川に濁流や土砂が流出し、下流では川床がうまって、稲作にも影響が出る。特に天保六年(1835年)の大洪水では、高梁川下流の田畑が泥水をかぶって大被害を蒙り、上流での砂鉄採取停止を求める訴訟に発展した。

足守藩は住民の抗議を援護して、上流での鉄穴堀を阻止しようと倉敷代官所を通じて強便に掛け合ってきた。辰五郎は受けて立った。先祖から受け継いできた事業をやめろと言われても、鉱山で働く大勢の人々の生活がかかっている。おいそれと引きさがるわけにはいかない。天保九年(1838年)、倉敷代官所で上流側と下流側の論争が行われたが、決着はつかず、ついに、江戸の奉行所へ訴えられた。

江戸訴訟は長引いた。一時は上流側に不利な方向に傾きそうな局面もあったが、丸三年目の天保十二年(1841年)十月、勘定奉行深谷盛房は、足守藩の控訴をしりぞけ、高梁川上流での砂鉄採取の続行を認めた。辰五郎の勝利である。

(つづく)


【短期連載⑤】

士農工商の身分差別があった時代に、一介の鉄山業者が大名を相手どって勝訴するとは、信じられないような話だが、その背景には特別の政治的な事情があった。

高梁川下流にあるのは足守藩の領地だけではない。備中松山藩や新見藩の領地もある。これらの藩の住民からも上流の鉄穴堀りへの訴えが出され、松山藩や新見藩がそのあと押しをしていれば、とうてい辰五郎の勝ち目はなかっただろう。しかし、新見藩や松山藩からの抗議はなかった。

伝記によれば、松山藩の藩主板倉周防守勝職(かつつね)は、辰五郎を豪邸に招き、次のような会話をかわしている。

(勝職は)はゝゝと高らかに笑い、辰五郎に盃をとらせて、

「下流の者たちがお前を水上の大蛇というはずじゃ」といった。

「恐れ入ります」

「だが、もしや今度の訴訟で、上流の砂鉄採取の停止はおろか、期間や場所に制約が加えられるようなことがあれば、高梁川ひとりの問題ではすまされないであろう」

「はい、そのように心得ます」

「備後の奴可川、伯耆の日野川、出雲の甲斐川、いずれもそれに準ずることになる」

「はい、山奥の住民は、みんな生活を失うことになります」

「住民もそうじゃが、この国が鉄を失うことになる」

「はーー」

「中国の山奥で生産される鉄は、全国の八割以上を占めている」

「はい、そのように伺っております」

「ことに、備中、備後、伯耆、出雲の四ヵ国でそのほとんどの鉄が生産されている。いまのところ砂鉄から鉄をとるより方法がないのだからのう」

勝職は、まだ五十には間のある年配だ。だが、一見平凡に見える彼の風貌もよくよく見ると凡人でないものがある。ことに度量の広さが辰五郎には強く感じられた。

「まあよい、争いは相方に言い分があってのことだ、しっかりやるがいい」

この会話の部分は、伝記作者の想像によるフィクションだと思うが、当時の状況からは、こういうこともあったかもしれないと、読者をうなずかせるだけの説得力がある。

(つづく)


【短期連載⑥】

板倉藩の藩主は、上流での砂鉄採取を認めるという方針をかためて、辰五郎を励ましている。同じ大名でも足守藩の木下家とは全く対応が違うが、その理由の一つは、江戸幕府の体制下では、板倉家が徳川家康以来の譜代大名であるのに対して、木下家が外様大名であったことによる。木下家は、もともとは、豊臣秀吉の糟糠の妻、寧々の実家だ。

外様大名の木下家は、徳川幕府の要職につくことはなかったが、譜代大名の板倉家は、初代勝重が京都所司代をつとめたのをはじめ、歴代の藩主が老中、三役、奏者番などをつとめた。辰五郎を呼び寄せた当時の勝職も奏者番だ。

当然ながら、日本という国の政治という観点では、譜代大名と外様大名では意識が違う。現代風にいえば、譜代大名は与党、外様大名は野党といってもいいだろう。木下備中守利愛が足守藩の利害だけを考えていたのに対して、板倉周防守勝職は松山藩だけではなく、幕府直轄地である天領の統治も視野において、鉄が日本の国にとって重要だということを認識していた。

その勝職によって、百姓から士分にとりたてられたのが、山田方谷である。勝職は、有能な人材であれば庶民からでも登用するという進歩的な考えの藩主だった。天保7年(1836年)、三十二歳の時、方谷は松山藩の藩校、有終館のが学頭(校長)に任命された。嘉永二年(1849年)、四十五歳のとき、勝職が引退して、婿養子の勝静(かつきよ)にあとを譲るまで、方谷はこの地位にいた。

一方、辰五郎が江戸訴訟で勝ったのは天保十二年(1842年)である。その頃、方谷は有終館の学頭をしていた。藩校の学頭は訴訟の助言をする 立場にはない。したがって、常識的には、嘉永二年(1849年)以前に、辰五郎が方谷と親交があったとは考えにくい。

やはり、方谷が元締に就任し、藩の財政改革に着手した時に、二人の親交が始まったとみるべきだろう。方谷は、改革の施策としてまず、負債の整理を実行した。嘉永三年(1850年)の十月、自ら大坂に出かけて、権者を集め、これまでの負債を新旧に応じて、十年あるいは、五十年の年限で返済すると いうことに成功した。

最大債権者は、大阪の商人だが、他にも藩内外に債権者はいた。辰五郎もその一人だ。「松山藩にも祖父の代から貸し金が万両に近いほどある」と、伝記にも 書いてある。足守藩に貸した三万両には及ばないが、その三分一程度は松山藩にも貸していたことは十分に考えられる。 

元締の方谷は、万両近い借金の債権者である辰五郎とも面談して、債務の返済期限の延 長を依頼したのではないだろうか。もちろん、辰五郎は快諾したはずである。

(つづく)


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